ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜


「なぜ、君の肩に火傷の痕(これ)がある……?」

 その傷痕を見た瞬間、アレクシスの心を埋め尽くしたのは困惑だった。

 初夜のときにはなかったはずの火傷の痕。
 だが、どう見ても今日できたものではない傷痕。
 それが長年探し求めていた少女の傷痕と同じ位置にあることに、酷く混乱した。

(いったいどういうことだ? 侍女からは、今日以前にエリスが怪我をしたという報告は受けていないが……)

 よもやエリスが『思い出の少女』であるという可能性など露ほども考えず、アレクシスは指先でそっと傷痕に触れる。

「エリス、この傷はいつできたんだ? 料理中か? 侍女からは、君が怪我をしたという報告は受けていないが」

 それは当然、エリスを心配する気持ちから出た言葉だった。
 けれどエリスから返ってきた答えは、全く予想外のものだった。

 エリスは、アレクシスの言葉を聞いて数秒固まった後、思い詰めたような顔でこう言ったのだ。

「お許しください、殿下。わたくしのこの肩の傷は、幼いときにわたくしの不注意で負ったもの。これを殿下に見られればきっと祖国に追い返されてしまうと思い、自らの一存で白粉を塗り、傷を隠し続けておりました。侍女たちも預かり知らぬことです。殿下を(たばか)ったこと、お詫びのしようもございません。罰はいかようにも」――と。

 そして、その瞬間だった。
 アレクシスの中に、『その可能性』が急浮上してきたのは。

「~~ッ!」

(いや、待て、待て待て待て。そんな……まさか、本当に……?)

 確かにエリスは、『あの少女』と名前も外見も同じだ。
 肩の傷も、幼い頃に負った傷だとたった今本人の口から聞いた。

 それだけではない。

 アレクシスは、舞踏会でのジークフリートの言葉を思い出す。
 二ヶ月前、王宮の中庭でジークフリートは言っていた。『シオンは六つのときにランデル王国に捨てられた』と。

(シオンはエリスの二つ年下。つまり、俺の六つ下だ。俺がランデル王国に滞在していたのは十二のときだから、エリスがシオンに同行していたと考えれば、辻褄は合う)

 それに、今日、川岸で兵たちが沸き立っていたことについてもだ。

(ああ、よく思い出せ。あのとき兵たちは何と言っていた? 確か、『見事な泳ぎでした』『どこで泳ぎを習われたのですか』『救助の経験がおありなのですか』と。俺はあれをリアムに掛けた言葉だと思っていたが、そもそもリアムは元海軍所属。リアムの隊員である彼らがそれを知らないはずがない。つまり、あれはエリスに向けた言葉だった、となると……)

 そもそも、アレクシスは今の今まで、エリスはただ、溺れた子供を放っておけずに無謀にも川に飛び込んだのだと思っていた。
 子供の救出活動は主にリアムが行ったのであろうと、そう信じて疑わなかった。

 けれど本当はそうでなかったとしたら。
 子供を救出できるという確かな根拠が、エリスにあったとするならば……。

「…………エリス」
「――っ、は……はい」

 アレクシスはその疑念を解消すべく、エリスに問いかける。

「君は以前にも、溺れた人間を助けた経験があるのか?」
「――え?」

 すると当然、エリスは驚いた顔をした。アレクシスが突然、脈絡のない質問をしたからだ。
 けれどエリスはすぐに、「はい」と控えめに頷く。

「子供のころに一度。川ではなく、湖でしたけれど」と。

 その答えに、アレクシスは今度こそ確信せざるを得なかった。
 目の前のエリスこそが、あのときの少女なのだと。

 探し求めていた彼女は、ずっと、こんなにも近くにいたのだと。

「――っ」
 
 自分を真正面から見つめる、不安と緊張の入り混じった瑠璃色の瞳。
 その眼差しに、アレクシスの心臓が大きく跳ねる。

(ああ、そうだ。十年前も君は今の様な目をしていた。自分が迷子だというのに、一人きりでいた俺を心配してどこまでも付いてきて。湖に落ちた俺を助けるために水に飛び込んで……俺よりもずっと小さい身体で、俺を岸に引き上げたんだ)

 ――ああ、それなのに。

 刹那、次にアレクシスの中に沸き上がったのは、とてつもない後悔と罪悪感だった。

 あの日の少女を見つけた嬉しさ以上に、エリスに対する申し訳なさと自身への怒りで、彼は自分の頬をぶん殴りたい気持ちでいっぱいになった。

(最悪だ。まさかエリスがあのときの少女だと気付かずに、俺はこれまで過ごしてきたというのか?)

 エリスが思い出の少女だと勝手に期待し、落胆し、別人だと思ったまま思いを募らせ、結局は同一人物でしたなどと、間抜けにもほどがある。

(もし今俺が彼女に思いを伝えたとして、過去のことについてはどう説明をする。今さら、湖で君が助けた相手は俺だったんだ、と感謝でも伝えるつもりか?)

 そんなことを言えば、今の自分の気持ちを、過去の思い出に重ねていると思われるのではないか。
 エリスへの恋慕ではなく、命の恩人に対する気持ちを拗らせているだけだと思うのではないか。

 そういった不安が心の中に膨れ上がり、アレクシスはどうしたらいいのかわからなくなった。

 けれどそれでも、アレクシスは心を決める。
 エリスにこの気持ちを伝えなければ、と。

 そうでなければ、本当の意味でエリスの誤解は解けやしない。
 『罰はいかようにも』などと覚悟を見せるエリスの心を開くには、自分の心をさらけ出すしかない。

 ――だから。

 アレクシスはごくりと喉を鳴らし、慎重に唇を開く。

「エリス、聞いてくれ。俺は君に罰を与えようなどと思っていない。侍女を咎めるつもりもない。なぜかわかるか?」

 川でリアムに見せた牽制の意味を、彼女は少しでも理解してくれているだろうか。
 ――いや、この様子ではきっと理解していないだろうなと思いながら、アレクシスはエリスの返事を待たずに、続ける。

「それは、俺が君を愛しているからだ、エリス。君は今さら何をと思うだろうが……俺は君が受け入れてくれるなら、これから本当の夫婦になっていきたいと思っている。――これが今日、俺が君に話そうと決めていた内容だ」と。

「――っ」

 刹那、エリスは文字通り放心した。
 アレクシスの言葉が、全く予期せぬものだったからだ。

(殿下が……わたしを愛している? 今、そう言ったの……?)

 正直、聞き間違いだと思った。

 エリスは、流石のアレクシスでも、傷を隠していたことについては確実に怒るだろうと考えていた。
 侍女たちに責がないことだけは理解してもらわなければと、それだけで頭がいっぱいだった。

 それに、そもそもアレクシスは大の女嫌い。
 そんな彼が自分を好きになるなど有り得ない――エリスはずっとそう思いながら、この半年間を過ごしてきたのだから。

 それなのに、アレクシスの口から出たのはまさかの愛の告白で。
 そんな状況に、驚くなと言う方が無理な話だ。

 茫然とするエリスに、アレクシスは更に続ける。

「俺は、君の正直な気持ちが聞きたい。嫌なら嫌と言ってくれて構わない。君は俺を『許す』と言ったが、それが『俺を好いている』という意味ではないことくらい理解しているつもりだ。だから、君が俺を拒否するならば、俺はこの先、君への気持ちを胸に秘めておくと決めている。それによって、君に不利益になるようなことはないと、約束する」
「…………」

 アレクシスの真剣な表情。
 期待と不安の入り混じった、乞う様な眼差し。

 その視線に、エリスは悟らざるを得なかった。

 今の言葉は紛れもなく彼の本心なのだと。
 そこに、嘘偽りはないのだと。

 そもそも、自分がアレクシスに媚びるならばいざ知らず、アレクシスが自分に嘘をつく必要など一つだってないのだから。

(つまり殿下は……本気で、私を……?)

「……っ」

 それを自覚した途端、エリスはぶわっと全身が熱くなるのを感じた。

 いったい自分のどこを好きになったのだろう。いつから思ってくれていたのだろう。
 花をプレゼントしてくれるようになった頃からだろうか。それとも、もっと前からだろうか。

 ああ、ということは、今日川でアレクシスがリアムに見せたあの態度は、本当にただの牽制だったということだろうか。

『俺の妃だ』『気やすく触れていい女ではない』と言い放ったアレは、彼の独占欲の表れだったと……そう考えていいのだろうか。

(そんな……でも、だって……)

 ならば、馬車の中で自分が何か言いかけたとき、アレクシスが言葉を遮ったのはいったいどうしてなのだろう。
 自分を腕に抱えて下ろさなかったのは、素足だったからだと説明された。でもそれは、アレクシスがずっと不機嫌だった理由の説明にはなっていなかった。

 だからエリスは、アレクシスから『他に何かあるなら言ってみろ』と言われ、悩んだのだ。
 これは聞いてもいい内容なのだろうかと。

 それがどうしても気になってしょうがなくなったエリスは、おずおずと口を開く。

「あの……殿下。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ああ、勿論だ」
「殿下は先ほど、わたくしを腕に抱えて下ろさなかったのは、わたくしが素足だったからだと、ご説明くださいましたが……」
「ああ。それがどうした?」
「では、わたくしが馬車の中で話しかけた際、どうして言葉を遮られたのですか? わたくしに怒っていなかったというなら、どうして……」
「――!」

 刹那、アレクシスはハッと瞳を見開いた。
 確かにエリスの言う通り、説明不足だったことに気付いたからだ。

 ――否。実際は説明不足などではなく、意図的に省いたと言った方が正しいだろうが。

 アレクシスはやや瞼を伏せ、躊躇いがちに唇を開ける。

「それは……俺が恐れたからだ。君に拒絶されることを、恐れたから」

 アレクシスは、言いにくそうに言葉を続ける。

「俺は先ほど君に伝えたな。『君が俺を拒否するならば、俺はこの先、君への気持ちを胸に秘めておくと決めている』と」
「……はい」
「俺は君が、川での俺の態度を見て、俺の気持ちに気付いたはずだと思ったんだ。だから馬車で君に話しかけられたとき、それについて言及されるのだろうと思い込んでしまった。つまり俺は、あの場で君に振られるのが嫌で、君の言葉を遮ってしまったんだ。今思えば、とても大人げない行動だったと反省している。……本当に、すまなかった」
「……!」

 申し訳なさそうに眉を寄せ、それでも、自分を真っすぐに見据えるアレクシスの眼差し。
 そこに潜む確かに熱情に、エリスは息をするのも忘れてしまいそうになった。

 傷の手当てのために掴まれたままの腕が――熱い。
 初夜のときとはまるで正反対の、熱を帯びた力強い瞳に、少しも目が逸らせなくなる。

「あっ……の……、わたくし……」

 ああ、こういうとき、いったい何と答えるのが正解なのだろう。

 ユリウスのときはどうしていただろうか。

『君が好きだ、エリス』と言って、額に唇を落とすユリウスに、『わたくしもです、殿下』と、返したとき、いったい何を考えていただろうか。

 ときめきは確かに存在していた。
 ユリウスを愛しいと、そう思う感情は間違いなくあった。

 けれど今の様に、喉元が締め付けられるような息苦しさを感じたことは、一度だってない。
 
(どうして……? あの頃はこんな気持ちにならなかったのに。こんな……、こんな風に胸がつかえることなんて、一度だってなかったわ)

 ユリウスを前にすると、いつだって安心できた。彼の優しい笑顔は、傷付いた心を癒やしてくれた。

 でもアレクシスは違う。
 今こうして改めてアレクシスに見つめられ、生じた感情。
 それは恐れこそないものの、強い緊張と、何かが腹の底からせり上がってくるような息苦しさ。それから、妙な動悸。
 どちらかと言えばネガティブなものだ。

 なら彼が嫌いなのかと聞かれれば、答えはノーで。
『愛している』と言われて、嬉しくないかと問われれば、その答えは『嬉しい』という一択しかなくて。



「エリス、やはり俺が恐いか? 俺に触れられるのは、嫌か?」


 そう尋ねるアレクシスの切実な表情を、もっとずっと自分に向けていてほしいと、自分は確かに願っていて――。

 エリスは自覚せざるを得なかった。

 この気持ちは単なる『情』ではなく、『恋』なのだと。
 自分もアレクシスのことが、少なからず好きなのだと。

「恐く、ないです……。嫌でも……ありませんわ、殿下」
「――!」

 そうでなければ、アレクシスの指先が傷痕に触れる度、どうしようもなく体が熱くなったことに説明がつかない。
 触れられた部分が火傷のように火照って感じたのは、単なる緊張ではなかったのだ。

(ああ、そうだったのね。……わたし)

 今だって、心臓の音が全身に響いている。
 この人の気持ちに答えたい。これからも一緒にいたい、と。

 自分とアレクシス、それぞれの熱量が同じかはわからないけれど。
 そんなことは、いくら言葉を交わしたところで一生わかるはずもないけれど――それでも。

「わたくし……正直、まだよくわからないのです。殿下を愛しているかどうか……。でも……」

 エリスはアレクシスを見つめ、今の精いっぱいの気持ちを告白する。

「わたくしは、殿下とこれからも一緒にいたいと思っております。殿下と、本当の夫婦になれたらと……そう願う気持ちは、同じです」
「……エリス。――では……」
「はい。ふつつかなわたくしではございますが、どうかこの先も、殿下のお側に置いていただきたく、お願い申し上げます」

 そう言って微笑むと、アレクシスは感極まったのか、カッと両目を見開き、次の瞬間――。

「ああ、勿論だ……!」

 ――と声を震わせて、エリスの身体を抱き寄せた。

 エリスに比べ二周りも三周りも大きなアレクシスの身体が、エリスの身体をすっぽりと胸に収め、その耳元で、問いかける。
 
「これからは、こうして抱き締めても構わないんだな?」

 その問いにエリスがこくりと頷くと、アレクシスは嬉しさのあまり、一層腕に力を込めた。
 もう放さないとでもいうようにエリスをしっかりと腕に抱き、その柔らかさをひとしきり堪能したあと――思い立ったように唇を開く。

「エリス……、今の今言うことではないとわかってはいるんだが」と。

 その声にエリスが顔を上げると、アレクシスはじっとエリスを見下ろし、真顔で告げた。

「俺は、君との初夜をやり直したいと思っている。勿論、君の心の準備ができたときでいい。少し、考えておいてくれないか?」
「……それって」
「当然、そういう意味だ」
「……っ」

 ――本当は、今すぐにでも押し倒してしまいたい。
 このまま唇を奪って、抱いてしまいたい。

 けれど初夜のことや怪我のこともあり、流石にすぐというのは(はばか)られた。
 かと言って、こうしてエリスを抱き締めその感触を知ってしまった今、いつまでもお預けをくらうというのはとても耐えられそうにない。

 だからアレクシスは、全ての恥とプライドをかなぐり捨てて、こうして尋ねてみたのだが……。

 エリスから返ってきたのは、まさかの内容だった。

「あ……、その……わたくしは、いつでも……」
「――!?」

(いつでも、だと……!?)

 驚きのあまり絶句するアレクシスに、エリスは顔を真っ赤にしながら呟く。

「だって、殿下のおっしゃられた『本当の夫婦』の意味は、そういうことでございましょう?」
「それは……確かにその通りだが……」
「わたくしは、殿下の妃ですもの。とっくにその覚悟はできております。それに……あの……非常に言いにくいのですが……、先ほどから……その…………殿下の、――が……」
「……?」
「あっ……、当たっているのです……! わたくしの……っ、あ……あ、……脚にっ」
「――!?」

 すると言い終えた瞬間、エリスは恥ずかしさが天元突破したのだろう。
 両手でパッと顔を覆い、耳まで真っ赤に染め上げた。

 そんなエリスの様子に全てを悟ったアレクシスは、

「すっ、すまない! これは生理現象だ!」

 などとよくわからないことを口走りながら、すぐさまエリスを膝上からベッドへと下ろす。

 ――もはやムードもへったくれもない。

 が、アレクシスにとって今最も重要なのはそんなことではなかった。
 聞き間違いでなければ、エリスは今、『これから初夜のやり直しをしてもいい』と言ったのだから。
  
(本来なら、エリスの怪我の全快を待ってからすべきことだが……)

 エリスにここまで言わせておいて、『今日はやめておこう』と言うのは、彼女に恥をかかせることになるのでは。
 いや、たとえそうでなくとも、せっかくのチャンスをふいにするわけにはいかない。

 アレクシスは、未だ顔を覆ったままのエリスの腕をそっと掴んでどけると、赤く染まった顔を覗き込む。

「今の言葉……本当だな? 途中でやめたいと言っても、やめてやれないが」

 そう念押しすると、エリスはこくりと頷いて――。


「――っ」


 刹那、気付いたときには、アレクシスはエリスの唇を塞いでいた。
 勢いのままエリスの身体を押し倒し、奪うようなキスを繰り返す。

 もう、思い悩むことは何もない、とでも言うように。


「痛かったら言え。やめてはやれないが、加減はする。――愛している、エリス」
「……っ」


 熱っぽい瞳でエリスを見下ろし――もはや少しも待ち切れないと――何度も、何度でも、エリスの白い柔肌に唇を落としていった。