翌朝、ホテルで軽食を食べた3人が向かったのは世界最古の薬局だった。
 サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局。
 アンドレアが母親へのお土産を買うためだ。

「ママはハーブの香りが大好きなんだ」

 アントニオにはため口(・・・)を叩くアンドレアだったが、母親には頭が上がらないようだった。

「ユズルも日本のママに何か買ってあげれば?」

 弦は頷いたが、買う気はまったくなかった。
 父親の会社のスキンケア製品しか使わないことがわかっているからだ。
 だから店内をぶらぶら歩いて時間を潰していると、「日本の方ですか?」と日本語が耳に届いた。

「えっ」

 横を向くと、そこにいたのは日本人ではなかった。

「あっ、はい」

 自分でも信じられないくらい目が開いたが、それは、女優のような美しい顔に対してだけでなく、流暢な日本語に対してでもあった。

「何かお探しですか?」

「あっ、いえ。あっ、はい」

 声が上ずった。
 完全にどぎまぎしていて、目が落ち着きなく動き続けているのが自分でもわかるほどだった。
 心臓が暴発するのではないかと思うほどの初めての経験に狼狽えていると、「ごゆっくりなさってください。何かありましたらいつでもご用命ください」とその人が笑みを浮かべたまま軽く頭を下げた。
 弦は慌てて下げ返したが、視線は胸の名札に注がれていた。

 フローラ、

 思わず呟いていた。
 しかしその呟きが届かなかったのか、その美しい人は背を向けてカウンターの方へ歩き去った。

「いい女だな。美人だしスタイルも抜群だし」

 サンドロがいつの間にか横に立っていた。
 その目は美しい人の後姿を追っていたが、完全にいやらしさで満たされていた。

「一目惚れか?」

「そんなんじゃありません」

 即座に否定すると、「俺が口説いてもいいか?」と悪戯っぽい笑みを浮かべたので、急な展開に弦は慌てた。

「口説くって……、サンドロさんには婚約者がいるじゃないですか」

 しかし、彼は平気な顔をしていた。

「独身最後のアバンチュールというのも悪くないだろ」

 弦にはその考えが信じられなかった。
 独身だから浮気とは言わないかもしれないが、婚約者に対する裏切りに違いないからだ。
 しかしそんなことは関係ないというふうに「為せば成る」と意味不明な言葉を発して、サンドロが美しい人に近づいていった。