「猿も木から落ちる」

 試みが失敗して体よくあしらわれたサンドロは苦笑いのようなものを浮かべたが、諦めきれないのか、「よく似てたんだよな~」と昔付き合った人を懐かしむような目になった。

「誰もが羨む、ですか?」

 勘のいいアンドレアが興味津々の表情を浮かべると、「まあな」とサンドロは半分ほどになっているビールを一気に喉に流し込んでから、赤ワインをボトルで頼んだ。
 昨夜入ったピッツェリアの横にあるオステリアで3人は夕食を取っていたが、周りのテーブルはすべて埋まっていたので、サンドロは辺りを伺うようにしながら小声で話し始めた。

「ヴァイオリン奏者だった。才色兼備を絵に描いたような女だった。ステージでの立ち姿は見惚れるほどだった。そんなマドンナが俺の彼女だった。信じられるか? この俺が最高の女と付き合っていたなんて」

 両手を広げて肩を少し上げた。
 そして、トリッパのトマト煮込みをフォークですくって口に入れた。

「俺はまだ修行中だったが、いつか彼女に最高のヴァイオリンをプレゼントしようと思っていた。それが実現した暁にはプロポーズするつもりでいた」

 赤ワインを流し込むように飲んだのでボトルを見ると、首の部分にD.O.C.Gと表示されていた。
 トスカーナの有名なワインのようで、CHIANTI(キアンティ) CLASSICO(クラシッコ)と書かれたラベルを目で追ったが、耳はサンドロの次の言葉を待っていた。

「ツアー中に妻も子もいるオペラ歌手にさらわれた。手が早いことで有名な男だった。彼女はそのことを隠していたが、人の口に戸は立てられない。狭い世界だけに噂が耳に届くのに時間はかからなかった」

 ワインを一気に呷ると、空になったグラスにアンドレアが慎重に注ぎ足した。

「俺が追及すると、彼女は泣いて謝った。もう二度とあの男に近づかないと言った。それを信じて許そうと思った。もう一度やり直そうと思った。しかし、ダメだった。彼女とセックスしようとすると、あのスケベなオペラ歌手の顔が思い浮かんで消すことができなかった。彼女の裸を見ても反応しない自分に愕然とした。その時終わりだと思った。オペラ歌手を夜の公園に呼び出して、彼女の目の前で思い切り殴った。彼女も殴ろうとしたが、それはできなかった。顔に唾を吐いて終わりにした」

 そこでまたワインを一気に呷った。
 そして、「でもな、彼女も被害者だったんだよな。無理矢理やられたに違いないんだから被害者なんだよな」と若気の至りで彼女を恨むことしかできなかったと後悔を口にした。

「もっと心の広い男だったら違うことになっていたかもしれないのに」

 自嘲するように吐き捨てて、またワインを呷った。
 するとまたアンドレアがワインを注いだ。
 サンドロが飲み潰れたら背負って帰る覚悟でいるように感じたので、弦も止めなかった。
 いや、止められなかった。

「ユツル!」

 飲み過ぎたようで、呂律がまわっていなかった。

「当たってくらけろだぞ」

 もう限界のようだったので連れて帰ろうとすると、アンドレアの視線を感じた。
 その目は〈どういうこと?〉と追究しているみたいだった。
 とっさに笑ってごまかしたが、探るような視線は弦から離れなかった。
 それは、大事なことは絶対に見逃さないぞ、というような鋭い視線のように思えた。