財を蓄えていったフィレンツェは1296年に巨大な大聖堂『サンタ・マリア・デル・フィオーレ』の建設を始め、その2年後の1298年にはヴェッキオ宮殿の建設も始まった。
 1300年頃には人口は10万人近くになり、パリ、ヴェネツィア、ジェノヴァと並んで西ヨーロッパ最大の都市の一つとなった。
 しかし、栄華は長く続かなかった。
 1348年にペスト(黒死病)が襲いかかり、市民の半数近くが死亡するという悲劇に見舞われたのだ。
 その後も59年、63年、74年、83年と繰り返し襲われて社会と経済に深刻な打撃を受けたが、それでも悲劇に屈することはなかった。
 その度に立ち上がり、再建し、勢力を拡大し、一都市国家から領域国家へと飛躍的な成長を果たすこととなった。
 
 その激動の時期に頭角を現したのがメディチ家だった。
 一族が書き留めた私的な忘備録によると、1260年からフィレンツェ近郊のムジェッロというところで農作地や土地や森を購入し始め、1375年には180か所以上の土地を所有するに至ったという。
 そんな中で現れたのがジョバンニだった。
 彼は当時カトリック世界で禁じられていた利息を取る融資を合法的に行う方法を編み出して莫大な利益を上げただけでなく、教皇庁の資金運用まで任されることになって、その蓄財は天文学的なものになった。
 更に、その跡を継いだコジモは勢力を拡大し、のちにメディチ王朝とも言われるようになる基盤を作り上げた。
 また、彼は独裁者として君臨する半面、文化芸術への理解が深く、学芸パトロンとしての活動を本格化した結果、ルネサンス興隆の立役者の一人となった。
 支援した芸術家の一人が大彫刻家ドナテッロで、傑作ダヴィデ像は守護神としてメディチ邸の中庭に置かれた。
 
 経済と芸術の両面から大きな役割を果たしたコジモは『祖国の父』と呼ばれるようになるが、その孫のロレンツォも幼い頃から完璧な君主教育を受け、哲学、文学、建築、美術、音楽まであらゆる学芸に通じる多芸多才な知識人となり、『偉大なる人』という尊称を与えられるほどの名声を得るようになる。
 更に、フィレンツェの支配者として君臨しただけでなく、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど数多くの芸術家のパトロンとして芸術振興に力を注いだため、大パトロン、文化的カリスマとして異彩を放つのである。