30分が経って潮が引くように客が少なくなったが、弦は店の隅に立ち続けていた。
 すると、あの美しい人が近づいてきた。

「いらっしゃいませ」

 英語だった。

「お探しのパンはございませんか?」

 長時間店の中にいたのを知っているかのような問い掛けだった。

「いえ、あの……」

 弦はしどろもどろになった。
 それは、声をかけられたからだけではなかった。
 存在を覚えてもらえていなかった落胆からきたものでもあった。
 だから思い出してもらうために「ノヴェッラ薬局で」と日本語で言うと、「あっ」と美しい人が右手を口にやった。

「先日お見えになった……」

 彼女の口から日本語が出たので、唐突かもしれなかったが自己紹介を始めた。

「弾弦と申します。ニューヨークでパン職人の修行をしています」

 すると彼女が目を丸くした。
 日本人とニューヨークとパン職人とフィレンツェ滞在がうまく結びつかないようだったので、弦はフィレンツェに来た経緯を話した。
 そして、明後日の朝には出発しなければいけないことを伝えた。

「そうですか……」

 何か考え事をするような表情になったと思ったら、急に振り向いてさっき名前を呼んだ人のところに歩み寄って話を始めた。

 何を話しているのかわからなかったが、少ししてその人を連れて戻ってきて、従姉のウェスタだと紹介された。
 そして手を差し出したので軽く握ると、とても柔らかだった。
 もしかしてと期待してフローラを見つめたが、残念ながら手は出していなかった。
 彼女の手に触れることができずガッカリしたが、思いがけないことを提案された。

「もしよかったらこの店でパンを焼いてみませんか?」

 突然のことに返事ができずにいると、ウェスタが英語で話に入ってきた。

「見ることも食べることも大事ですが、実際に作ってみることが一番の経験だと思いますよ」

 しかし急展開についていけなかった。

「ほんとにいいんでしょうか」

 すると、「si」となんの問題もないような笑みが返ってきた。
 そして背中を押されて、厨房へ連れていかれた。