弦がニューヨークの自宅に戻ったのは夜の10時を過ぎていた。
 電車の中ではパン職人の話は出なかったが、頭の中にはその言葉がグルグルと回っていた。
 それはルチオたちと別れたあとも同じで、部屋に戻ってからも彼らの声がエンドレスで続いていた。

 パン職人か~、今までそんなこと考えたこともなかったな~、

 呟くような声がギターのホールに吸い込まれていった。

 そういう道もあるということか、

 ゆらゆらと首を横に振った。

 ハーバード大学への願書提出まであと8か月ほどとなっていた。
 この1年で英語力はかなり上達しており、文法だけでなく、アルバイトを始めてから英会話力がぐんと上がったので、6月に受ける予定のSATとTOEFLの試験で高得点を取る可能性は高かった。
 それに、内申書、つまり、高校3年間の成績にはなんの問題もなく、提出が義務付けられているエッセイの準備も着々と進んでいる。
 だから受験に関してはなんの不安も持っていなかったが、それでも奥さんの言葉がいつまでも耳に残って離れなかった。

「ユズルはハーバードへ行って、卒業したらお父さんの会社に入って、将来は社長になるんだから誘惑したって無駄よ」

 その通りなんだけど……、

 弦の呟きが力なく床に落ちた。