魔界の城に連れてこられたアヤメは、オランの部屋へと案内された。
アヤメ専用の部屋は用意されない。オランと同室なのだ。
この時点で、すでにオランには、ある『思惑』があった。





「初めまして、アヤメ様。私は魔王サマにお仕えしております魔獣・ディアと申します」

後からオランの部屋に入って来たディアは、アヤメに丁寧に頭を下げて挨拶をした。
すでにアヤメが魔界に来る事は、誰もが承知であるらしい。

「ディアさんは、獣……なんですか?そうは見えませんけど…」

アヤメは、普通の青年にしか見えないディアを見つめて、不思議そうにしている。
クールなディアは、顔色一つ変えないで答える。

「私の本来の姿は凶暴ですので、封印されています。魔王サマにしか封印は解除できません」

つまり、ディアは自分の意志で魔獣の姿に戻る事は出来ないのだ。
すると、ずっと黙って椅子に腰掛けて肘を付いていたオランが、口を挟んだ。

「挨拶はもういいだろ?肝心なのは、これからだ」

するとアヤメは表情を曇らせたが、すぐに意を決して真直ぐオランを見据えた。

「覚悟は出来ています。焼くなり、煮るなり、蒸すなり、お好きな様に……」
「いや、だから喰わねえって」

さすがのオランも、ツッコミを入れるしかなかった。
生贄のイメージなのか、なぜか熱する系の調理法ばかり連想する少女。
アヤメを喰うために持ち帰ったと、本気で勘違いをしているのだ。
現代で言うテイクアウトの発想だ。
オランは椅子から立ち上がると、堂々と言い放った。

「決めたぜ。アヤメをオレ様の妃にする」

しばらくの、沈黙。
あまりに唐突な宣言に、クールなディアも僅かに目を見開いている。
ようやく、アヤメが一言。

「妃…ですか?」

その言葉に、オランが続ける。

「あぁ、妻だ。嫁だ。(めと)るって事だ。分かったか?」

別に『妃』という言葉の意味が解らなかった訳ではないが、オランが次々と言葉を畳み掛けて行く。

「分かりましたけど…私でいいのですか?」
「オレ様が決めたんだ。文句は言わせねえ」

アヤメは戸惑っていた。生贄として連れてこられたはずなのに、どういう処遇なのか。
だが『私を好きな様にして下さい』と言ってしまった手前、反論の余地はない。
不思議と、抵抗も拒絶する気も起こらない。
そして意外にもディアの反応も、それを否定するものではなかった。

「今まで一度も妃を取らなかった魔王サマが、ようやくお決めになったのですね。アヤメ様、心より歓迎致します」

むしろディアは嬉しそうだった。ただ、相手が人間だという事には驚いたようだった。




だが、人間であるアヤメが段取りもなく、いきなり王と結婚という訳にもいかないだろう。
まずは、アヤメが魔界の生活と環境に慣れる必要がある。
だが、アヤメは魔界に来たというのに、それほど戸惑いを見せなかった。
生贄として腹を括っていた事もある。
何よりも、魔界にいる人達、城の使用人の女性達も、人間と変わらぬ姿をしていたからだ。
オランだって、コウモリのような羽根を隠してしまえば、見た目は人間と変わらない。
本来は魔獣であるディアだって、普段は人間の姿をしている。
城の窓から外を眺めれば、見慣れた空に木々や山々、小さく見える城下町。
魔界は、魔物だらけで恐ろしい場所、というイメージが持たれそうな世界。
だがアヤメにとっては、船に乗って異国のお城に来たような感覚に近かったのだ。






魔界に来て初日の夜、アヤメはオランと一緒のベッドに寝る事に対し、初めて抵抗を見せた。
いや、これは単に、乙女の恥じらいだ。

「魔王様、さすがにそれは……いけないと思います…」
「あぁ?何言ってんだよ、妃になるなら当然だろうが」

手順を踏んでいるのか、いないのか。アヤメには理屈が良く分からなかった。

「何もしねえよ、来い」

オランが優しく、そう言ったので、アヤメは仕方なく同じ布団に入り込んだ。
大きなベッドなので、二人寝ても、そこまで密着せずに寝る事は出来るだろう。
だが…オランは、アヤメが入ってくるなり、ギュっと体を密着させて抱きしめた。

「あ、あの……?…魔王様……」

アヤメの全身の体温が異常に上昇し、その熱が伝わってしまわないかと、さらに心臓を高鳴らせる。
そんなアヤメが面白くて、可愛くて、オランは最高に楽しくなって来た。

「あと、その呼び方と敬語やめろ」
「え…でも、魔王様が、そう呼べと…」

するとオランは、アヤメの耳元で小さく囁いた。

「許可してやるから、名前で呼んでみろ」

その甘い囁きに導かれるように、アヤメの口から言葉が紡がれていく。

「オラン……様?」
「違ぇだろ」

アヤメは恥ずかしくなって、思わず布団の中に顔を埋めた。

「……オラン……」

「それでいい」

オランは満足そうに笑った。

「これは、ご褒美だ」

そう言ってアヤメの左手を取ると、その薬指に何かを嵌めた。
一瞬、薬指に感じた冷たい金属の感触に驚いて、アヤメは自分の左手を見て確認する。
金色に輝く金属の輪に、オランの瞳のような赤い宝石。

「これは何ですか?」
「婚約の証だ。絶対に外すなよ」
「分かりました。綺麗ですね」

だがオランは、また不満そうな顔をしている。

「違ぇだろ、言い直せ」

アヤメの敬語口調が気に入らないのだ。

「うん、……分かった……オラン」

アヤメの薬指のそれは、当時の日本にはまだ存在しなかった、『婚約指輪』であった。


魔界に来たばかりで、疲れたのだろう。
あんなに恥じらっていたアヤメは、オランの隣で、すぐに眠りに落ちていった。
オランは寝顔を見つめながら、しばらくアヤメの栗毛色の髪を指に絡ませて遊んでいた。
退屈はしなさそうだ。これからの日々が楽しみで、仕方が無い。






こうして、魔王の『契約者』から『生贄』に、そして『婚約者』となったアヤメの魔界での日々が始まった。