ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜


 アレクシスは腕の消毒をし始めながら、エリスの言葉を待つ。
 するとエリスは、慎重に唇を開いた。

「今の殿下は……少し、恐いです。……だって殿下は、わたくしに怒っていらっしゃるでしょう? 川でわたくしが一緒にいた、リアム様との仲を……殿下は……誤解していらっしゃるから」
「…………。………!?」

 ――が、エリスの口から出た言葉に、アレクシスは目を見開いた。
 その言葉の意味が、すぐには理解できなかったからだ。

 アレクシスは確かに怒っていたが、それはエリスとリアムの仲を疑っているからでは微塵もないし、そもそも、アレクシスがエリスの口から聞きたいのは、そんな話ではない。

 困惑を隠せないアレクシスに、エリスは言葉を続ける。

「信じてくださらないかもしれませんが、あの方とは帝国図書館で一度お会いしたことがあるだけなのです。今日も子供たちを追いかけているときに、偶然出くわしただけのこと。ですからわたくし、殿下を裏切る真似は決してしておりませんわ。神に誓って」
「…………」

 首から上をこちらに向け、懇願するように自分を見上げるエリスの瞳。
 紫がかった美しい瑠璃色の瞳を、不安と緊張に揺らしながら、それでも、しっかりとした意思を込めて見つめてくる。

 けれどその眼差しの理由が、アレクシスにはわからなかった。

(何だ……? エリスは、彼女は、いったい何を言っている?)

 アレクシスは混乱しつつも、必死に思考を巡らせる。

(今の言葉は、つまり、俺がエリスとリアムの仲を疑っていて、そのせいで俺が怒っていると……そういう内容だった。だがエリスは、それは誤解であると言っている。そういうことか?)

 確かに川での自分の行動を思い返すと、そう思われても仕方のない言動をしていたかもしれない。
 ならば一先ず、誤解は解いておいた方がいいだろう。

「エリス、まず言っておく。俺は君とリアムの仲を疑ってはいない。俺は君が不貞を働くような女性だとは思っていないし、そもそもあいつ――リアムは俺の古い友人で、今日俺は君と会う前に、リアムと会う約束をしていたんだ。まあ実際は、川に落ちた子供を救出していたからか、待ち合わせ場所には現れなかったが」
「……!」
「つまり、俺は君が、俺との約束を破ってリアムと祭りを回ろうとしていたなどとは少しも思っていない。――のだが、これでその誤解は解けたか?」
「……っ、で……でも……、だったら、どうして殿下はずっと……」
「ずっと……何だ?」
「ずっと、怒っていらしたでしょう?」
「……!」

 エリスは声を震わせて、それでも、必死に訴える。

「わたくしは、殿下がわたくしとリアム様の仲をお疑いになっていて、だからずっとご機嫌が悪いのだと思っていたのです。馬車の中でも、部屋に戻るまでもずっと、殿下はわたくしをお放しにならなかった。わたくしはそれを、『罰を与えるために逃がさないようにする』ためだと思っておりましたのに……」
「――!? なぜそうなる!? 俺はそんなに非道な男に見えるのか!? ……いや、見えるか。……見えるんだろうな……」

 これは他にも色々と誤解されていそうだ。
 一刻も早く食い違った部分を洗い出し、誤解を解かなければ。

「俺が馬車の中でも、宮でも君を下ろさなかったのは、君が素足だったからだ。まさか裸足で歩かせるわけにはいかないだろう」

 アレクシスは冷静に説明する。
 すると、エリスは驚きに顔を染めた。

「……え? それだけ、ですの……?」
「まぁ、他にも理由は色々あるが。水に浸かった君の身体をあれ以上冷やさないようにという目的もあったし、俺が運んだ方が速いという理由も。――とにかく、俺は君に怒っていない。確かにリアムが君の肩を抱いているのを見たときは頭に血が昇ったが、妻のあんな場面を目撃して、平気でいられる方がおかしいと思わないか?」
「……そ……そう、ですわよね」
「いや別に、君を責めているわけじゃないんだが」
「……はい、それは、理解しました」

 頷きつつも、はやりどこか腑に落ちない様子のエリスに、アレクシスの心には漠然とした不安が残った。

(本当に理解しているのか?)

 と、そんな風に思ってしまう。

 だがこれらは全て自分が蒔いた種である。自分がどこまでも言葉足らずな上、エリスの話を遮ってしまったが故に生まれた誤解。
 ならば、ここで一つずつ解いていくしかない。

「エリス。他にも何かあるなら言ってみろ。今度はちゃんと聞く」

 アレクシスがそう伝えると、エリスは再び驚いた顔をして、少しの間考え込む。

 アレクシスはその横顔に『時間がかかりそうだな』と判断し、腕の手当てを終えてしまおうとドレスの袖を大きく(まく)し上げた――そのときだ。

「――!」

 治療対象の二の腕の傷よりも少し上に、赤い何かが覗いた気がして、アレクシスは大きく眉をひそめた。
 侍女の報告ではこの位置に傷はなかったはずだが――そう思いながら、袖を更に上へと捲り上げる。

 するとそこにあったのは――。


「……なぜだ。どうして、君の肩に火傷の痕(これ)がある……?」


 ――明らかに今日できたものでない、火傷の古傷だったのである。
 

「なぜ、君の肩に火傷の痕(これ)がある……?」

 その傷痕を見た瞬間、アレクシスの心を埋め尽くしたのは困惑だった。

 初夜のときにはなかったはずの火傷の痕。
 だが、どう見ても今日できたものではない傷痕。
 それが長年探し求めていた少女の傷痕と同じ位置にあることに、酷く混乱した。

(いったいどういうことだ? 侍女からは、今日以前にエリスが怪我をしたという報告は受けていないが……)

 よもやエリスが『思い出の少女』であるという可能性など露ほども考えず、アレクシスは指先でそっと傷痕に触れる。

「エリス、この傷はいつできたんだ? 料理中か? 侍女からは、君が怪我をしたという報告は受けていないが」

 それは当然、エリスを心配する気持ちから出た言葉だった。
 けれどエリスから返ってきた答えは、全く予想外のものだった。

 エリスは、アレクシスの言葉を聞いて数秒固まった後、思い詰めたような顔でこう言ったのだ。

「お許しください、殿下。わたくしのこの肩の傷は、幼いときにわたくしの不注意で負ったもの。これを殿下に見られればきっと祖国に追い返されてしまうと思い、自らの一存で白粉を塗り、傷を隠し続けておりました。侍女たちも預かり知らぬことです。殿下を(たばか)ったこと、お詫びのしようもございません。罰はいかようにも」――と。

 そして、その瞬間だった。
 アレクシスの中に、『その可能性』が急浮上してきたのは。

「~~ッ!」

(いや、待て、待て待て待て。そんな……まさか、本当に……?)

 確かにエリスは、『あの少女』と名前も外見も同じだ。
 肩の傷も、幼い頃に負った傷だとたった今本人の口から聞いた。

 それだけではない。

 アレクシスは、舞踏会でのジークフリートの言葉を思い出す。
 二ヶ月前、王宮の中庭でジークフリートは言っていた。『シオンは六つのときにランデル王国に捨てられた』と。

(シオンはエリスの二つ年下。つまり、俺の六つ下だ。俺がランデル王国に滞在していたのは十二のときだから、エリスがシオンに同行していたと考えれば、辻褄は合う)

 それに、今日、川岸で兵たちが沸き立っていたことについてもだ。

(ああ、よく思い出せ。あのとき兵たちは何と言っていた? 確か、『見事な泳ぎでした』『どこで泳ぎを習われたのですか』『救助の経験がおありなのですか』と。俺はあれをリアムに掛けた言葉だと思っていたが、そもそもリアムは元海軍所属。リアムの隊員である彼らがそれを知らないはずがない。つまり、あれはエリスに向けた言葉だった、となると……)

 そもそも、アレクシスは今の今まで、エリスはただ、溺れた子供を放っておけずに無謀にも川に飛び込んだのだと思っていた。
 子供の救出活動は主にリアムが行ったのであろうと、そう信じて疑わなかった。

 けれど本当はそうでなかったとしたら。
 子供を救出できるという確かな根拠が、エリスにあったとするならば……。

「…………エリス」
「――っ、は……はい」

 アレクシスはその疑念を解消すべく、エリスに問いかける。

「君は以前にも、溺れた人間を助けた経験があるのか?」
「――え?」

 すると当然、エリスは驚いた顔をした。アレクシスが突然、脈絡のない質問をしたからだ。
 けれどエリスはすぐに、「はい」と控えめに頷く。

「子供のころに一度。川ではなく、湖でしたけれど」と。

 その答えに、アレクシスは今度こそ確信せざるを得なかった。
 目の前のエリスこそが、あのときの少女なのだと。

 探し求めていた彼女は、ずっと、こんなにも近くにいたのだと。

「――っ」
 
 自分を真正面から見つめる、不安と緊張の入り混じった瑠璃色の瞳。
 その眼差しに、アレクシスの心臓が大きく跳ねる。

(ああ、そうだ。十年前も君は今の様な目をしていた。自分が迷子だというのに、一人きりでいた俺を心配してどこまでも付いてきて。湖に落ちた俺を助けるために水に飛び込んで……俺よりもずっと小さい身体で、俺を岸に引き上げたんだ)

 ――ああ、それなのに。

 刹那、次にアレクシスの中に沸き上がったのは、とてつもない後悔と罪悪感だった。

 あの日の少女を見つけた嬉しさ以上に、エリスに対する申し訳なさと自身への怒りで、彼は自分の頬をぶん殴りたい気持ちでいっぱいになった。

(最悪だ。まさかエリスがあのときの少女だと気付かずに、俺はこれまで過ごしてきたというのか?)

 エリスが思い出の少女だと勝手に期待し、落胆し、別人だと思ったまま思いを募らせ、結局は同一人物でしたなどと、間抜けにもほどがある。

(もし今俺が彼女に思いを伝えたとして、過去のことについてはどう説明をする。今さら、湖で君が助けた相手は俺だったんだ、と感謝でも伝えるつもりか?)

 そんなことを言えば、今の自分の気持ちを、過去の思い出に重ねていると思われるのではないか。
 エリスへの恋慕ではなく、命の恩人に対する気持ちを拗らせているだけだと思うのではないか。

 そういった不安が心の中に膨れ上がり、アレクシスはどうしたらいいのかわからなくなった。

 けれどそれでも、アレクシスは心を決める。
 エリスにこの気持ちを伝えなければ、と。

 そうでなければ、本当の意味でエリスの誤解は解けやしない。
 『罰はいかようにも』などと覚悟を見せるエリスの心を開くには、自分の心をさらけ出すしかない。

 ――だから。

 アレクシスはごくりと喉を鳴らし、慎重に唇を開く。

「エリス、聞いてくれ。俺は君に罰を与えようなどと思っていない。侍女を咎めるつもりもない。なぜかわかるか?」

 川でリアムに見せた牽制の意味を、彼女は少しでも理解してくれているだろうか。
 ――いや、この様子ではきっと理解していないだろうなと思いながら、アレクシスはエリスの返事を待たずに、続ける。

「それは、俺が君を愛しているからだ、エリス。君は今さら何をと思うだろうが……俺は君が受け入れてくれるなら、これから本当の夫婦になっていきたいと思っている。――これが今日、俺が君に話そうと決めていた内容だ」と。

「――っ」

 刹那、エリスは文字通り放心した。
 アレクシスの言葉が、全く予期せぬものだったからだ。

(殿下が……わたしを愛している? 今、そう言ったの……?)

 正直、聞き間違いだと思った。

 エリスは、流石のアレクシスでも、傷を隠していたことについては確実に怒るだろうと考えていた。
 侍女たちに責がないことだけは理解してもらわなければと、それだけで頭がいっぱいだった。

 それに、そもそもアレクシスは大の女嫌い。
 そんな彼が自分を好きになるなど有り得ない――エリスはずっとそう思いながら、この半年間を過ごしてきたのだから。

 それなのに、アレクシスの口から出たのはまさかの愛の告白で。
 そんな状況に、驚くなと言う方が無理な話だ。

 茫然とするエリスに、アレクシスは更に続ける。

「俺は、君の正直な気持ちが聞きたい。嫌なら嫌と言ってくれて構わない。君は俺を『許す』と言ったが、それが『俺を好いている』という意味ではないことくらい理解しているつもりだ。だから、君が俺を拒否するならば、俺はこの先、君への気持ちを胸に秘めておくと決めている。それによって、君に不利益になるようなことはないと、約束する」
「…………」

 アレクシスの真剣な表情。
 期待と不安の入り混じった、乞う様な眼差し。

 その視線に、エリスは悟らざるを得なかった。

 今の言葉は紛れもなく彼の本心なのだと。
 そこに、嘘偽りはないのだと。

 そもそも、自分がアレクシスに媚びるならばいざ知らず、アレクシスが自分に嘘をつく必要など一つだってないのだから。

(つまり殿下は……本気で、私を……?)

「……っ」

 それを自覚した途端、エリスはぶわっと全身が熱くなるのを感じた。

 いったい自分のどこを好きになったのだろう。いつから思ってくれていたのだろう。
 花をプレゼントしてくれるようになった頃からだろうか。それとも、もっと前からだろうか。

 ああ、ということは、今日川でアレクシスがリアムに見せたあの態度は、本当にただの牽制だったということだろうか。

『俺の妃だ』『気やすく触れていい女ではない』と言い放ったアレは、彼の独占欲の表れだったと……そう考えていいのだろうか。

(そんな……でも、だって……)

 ならば、馬車の中で自分が何か言いかけたとき、アレクシスが言葉を遮ったのはいったいどうしてなのだろう。
 自分を腕に抱えて下ろさなかったのは、素足だったからだと説明された。でもそれは、アレクシスがずっと不機嫌だった理由の説明にはなっていなかった。

 だからエリスは、アレクシスから『他に何かあるなら言ってみろ』と言われ、悩んだのだ。
 これは聞いてもいい内容なのだろうかと。

 それがどうしても気になってしょうがなくなったエリスは、おずおずと口を開く。

「あの……殿下。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ああ、勿論だ」
「殿下は先ほど、わたくしを腕に抱えて下ろさなかったのは、わたくしが素足だったからだと、ご説明くださいましたが……」
「ああ。それがどうした?」
「では、わたくしが馬車の中で話しかけた際、どうして言葉を遮られたのですか? わたくしに怒っていなかったというなら、どうして……」
「――!」

 刹那、アレクシスはハッと瞳を見開いた。
 確かにエリスの言う通り、説明不足だったことに気付いたからだ。

 ――否。実際は説明不足などではなく、意図的に省いたと言った方が正しいだろうが。

 アレクシスはやや瞼を伏せ、躊躇いがちに唇を開ける。

「それは……俺が恐れたからだ。君に拒絶されることを、恐れたから」

 アレクシスは、言いにくそうに言葉を続ける。

「俺は先ほど君に伝えたな。『君が俺を拒否するならば、俺はこの先、君への気持ちを胸に秘めておくと決めている』と」
「……はい」
「俺は君が、川での俺の態度を見て、俺の気持ちに気付いたはずだと思ったんだ。だから馬車で君に話しかけられたとき、それについて言及されるのだろうと思い込んでしまった。つまり俺は、あの場で君に振られるのが嫌で、君の言葉を遮ってしまったんだ。今思えば、とても大人げない行動だったと反省している。……本当に、すまなかった」
「……!」

 申し訳なさそうに眉を寄せ、それでも、自分を真っすぐに見据えるアレクシスの眼差し。
 そこに潜む確かに熱情に、エリスは息をするのも忘れてしまいそうになった。

 傷の手当てのために掴まれたままの腕が――熱い。
 初夜のときとはまるで正反対の、熱を帯びた力強い瞳に、少しも目が逸らせなくなる。

「あっ……の……、わたくし……」

 ああ、こういうとき、いったい何と答えるのが正解なのだろう。

 ユリウスのときはどうしていただろうか。

『君が好きだ、エリス』と言って、額に唇を落とすユリウスに、『わたくしもです、殿下』と、返したとき、いったい何を考えていただろうか。

 ときめきは確かに存在していた。
 ユリウスを愛しいと、そう思う感情は間違いなくあった。

 けれど今の様に、喉元が締め付けられるような息苦しさを感じたことは、一度だってない。
 
(どうして……? あの頃はこんな気持ちにならなかったのに。こんな……、こんな風に胸がつかえることなんて、一度だってなかったわ)

 ユリウスを前にすると、いつだって安心できた。彼の優しい笑顔は、傷付いた心を癒やしてくれた。

 でもアレクシスは違う。
 今こうして改めてアレクシスに見つめられ、生じた感情。
 それは恐れこそないものの、強い緊張と、何かが腹の底からせり上がってくるような息苦しさ。それから、妙な動悸。
 どちらかと言えばネガティブなものだ。

 なら彼が嫌いなのかと聞かれれば、答えはノーで。
『愛している』と言われて、嬉しくないかと問われれば、その答えは『嬉しい』という一択しかなくて。