「どうやら救助は終わったようですね。子供は二人とも無事なようです」
兵の言葉に、アレクシスは欄干から下――五十メートルほど下流の土手に目を凝らす。
すると確かに、土手の比較的平らなところに兵たちが集まって、何やら盛り上がっていた。
声までは聞こえないが、あの様子からすると死者や重傷者がいないことは確かだろう。
アレクシスはひとまず安堵したが、とはいえ、念の為自分でも状況を確認しておきたい。
そう考えたアレクシスは、ひとり土手を下り、兵たちの元へ向かっていった。
二年ぶりに再会するリアムに、何と言葉をかければいいだろうか。上官として、『よくやった』と褒めてやらねばならないだろうか――と考えながら。
けれど、その思いは一瞬にして消え失せてしまった。
そこにエリスの姿を見つけたからだ。
「…………!」
兵たちの中心にいたのは、リアムに背中を支えられ、子供二人を抱き締めているエリスの姿。
(エリス……? なぜここに。それに、その姿は……)
びりびりに引き裂かれたドレスの裾。全身から滴り落ちる雫。
前髪は額にべったりと張り付き、水を吸った服は、エリスの身体のラインをあられもなく強調している。
それによく見れば、ところどころ肌が擦り剝けて赤く滲んでいた。
朝自分を送り出してくれたときとはまるで別人のように、痛々しいエリスの姿。
それを目の当たりにしたアレクシスは、全身からさぁっと血の気が引くのを感じた。
(いったい、これはどういうことだ?)
アレクシスは混乱した。
つまり、子供を助けようとして飛び込んだ婦人というのはエリスのことだったのだろう――が、そもそも、どうしてエリスがこのような場所にいるのだろうか。
安全な広場の中にいるはずの彼女が、なぜ川に飛び込むような危険なことをしているのか。
――それに……。
(リアム・ルクレール……どうして、お前がそこにいる?)
なぜお前が、彼女の隣に立っている?
そんなに優しそうな顔をして――なぜ、彼女に触れている? なぜお前が、エリスの肩を抱いているんだ……?
茫然と立ち竦むアレクシスの視線の先で、リアムがエリスの耳元でそっと何かを囁いた。
それに答えるように、エリスの唇が動く。「そんな……いけません、リアム様」と。
「……ッ!」
声は聞こえなかった。けれど、確かにエリスの唇は「リアム」と――そう動いていた。
(ハッ……、「リアム」だと?)
刹那、アレクシスの中に沸き上がったのは猛烈な怒りだった。
嫉妬、憤怒、焦燥――そういったものがアレクシスの中に渦巻いて、全ての理性を奪っていった。
アレクシスは無理やり兵たちを押しのけリアムの背後に立つと、一瞬のうちにリアムの腕を捻り上げる。
「お前、いったい誰の許可を得て、俺の妃に触れている?」
そう低い声で威嚇した。
するとリアムは痛みに顔を歪ませて背後を振り返り――次の瞬間には、驚きに目を見開く。
「殿下……?」と呆気にとられたように呟いて、更に遅れて、「……妃?」と疑問を零す。
それもそのはず。
リアムは、エリスがアレクシスの妃であることも、何なら「エリス」という名前でさえ、聞いていないのだから。
――リアムだけではない。この場の兵の誰一人として、エリスがアレクシスの妃であることを知る者はいなかった。
そもそも皇子妃というのは、夫である皇子以外の男性に顔を晒すことをよしとされない。
舞踏会や夜会は別として、プライベートでの男性との付き合いなど言語道断である。
つまり、リアムを除いて全員が平民出身であるこの場の兵たちは、エリスの顔を知らないのだ。
もちろんアレクシスとて、そのことはよく理解していた。
それに今のリアムの反応からも、エリスが皇子妃であることを知らなかったことは明白だ。
けれどそれでも、アレクシスは許せなかった。
エリスがリアムの名前を呼んだという――些細な事実が。
アレクシスは、突然の展開に驚いているエリスの腕を引き寄せて、自身の腕の中に閉じ込める。
そしてリアムを真っ向から睨みつけ、明言する。
「これは俺の妃だ。お前が気安く手を触れていい女ではない」
「……!」
よもや、アレクシスの口から絶対に出ないような言葉に、そして彼の全身からほとばしる強い殺気に、リアムはごくりと息を呑んだ。
周りの兵たちも、子供二人も、アレクシスの剣幕に茫然自失していた。
まるでここが戦場であるかのような緊迫感。
そういう空気が、この場の全てを支配していた。
何一つ言い返せないリアムを放置し、アレクシスはエリスを問答無用で抱きかかえる。
そしてリアムに背を向けると、冷めた声で言い放った。
「リアム、これだけは言っておく。俺はオリビアを妃に迎えるつもりは毛頭ない。――よく覚えておけ」
「……ッ」
この言葉に、再びぐっと息を呑むリアム。
そんなリアムを残し、アレクシスはエリスを腕に抱いたまま、その場を後にした。
その後、アレクシスと共にエメラルド宮に戻ったエリスは、医者が到着するまでの間に浴室で身体を温めていた。
一旦湯に浸かった後、侍女たちによって髪を洗われ、裸のまま全身をくまなくチェックされる。
傷の種類、位置、大きさを、ひとつ残らず丁寧に確認された。
というのも、祭りの影響で医師の到着が遅れることを予想したアレクシスが、侍女たちにこう命じたからだ。
「擦り傷一つ見逃すな。もし悪化でもしようものなら、お前たちは一人残らず全員首だ」と。
当然その言葉は、エリスを心配する気持ちから出た言葉だったが、これを全く逆の意味――つまり、『お前の浅はかな行動のせいで使用人が責めを負うことになるんだぞ』と解釈したエリスは、入浴中にも関わらず、終始顔が青ざめていた。
(どうしましょう。殿下のご機嫌を損ねてしまった。きっと殿下は、わたしが自分との約束を破り、別の男性と過ごすような女だと誤解している。わたしのせいで、侍女たちが首になるなんてことになったら……)
エリスは、土手に現れたときのアレクシスの剣幕や、馬車の中での冷たい横顔を思い出し、あまりの不安に身を震わせた。
リアムと共に、アデルとシーラを救助し終えてすぐのこと。
突然アレクシスが姿を現したと思ったら、次の瞬間にはリアムの腕を捻り上げていた。
それも、烈火のごとく形相で――。
エリスはそんなアレクシスの姿を目の当たりにし、瞬時に悟った。
ああ、この人は誤解している、と。
(確かに殿下が現れる直前、リアム様はわたしの肩を抱いていた。でもあれは、他の兵からわたしの姿を隠そうとしてくれてのことだった。お互いに、まったく他意はなかったのに……)
きっとアレクシスは自分のことを、身持ちの軽い女だと思ったはずだ。
誰にでも肌を許すようなふしだらな女だと、軽蔑したはず。
だって彼は以前言っていたのだから。
初夜のことを謝られた際、『君が"乙女ではない"と誤解していた。それであんなことをした』と。
エリスはその意味がわからないほど馬鹿ではなかったし、ユリウスとのことで、嫌というほど思い知らされていた。
男というのは、妻にどこまでも貞淑さを求めるものである、と。
もちろん、エリス自身もそうあるべきだと思うし、そうあろうと思っている。
ユリウスの婚約者であったときも、今も、操を破ったことはない。そんなことを考えたこともない。
けれど、一度疑われたら取り返しがつかないのだ。
ましてアレクシスは大の女性嫌い。そんな彼に「誤解だ」と言ったって、簡単に信じてくれるとは思えない。
それは、馬車の中でのアレクシスの冷たい態度からしても明らかだ。
(わたしが何を言おうとしても、殿下は『話なら後で聞く』と仰るばかりで、取り付く島もなかった。せっかく信頼を築けていたと思ったのに……これでは……)
エリスは、胸に広がる暗澹たる思いに、どうにかなってしまいそうだった。
よもや彼女は、アレクシスが自分を愛していて、それ故に、リアムとの仲に嫉妬しているなどという考えには、全く思い当たらなかった。
川岸でアレクシスが見せた怒りも、リアムへの牽制も、全ては自分に対する警告だと信じて疑わなかったし、アレクシスがリアムに残した捨て台詞『オリビアを妃にするつもりはない』という言葉など、誤解されたと思うショックのあまり、全く聞こえていなかった。
馬車の中や、宮に着いてから部屋に戻るまでの間、終始腕に抱き抱えられていたことについては、『罰を与えるまでは決して逃がさない』という意思の表れであると、盛大に勘違いしていた。
とはいえ、アレクシスがかつてないほどに殺気立っていたのは事実であり、エリスが誤解してしまうのも致し方ないことだった。
エリスが悪い想像を膨らませているうちに、傷の確認が終わったようだ。
いつの間にか、就寝用のドレスを着せられている。
(もしかして、これも殿下の指示かしら。まさかとは思うけど、殿下自ら傷を数えて、侍女たちの報告に間違いがないか確かめるなんておつもりじゃ……)
そんな有り得ない可能性に思い至り、エリスはゾッと背筋を凍らせた。
すると侍女たちは何を勘違いしたのか、エリスの手を取り、優しく声をかけてくれる。
「エリス様、ご安心を。痕の残りそうな傷はありませんでしたから」
「川に飛び込んだと聞いたときは驚きましたが、これくらいで済んでようございました」
「ですが、今後は決してこんな危険な真似はおやめになってくださいね。殿下のためにも、わたくしたちのためにも……」
「……っ」
刹那――侍女たちの真っすぐな眼差しに、エリスはハッと我に返った。
いけない。全ては自分の妄想だ。考えすぎる悪い癖だ。
「……ええ、そうよね。心配をかけて、ごめんなさい」
エリスは侍女たちに微笑み返す。
アデルとシーラを助けたことに後悔はない。川に飛び込んだのも、確かに勝算があったからだ。
だが、こうして心配してくれる侍女たちのことを、自分は少しでも考えただろうか。
自分の浅はかな行動で、彼女たちに迷惑をかけてしまうかもしれないと、想像しただろうか。
エリスは、ぐっと拳を握りしめる。
(とにかく、殿下の誤解を解かなければ)
浴室の向こう、寝室には、アレクシスがいるはずだ。
『身体を温めたら傷の手当てをする。それが終わったら、君に話がある』と、そう言っていたから。
(しっかりするのよ、エリス。ユリウス殿下のときの二の舞にだけは、絶対にならないように)
エリスは覚悟を決め、きゅっと唇を引き結ぶ。
そして侍女たちに促され、扉の向こうへと、足を一歩踏み出した。
それからほんのすぐのこと、エリスは大いに混乱していた。
なぜなら今彼女の前には、床に跪き、自分の右足の傷を丁寧に消毒している、アレクシスの姿があるからである。
(いったい、これはどういう状況なの……?)
――今から少し前、アレクシスの誤解を解かねばと意気込むエリスを待っていたのは、アレクシスのこんな一言だった。
「傷の手当ては俺がする。お前たちは全員下がれ」と。
侍女から受け取った『エリスの怪我一覧』の紙に目を通すなり、アレクシスはそう言ったのだ。
当然その場はざわついた。
皇子であるアレクシスが他人の傷の治療をするなど、戦場でもなければ決して有り得ないことだからだ。
とはいえ、侍女たちはアレクシスのエリスに対する恋心にとっくの前から気付いていたので、
「殿下がそのようなことをせずとも」
「手当てならばわたくしたちでもできますのに」
「ですが殿下のご命令ならば従うほかありませんわ」
と、見事な掛け合いを見せ一斉に退室していった。
そうして今現在、エリスはアレクシスに命じられるがままベッドに腰かけ、右足を差し出し、傷の手当てを受けている次第である。
(まさか、本当に殿下自ら傷の手当てをされるなんて……。てっきりわたしは、殿下に糾弾されるものだとばかり……)
最初エリスは、『悪い予感が当たってしまった』と、今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
傷の手当というのは口実で、きっとアレクシスは自分を責めるために侍女たちを退室させたのだろうと。傷の数が一つでも違えば、自分を責めたのち、侍女たちに責任を取らせるのだと、そう思ったからだ。
だが、いざ二人きりになってみたらどうだろう。
アレクシスは――相変わらず顔つきは険しいものの――適切な治療を手際よく施していく。
しかもその手つきはどこまでも優しく丁寧で、まるでこれから自分に罰を与えようとする者の行動とはとても思えない。
(もしかして、もう怒っていらっしゃらないのかしら……)
エリスは一度はそう思ったものの、内心すぐに首を振った。
――いいえ、そんなはずはない、と。
(だって殿下は今も全然お話にならないし、お顔も険しいままだもの。わたしに対して怒っていらっしゃるのは、間違いないわ)
実際のところ、確かにアレクシスは怒っていた。
だがその理由はエリスの不貞を疑っているのではなく、危険を承知で川に飛び込んだことに対してであったし、そもそも、今のアレクシスの心の大半を埋めているのはリアムへの嫉妬――ですらなく、自身の自制心のなさに対する後悔だった。
というのも、アレクシスはエリスが入浴している間に川での自分の行動を思い起こし、猛反せずにはいられなかったからだ。
(あんな公衆の面前で、俺は何と大人げないことを……)
リアムの腕を捻り上げたときの、皆の怯えた顔。
兵たちは恐れおののいていたし、子供は恐怖のあまり硬直していた。
その上自分はリアムに、『俺の妃に触るな』と牽制までしてしまったのだ。
(あの発言自体に悔いはない……が、あんな形で自分の気持ちをエリスに伝えることになるとは)
アレクシスは、川でエリスを腕に抱きかかえたときの、酷く青ざめた顔を思い出す。
(彼女は俺の気持ちを知って、俺を嫌悪したのだろう。馬車の中でも何度も何かを言いかけて……だが俺は、彼女の言葉を聞くのが恐ろしくて遮ってしまった。拒絶された後のことを考えて、せめて一度は彼女に触れておきたいと、傷の手当てを申し出るなど卑怯な真似までして)
アレクシスはエリスの右足を下ろし、左足の手当てに移る。
(考えれば考えるほど情けなくて笑えてくるが、せめてもの救いは、彼女の怪我が大したものではなかったことか)
侍女からの報告書の内容は、両の手足に合わせて擦り傷六ヵ所、切り傷三ヵ所、あとは打撲傷が四ヵ所だったが、いずれも軽症。胴体に怪我はなく、アレクシスの見立てでは一週間もあれば治癒すると思われた。
川に落ちた子供を、何の装備もなく救出してこの程度で済んだのは幸運と言える。
もしもエリスの怪我が酷いものだったら、アレクシスは生涯自分を責め続けることになっただろう。
アレクシスはリアムと会うために、エリスとの待ち合わせ時間を遅めに設定したのだから。
だがエリスはこうして無事でいてくれた。
それだけが、唯一の救いだった。
自分の気持ちを受け入れてもらえずとも、命さえあれば未来も、可能性も残るのだから。