隆盛を誇るメディチ家から初の教皇が生まれたのが1513年だった。
 レオ10世である。
 37才という史上最年少での選出だった。
 これによってメディチ家はフィレンツェと教皇国の両方を支配するイタリア最大の門閥(もんばつ)(由緒のある家柄)となり、ヨーロッパの王侯貴族に肩を並べる存在となった。
 そしてその力と財を先祖に倣って芸術への支援に向けた。
 特にラファエッロを寵愛(ちょうあい)し、システィーナ礼拝堂の絵画を任せるのである。
 
 その後、メディチ家から2人目の教皇としてクレメンス7世が選出されることになるが、フランスとの戦いが激化する中での就任ということもあって在任中は戦争に明け暮れることになる。
 それを終わらせるために仕組んだのがフランス王家との縁組だった。
 当時14歳だったカテリーナ・デ・メディチを、のちのフランス国王アンリ2世になる皇太子に嫁がせたのだ。
 
 その後、1569年にトスカーナ大公国に昇格してフェルディナンド1世の時代になると自由と活気に溢れ、ヨーロッパ列強の一つに数えられるようになった。
 
 その息子であるコジモ2世は教養豊かな人物で、文化・学術への支援を惜しまず、ガリレオ・ガリレイの最初のパトロンとなる。
 それに応えたガリレオは自ら発明した望遠鏡で木星の4つの衛星を発見した時、『メディチ星』と命名してコジモ2世に献じた。
 
 このように長きに渡ってフィレンツェに君臨したメディチ家だったが、君主ジャン・ガストーネ・デ・メディチが1737年に亡くなって終止符を打つことになる。
 それでもメディチ家の正統な血を引くものが一人残っていた。
 ジャンの姉のアンナ・マリア・ルイーザだ。
 しかし君主として認められることはなく、子供もいなかったことから、1743年に75歳で息を引き取ると、その血も途絶えることになった。

 それでも彼女は彼女にしかできない最後の大仕事を忘れることはなかった。
 素晴らしい遺言を書いたのだ。
 メディチ家が300年に渡って蓄積した膨大な財産である宮殿、別荘、絵画、彫刻、家具調度、宝石、高価な工芸品、写本などを次期大公ロートリンゲン家に委譲するにあたり、一つの明確な条件を付けたのだ。
 それは、「これらのものは国家の美飾であり、市民の財産であり、外国人の好奇心を引き付けるものであるゆえ、何一つとして譲渡したり、首都及び大公国の領地から持ち出してはならない」というものだった。
 これによってフィレンツェの歴史と不可分に結びついたメディチ家の財宝は今日までフィレンツェの町に残されることになった。
 
 ふ~~、

 フローラは長い息を吐いてから首をグルグルと回した。
 飛ばし飛ばしではあったが一気に読み進めたせいか目の奥がチカチカしていた。
 それに肩も凝っていたのでこれ以上読み続けるのは難しかった。
 本を閉じて「また明日ね」と呟いてからバッグに仕舞い、席を立った。