1限目の授業を終えた。一花は全く集中できなかった。
 背後に敬人の視線を感じすぎるのだ。見えるようになったから余計に。
 流石にずっと見ているわけではなく、時折窓の外を眺めたり目をつぶっていたようだが、ほとんどは一花を見ていたように思う。その証拠に、気になって一花が振り返る度に笑顔で手を振ってくる。
 怒りたいが一人で怒っているヤバい奴になるので怒れない。逆に一花の方が先生から怒られる始末だ。

「こら彼岸、そんなに振り返ったってロッカーには何もないぞー」

 それがいるんですって、先生。


「頼むからどこかに行っててくれるかな?」
 
 休み時間、周囲に友達と話しているのだと思わせる為に礼子に斜め前に立ってもらいつつ、一花は再び敬人に注意する。敬人はどうどう、といった具合に両手を前に出した。

「安心して下さい、ほとんど授業を見ていましたよ」

 嘘つけ。

「じゃあ今日やった『2xy×3y』の答えは?」

「ちょっとちょっと、小学校の内容じゃないですか」

 鼻で笑ってるところ悪いけど、中学校な。

「簡単です、答えは5y」

 ドヤ顔で答えることじゃないし、間違ってるし。相変わらず勉強ができなさすぎて、もはや本当に授業を見ていなかったのか、見ていてもこれなのか判断がつかない。

「どちらにせよ出て行ってもらって」

「僕もそうしたいのは山々なんですけど、行く場所がないんですよ」

「そんなの校内中いっぱいあるじゃん。例えば……」

 ……例えばが思いつかない。

「このお話なかなか面白いですわ〜」

 二人のやり取りが見えていないかのように、ロッカーに寄りかかって独り言を呟きながら本を読んでいる礼子を見て、一花ははっと人差し指を立てた。

「そう、図書室とか。永久に本読んでられるよ。確か小羽くん本好きだよね」

「えっなんで知ってるんですか?」

 途端、敬人は目を見開いて身を乗り出した。

「もしかして彼岸さん、本当は僕のことが……?」

 そんなわけあるか。今朝振られたのを忘れたのかと思うくらい都合の良い脳をしている。

「休み時間にいつも読書してたからそうかなと思っただけだよ」

「いつも!?いつも僕のことを気にかけて……!?」

「違う違う、同じ教室にいたら無意識に視界に入ってくるだけ」

「無意識!?無意識に僕に好意を……!?」

「認知が歪んでるから心理学の本でも読んできたら!?」

 しまった、また大きな声を。今度は周囲から礼子と盛大に喧嘩していると思われたらしく、『彼岸さん怖』『あんな言い方なくない?』と怯えたひそひそ声が聞こえてくる。助けてくれ、と一花は礼子を見たが、彼女は何食わぬ顔で本を読みふけっている。本当に喧嘩してやろうか。

「良いですね心理学。好きな人を振り向かせる恋愛術でも学んできます」

 気まずい空気を察してかは分からないが、敬人は両足を前に出してようやくロッカーから降りた。

「ここ、ロッカーの上とは思えぬほど広くて快適だったんですけどね」

「図書室の方がずっと快適だよ」

「それはないです。彼岸さんがいないので」
 
 この期に及んでまだそんなことを。いいから早く行け。
 すると一花の横を通り過ぎる寸前、敬人はくいっと眼鏡を押し上げて言った。

「あんな連中、気にしなくていいですからね」

 お前だよ。
 ……でもまあそういう考え方は、 クラスメイトの中でも好印象だった理由の一つではある。
 颯爽と出口に向かっていく、幽霊らしからぬ背中を眺めながら、一花は呆れを通り越して笑っていた。