「はーい。」
気だるそうな顔を見せた先生は、私の鼻血を見ると、素早くティッシュを持ってきた。
「大丈夫?」
「…何とか。」
苦笑いを浮かべながら、生返事をする。
そして、私たち二人を保健室に手招きした。保健室の真ん中にある、小さな丸机に座る。
ティッシュを貰いたいだけだったのに、大袈裟な処置にされるがままだったの私だった。それから暫く、鼻を押さえていると、自然と止血された。
それを確認すると先生は、はあとため息を吐きながら、私たち二人を見た。
長い黒髪と、長い睫毛のせいなのか、その唇が妙に色っぽく見えてしまう。
「で、どうしたの。」
「お、俺が、ボールぶつけちゃって。」
私と先生の視線を一身に受け、その男子生徒は小さく萎縮していた。大きな手で手遊びをしているかのように、動かしている。
私の重い体を運んだとは、信じられないほどに。
「またやったのー。暮名くん。」
呆れたように眉を寄せる先生の表情からして、今回が初めてではないらしい。
そして、名前を暮名というらしい。
何処かで聞いた事がある名前だ。
そう思っていると、
「はい。ほんと、申し訳ねえっす。」
私の方を向いて、何度目か分からない謝罪を述べた。その頭を見ると、罪悪感が湧いてきた。それはまあ、ちょっとは痛かったけど。
頭を下げてもらうほどのことではない。
ましてや、私なんかに。塵として扱われるのが当然なのに。
「全然、大丈夫、です。びっくりはしましたけど。」
そう言うと、暮名くんは、ニッと笑顔を見せた。
その笑顔が眩しくて、思わず目を逸らす。
今気がついたけれど、暮名くんの顔はとても整っていた。
サッカー部であるはずなのに、陶器のように透き通る白い肌と、大きな瞳に薄い唇、その美しすぎるパーツが、これまた素晴らしく配置されている。
そして、全身に可愛いルックスを柔らかく纏っている。
その時、合点がいった。
女子から、大人気のあの暮名くんじゃ…
そうだ。一年生に、美少年だと騒がれている男子生徒がいた。友達がいない私でも噂を知るほどの人気者。その人が話す度、笑う度、美しくて、多くの女子を虜するという、暮名くん。
私と一生関わることの無い人種。
廊下ですれ違ったこともあるが、取り巻きの女の子たちが多くて、始終圧倒されていた。
そんな暮名くんが、当たり前のように目の前にいる。
「よかったぁあ。まじで焦ったんだよ、俺。ガチでボール蹴ってたからさ。」
私が口を開けて、情けなくパクパクしているのも、気が付かず笑顔で私に話しかける。
その笑顔は、純粋無垢で、女子から人気がある理由も分かる気がする。
一緒にいるだけで、自分の邪気が払われていくような、そんな感じ。
そんな人に、お姫様抱っこをされていたのだと思うと、少し体が熱くなる。
いつの間にか、先生はいなくなっていて、私と暮名くんの二人が残されていた。
暮名くんは、私と違い、フレンドリーだ。
私の反応が薄くても、一人で話している。私が口篭っても、笑顔で待ってくれていた。
それに、少しだけ救われた。
この時だけ、自分も、普通の人間のフリが出来る。
女子の会話のように、相手を探る巧みな会話じゃなくて、ただ素直に聞いていれる話ばっかりだった。
それから、私たちはずっと保健室にいた。冷気が充満していた保健室が心地よかったのか、椅子から離れることはなかった。
あの短時間だけで、色んなことを知れたと思う。
でも、一番知れてよかったのは、暮名くんが花火職人の息子だということ。
夏が近づいているこの時期は忙しいらしい。この町で毎年行う、花火大会用の花火の作成に追われているのだそう。
だから、少しだけ花火が苦手だと、言っていた。
「え、お父さんが花火職人なのっ?」
そう目を輝かす私に、暮名くんの目は丸く見開いていた。
花火職人は、私にとって憧れの職業。
小さい頃に花火に心を奪われてから、ずっと大好きなもの。
「そうだよ。咲口さん、花火好きなの?」
大きな双眸をさらに見開いた暮名くんを見て、一気に恥ずかしさで体が火照る。
自分の好きを誰かに言ったのはこれが初めてかもしれない。
「う、うん。」
俯きながら頷く私を見て、暮名くんは微笑む。家業を好いてくれる人がいて、嬉しかったのだろうか。
火照った頬を冷やそうと、手のひらを押し付ける。
理由を聞かれるかと思ったが、以外にも暮名くんは理由を問うことはしなかった。そのことがさらに私の心を解きほぐす。
退出時刻になって、私たちはようやく別れた。
夕日を背中に手を振り合うその姿に、もう気まずさなんてなかった。
私が、暮名くんに感じた第一印象は、変な人。
そして、少しだけみんなと違う人。
私と暮名くんは、クラスは違うものの、同じ学年だ。
人数の少ない田舎の高校だからか、クラスは五つしかない。女子に囲まれて、歩く暮名くんを何度も見かけることになる。
今日もモテてるなぁ。
やっぱり、私とは違う世界の人なんだな…
そんな現実を目の当たりにして、胸が針を刺されたかのようにチクっと痛む。
けれど、暮名くんはそう思っていなかったらしい。
あの日から、私と目が合う度に
「咲口さーん!」
と眩しいくらいの笑顔で、手を振ってくれるようになった。そう挨拶するのが、当たり前のように、自然に。
初めは戸惑った。
知り合いにはなったけれど、住む世界が違うのだ。
小学校からそう。私が友達だと思っても、相手は違う。こんな誰からも嫌われている私を、可哀想だと思っていただけ、という事が幾度かあった。
ある種のトラウマ。
だから、高校では大人しくしていた。あまり喋らない人、という印象を残せるようにした。もちろん、友達なんていない。
どう接すればいいか分からなかった。
けれど、その笑顔に釣られるように、私も手を振り返すようになった。その初めは小さく、遠くから挨拶するだけだったのに、気がつけばその距離は縮んでいた。
話をすることも多くなった。
「咲口さんっ」
と呼ぶその声に、何度も救われた。楽しくて仕方がなかった。
いつも下ばかりを向いて、ボソボソ話す私とは対照的な、華やかに歌うような話し方だった。私まで、自然と笑みが溢れる。
家族から不当な扱いを受けて、涙を溜めた翌日でも、暮名くんと会えば笑える。
自己嫌悪さえも、暇をくれる。
けれど、暮名くんを囲う、女子からの冷たく鋭い矢のような視線を浴びることも、少なくなかった。
「あんたみたいな、気持ち悪い人間が関わっていいような人じゃない。一体どんな手を使ったのよ!」
そう、くるくるな髪をした可愛い女の子たちに、暗い倉庫に閉じ込められたこともある。
生徒の私でも知らなかった、廃墟のような佇まいの倉庫。
初夏だというのに、冬のような冷たさが頬を掠る。
…はあ。まただ。
正直、何処かに閉じ込められることは慣れていた。
家でも、中学校でも、数えきれないほどある。
暗くても、身震いがするほど怖くても、点検に来た先生が見つけてくれる。
だから、まあいいか、とズキズキ痛む背中を丸めて、座った。
目の前には、暗くて、埃っぽくて、湿気ていて、まるで私を具現化したような、そんな空間が広がっている。本来、私はこんな寂しい空間にいるべき人間なのだ。暮名くんと出会ってから、私も普通の人間なのではないか、と浮かれていた。
身の程も知らないで。
…そうよ。私の居場所はここなんだから。
確かに、私は暮名くんと関わっていいような人間じゃないじゃない。
分かっている。
自分の気持ち悪さも、全て痛いほど知っている。
けれど、その日はどうしてか、自分の感情を制御出来なかった。
苦手な蜘蛛は平気だったのに、涙が膝を濡らして止まらない。
今は、この暗い空間から逃げ出したい。そして、あの眩しい笑顔が見たい。
怖い…っ。助けて、暮名くん。
そう思っても、こんな使われていない倉庫に来てくれるわけがない。存在すら知らないだろう。
なのに、その名前が、笑顔が浮かんでしまう。
「助けてよっ」
そんな私の蚊の鳴くような声は、すぐにかき消されていく。
その瞬間だった。
ドンドンドンッ
倉庫の扉が、叩かれる鈍い音。
もしかして。
「暮名くん?」
不意にあの人の名前が、溢れ出た。
「咲口さんっ。いる?いるなら返事して!」
「…っ、うん!」
間違いなく、暮名くんの声だった。
その声は、切羽詰まっているように強張っていて、いつものような余裕がない。けれど、暮名くんが来てくれた、という事実が、恐怖を掻き消す。代わりに、どうしようもない安堵に包まれた。
はぁ。良かった…
冷たくなった手で、更に勢いを増す涙を懸命に拭く。
「大丈夫?今開けるから」
そんな声が降ると、倉庫の扉はギギギと耳障りな音を立て、開かれる。
差し込む夕日の逆光が眩しくて、思わず目を逸らすと、私の体は一瞬にして温かいものに包まれた。
「暮名、くん?」
横を見ると、暮名くんが私の肩に顔を埋めていた。
そして、私の背中に手を回して、強く、息が苦しくなるくらい抱きしめた。火照った顔と、ふわりと香る暮名くんの匂いが、鼓動を早くする。
「ちょっと、苦しいよ。」
いつまで経っても私は可愛くなく、そう暮名くんの背中を、ポカポカ叩くけれど、効果はない。
諦めて身を預けていると、暮名くんの荒い息遣いが聞こえてきた。
走ってくれたらしい。
「ごめんっ。本当に。俺のせいでっ」
暮名くんには似合わない小さく、震えた声だった。
本当に私を心配してくれたんだ。
なんて単純なんだ、と我ながら思うが、その一言で私の恐怖は薄れていく。ただ、私を心配して、探してくれた事が嬉しい。
この時だけは、自分の気持ちに素直になってみよう。
「…ふふふっ」
「なんで、笑ってんの」
私の肩に、顔を埋めたまま、暮名くんが呟く。
「んー。怖かったけど、嬉しい。ありがとう、来てくれて。」
ヒーローみたいだった、と小さく付け足す。
ん、と暮名くんは頷く。
そして私も、暮名くんの大きな肩に顔を埋めた。その時間が心地よかった。
暫くその場にいた後、私たちはようやく倉庫を出た。
暮名くんは私が思っていた以上に、探してくれていたみたいで、その制服は汚れていた。
「あの女たちには俺から言っといたから、もうこんな事はないと誓う。ごめんな。」
最後に、暮名くんはそう言っていたと思う。
そう語る瞳は、いつものような輝きはなく、闇に染まっていて背筋に怖気が走る。
次の日、登校するとあのくるくる髪の女の子たちが私に謝ってきた。
その瞳は、何かに怯えるように小刻みに震えている。
もしかしたら、暮名くんが、とまた私の心はあの温もりに包まれたのだ。
その頃からだろうか。
いつの間にか、暮名くんの姿を追ってしまうようになったのは。
花壇の水やりに校舎裏に来ても、視界に映るのは、太陽の下でボールを追いながら、駆け回る暮名くん。チームメイトと笑いながら、時に真剣にボールを見る暮名くんに、胸が高鳴った。
世界に色がついたみたいに、私の日常が輝き出した。
興味すら持てなかったメイク用品にも手が伸び始めた。
可愛い女の子を観察して、仕草を真似してみたり。
髪型も、メイクもバッチリ決まった日は、一番に暮名くんに見せたい。
そう思うようになった。
褒められた日は、ずっとふわふわ浮いてる気分になるし、ずっと手が痺れて、心臓が微かに痛んで止まない。
ずっと、私だけが抱いているものだと思ったら、違ったらしい。
ある日、私は暮名くんに呼び出された。一学期が終わる頃だった。
「俺、咲口さんのこと好きなんだ。付き合って欲しい。」
そう言われた時は、もう心臓がバクバクだった。
あの日のように、耳まで真っ赤にして、小刻みに震えている手を差し出している。
え…?
暮名くんが、私を?
こんなかっこいい人が、私を?
信じられなかった。頭の中が、ハテナマークで埋め尽くされていたように思う。それくらい、叶わない気持ちだと半ば諦めていたのだ。
ただでさえ、状況を呑み込む速度が他人より遅い私だ。暮名くんが、私を好きで、恋人になって欲しいと理解するのには、時間を要した。
「わ、私?」
「うん。咲口さん。」
「本当に、私?…私でいいの?」
頭がパニックになって、何度も確認をした。もしかしたら、これは自分に都合の良い夢を見ているだけなのかも、と。
けれど、頬をつねっても、ちゃんと痛かった。
そんな私を見て、
「夢じゃないよ。現実」
という暮名くんの優しい声が降りかかる。
体を起こした、その整った顔を見つめる。見つめたその瞬間、暮名くんの頬は少し赤くなった気がした。
本当に、私のことを好きなんだ。
こんな、私のことを本当に…。
疑問は確信に変わった。そして、その瞬間、気がついたら視界が歪んだ。握り込んだ拳に、何やら生暖かいものが落ちる。
「、、ううっ」
そう声を上げる私に、暮名くんは困ってしまうだろう。眉を寄せて、少しはにかみながら。
けれどそんな心配をしている余裕なんて、私にはなかった。
不意に、景色が一変した。
ふと、暗い押し入れで啜り泣く声が聞こえてきた。
空中から映像を見下ろすように、場面を眺めている状況だ。
私は、この声を知っている。
絶対に忘れる事ができない。あの日々。
「ごめんなさい…。怖いよぉ、怖い。ごめんなさい。出して…。」
間違いない。
これは、私の幼少期。
小学校の授業参観があった日だろうか。両親が観にくるということで、周りの生徒は勉強に勤しんでいた。
母はプライドが高い人だった。実際、難関大学出身である。
だから私のことを目の敵にしていたのは、主に母であった。
私は勉強が出来ない。授業だって、ついていくのが精一杯だった。
けれど、その日は授業参観。
私だって、弟のように可愛がって欲しかった。
愛おしさを袋一杯に詰め込んだ笑顔で、私を見て欲しい。怒らないで、ただ普通に話したい。褒められたい。
そんな欲望が、幼い私にもあったのだろう。
母と父が教室の後ろに立つ。
母は世間体を一番に気にする人だ。授業参観に来ないわけがなかった。
「この問題、分かるお友達いるかなー?」
気苦しそうなスーツを着た先生が、子供をあやすような猫に似た声を出す。その声を合図に私は手を挙げ続けた。
もちろん、私が手を挙げたことなんてない。
先生は私の手が挙がると、嬉しそうに私の名前を口にした。
けれど、私は正直分からなかった。答えられるはずもない。
口篭ってしまうのも当然なわけで。
「咲口玲ちゃん、分かったら手を挙げましょう。」
と先生から言われてしまった。
クラスメイトは、クスッとバカにしたように鼻で笑っていた。けれど、私にはその言葉の真意を理解していない。それからもずっと、父と母が帰るまで、先生とクラスメイトを困らせ続けた。授業参観なのに関わらず、先生の語尾が強まっていたくらいだ。
元々、私を気味悪がって閉じ込めたりすることはあった。
けれど、それは一時的なものだった。
母は、
「これは、おかしなあんたを躾けてやってんだから。」
と怒号を浴びせていた。しかし、授業参観後、帰宅すると、そんな生ぬるい躾が待っているはずもなく。
恥ずかしいと始終叫んでいた。
「あんたを産んだ私が間違いだった。親だって子供を選べたら良かったのに。お前は私の子じゃない。」
と吐き捨てたのは、流石に何かくるものがあった。
心臓を握り潰されたような、崖から突き落とされたみたいな絶望。
そして、私をまたあの暗い押し入れに閉じ込めた。
父に助けを求めても、私の顔を白い目で一瞥した後、何処かへ行ってしまった。家族に自分を愛してくれる人はいなかった。
怖かった。
暗くて、一人ぼっちなのが。
小さな手はずっと震えていて、泣くのをやめてしまえば、気を失いそうなほど。その時に私はようやく理解したのだ。
私は、普通ではない。
おかしくて、生まれてきたらいけなかった人。居るだけで不幸にしてしまう、疫病神みたいな人。
辛くなかった、と言えば嘘になる。
押し入れの中で号哭した。
あの日がきっと、人生で初めての、遅すぎる挫折。
それからは、誰かからの愛を求めなくなった。
初めから諦めることにした。
どうせ、私なんて愛される長所の一つもないのだ。恋人を見て羨ましいと思った事はあっても、自分がそうなりたいか、と聞かれれば、違うと断言できる。
けれど、どうしてだろう。
何故か、この言葉を聞いた瞬間涙が溢れてしまった。
求めてなんか、いないのに。私はずっと、暮名くんの笑顔を眺めているだけで良かったのに。
その言葉を聞いた瞬間、次を求めてしまった。
あのラブラブな恋人を、私と、暮名くんに置き換えてしまう。
どうして、暮名くんの「好き」がこんなにも辛くて、嬉しいのだろう。
無意識に、涙が溢れてしまう。乾いたアスファルトに楕円形のシミが落とされていく。
その涙に釣られるように、口が開く。
「私も、暮名くんが好き。でも、恋人になりたいか、と思ったら分からない。私なんかが幸せになって、いいのかなって思っちゃうの。」
こんなことを言ったって、困るだけだろう。
急に泣き出して、面倒臭いと思っているかも。
けれど、次の瞬間、頭ごと何かにスッポリ覆われた。一瞬にして、滲む視界から解放される。
「そんなこと、ない。咲口さんが俺の事が好きって言ってくれて、すげぇ嬉しかった。咲口さんは、それだけじゃダメ?」
あの倉庫の時より、ずっと、強い力だった。
その腕の中は、熱く、早く心臓が鼓動していた。
ドクドクドク
暮名くん、緊張してる…?
と思ってしまうほどの、早くて強い音。
その音を聞いているうちに、涙が枯れていく。
あの押し入れの中は、苦しくて、息が出来なくて、震えが止まらなかったのに。
この温かい腕の中にいると、何故か、震えが収まってしまう。
不思議だ。
これが恋の力なのかもしれない。
私は、首を横に振る。
「ううん。そんな事ない。私も嬉しいっ」
「…っ」
蚊の鳴くような声だったけど、暮名くんには届いていたらしい。
いつの間にか体は離れて、温かい体温が逃げていく。
向かい合わせになって、私はようやく暮名くんの顔を見る。その顔は、太陽に照らされているせいなのか、赤い。
「じゃあ、もう一回言います。俺と付き合ってください。」
薄い唇の中から歯が見えてしまうほどの笑顔。
ニッと笑った顔を見ると、私まで笑顔になってしまう。
ずるいよ。
そんな顔されたら、もうこの欲望には抗えない。
「お願いします。」
そう差し伸べられた手を握ると、そのまま手を引っ張られた。突然の事に抗えず、暮名くんの体の中にダイブする。
「はあああ。緊張したー」
そんな声が降ってくる。
「私も、びっくりした。嬉しかった。」
今この瞬間の幸せを含み、笑い返すと、暮名くんは私を抱きしめる力を増した。
少し、息苦しい。けれど、この息苦しさが丁度いい。
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
その時、不意におばあちゃんの声が降ってきた。
「人生ってね、線香花火みたいなもの。」
その言葉の意味は、今でも分からない。
けれど、線香花火は、煌びやかに輝いて一瞬にして、人の心を奪う瞬間がある。
線香花火を囲う空間が、闇に包まれていたとしても、その光だけで一気に明るくなる。その光を見ているだけで、心が満たされ、今までの闇は嘘だったんじゃないか、とさえ思ってしまう。
もし、人生を線香花火とするのなら、この瞬間が間違いなく、あの光が灯った時だっただろう。役目を果たした太陽が眠りにつく中、暮名くんの腕の中で息をしていた、あの瞬間が。
あれから私たちは、放課後に出かけることもした。
私の憧れを、暮名くんは一緒にやってくれた。暮名くんと出会ってから、初めての事をどれくらい一緒にしただろう。
私のあの辛くて、寂しい幼少期は、この時間を暮名くんと過ごすためにあったのかもしれないと思うほどだった。
大好きだったのに、その好きが止まらなくなった。
胸が高鳴って、手が熱く痺れて、足の力が入らなくなって。
呼び方も、玲に変わった。
その名前が大嫌いだったのに、暮名くんに呼ばれると、耳がくすぐったかった。そんな暮名くんは、まさに、王子様という愛称が世界一似合っていたのでは、と今なら思う。
「玲、好きだよ。」
そんな言葉を、毎日のように投げかけてくれるのだ。そして強く抱きしめる。
「私も、暮名くんが大好き。」
そう返答すると、暮名くんは決まって頬を赤く染める。傷のない耳たぶでさえも、赤く染まる。
「ほんと、その顔、他の男の前ではしないで。俺が狂っちゃう。」
私より一枚上手なその言葉に、何度赤面させられたことか。憎しみの感情しか抱いたことのない、私がだ。
その度に、私を愛おしそうに見つめる。
その時間が何より、私の宝物だった。
けれど、一番心臓が壊れてしまうんじゃないかと思ったのは、花火大会だ。
暮名くんのお父さんが作った花火が上がる、光蘭祭り。
毎年欠かさず行っているお祭り。いつもは、決まって一人なのに、去年の光蘭祭りは、二人だった。
かき氷だって、頼んだ。
かき氷一つに、スプーンが二つ。
その前は、かき氷一つにスプーンが一つだけだった。そのカップが誰かの手のひらの上を行き交うこともなく、私の体温で溶かされていた。
けれど、去年頼んだかき氷は、私と暮名くんの手のひらを行き交っていた。お互いにカップを取り合いながら、その溶け具合がおかしくて笑ってしまった。
半分も残っているのに、すっかりジュースと化してしまったその液体に。
なのに、かき氷を食べる時間は、その前年の二倍遅かった。一人で黙々と口に突っ込むよりも、二人で分け合うと、時間が遅くなるんだと、その時初めて知った。
かき氷を食べ終わると、私たちは花火がよく見える穴場へと行った。
私はこのお祭りの常連だ。
穴場くらいいくらでも知っている。
けれど、そうやって張り切る私を、暮名くんはどんな表情で見ていたのだろうか。
きっと、笑っていたんでしょうね。
貴方の体に埋まっている心臓を抑えることもなく。
その時、暮名くんは私にお面を買っていた。
理由を問うと、
「玲の可愛い顔、他の誰にも見せたくない。」
だそうだ。
そんなことを簡単に言ってのけると、私が赤面してしまうことだって知っているのに。なんだか私は暮名くんにやられっぱなしが悔しくなった。
お面で顔を隠されると、何でも出来る気がした。
「そういう暮名くんの嫉妬しやすい所、好き。」
とまだ熱気が残るその背中に抱きついた。私の心臓の鼓動はこの上なく、早く動いていたと思う。
どんなに暮名くんに、私の存在を認められても、愛情表現をして嫌悪感を覚えさせてしまうかもしれない。そんな一抹の不安が、胸の奥でしこりとなって残っていた。だから自分からその大きな体を抱きしめに行ったことはないだろう。
その日が初めてだった。
反応を探るため表情を覗いてみると、その顔は私でも見たことがないくらい赤い。
私まで赤くなってしまいそう。
「〜っ、」
下唇を噛んでいる。
暮名くんの胸に頬を擦り合わせていると、その心音が聞こえてくる。あまりにも大きく、強い鼓動に、少し笑みが溢れる。
「へへっ。びっくりした?」
このままいたら私まで、おかしくなってしまいそう。
そう思って暮名くんの大きな背中から手を離す。
「全部玲が悪いんだからな。俺を煽ったりするから。我慢してたのに。」
頭上からそんな声が降ってきた。
…へ?何のこと?
と思案を巡らせていた時のこと。
暮名くんの細くて、長くて、白くて、なのに男らしい指がこちらに近づいてくる。そしてそのまま、私の顎に触れた。
それが気持ちよくて、頭が朦朧とする。
そして私の顔に密着するお面をゆっくりと剥がし取る。
気がついたら、暮名くんの一寸の乱れもない、崇高なお顔が目の前にあった。
「…んっ」
薄い唇が近づいたと思うと、その唇が私のそれと重なった。
柔らかくて、ほんのり甘くて、だけど脆く、一瞬で溶けてしまいそうな感覚。
「ん…暮名、く…」
唇と唇の間には、一ミリの隙間もなくて、私は次第に息が出来なくなる。思わず、暮名くんの胸を精一杯押すが、暮名くんは私の背中に回す手の力を強めた。
何度も何度も方向を変えて、味わうように唇を重ねる。
その溶けてしまいそうな気持ちよさに、私は足に力が入らなくなった。
どれほど唇を重ねていたのだろうか。屋台の方向から、花火のカウントダウンを告げる掛け声が聞こえてきた。
そしてようやく、暮名くんの唇が離れていく。
「ぷはっ」
思い切り息を吸う。ようやく離した唇は、驚くほどに熱くなっていた。
暮名くんも息を吸っている。
その目は、とろんと溶けているようで、ドキッとしてしまうような色っぽさが滲み出している。
私は暮名くんを睨む。
ファーストキスだった…
不意打ちで、心の準備も出来なかった。
でも、正直気持ちが良かった。気が遠くなってしまうほど。
「ごちそーさま」
暮名くんはおどけるように唇を舐めながら笑う。その仕草が更に私の鼓動を早くさせる。
その瞬間、夜空に巨大な花が咲いた。
ドーンドドン
闇を切り裂くような音と共に一面の花が彩っていく。二人の顔を眩い光が照らす。
「わあ…!」
思わず声が漏れてしまう。
なんて言ったって、私は花火が大好きなのだ。小さい頃から、花火が上がる夏だけが私の心の拠り所だった。
何回も形を変えて、轟く光に私は釘付けになる。
「すごいね、暮名くん。」
頬を高揚させながら、私は暮名くんを向いた。同じく花火を見上げ、輝く光に照らされた横顔は少し寂しそうでもあった。
「うん、本当にすごい。」
そう呟いた。
この花火は、花火職人である暮名くんのお父さんが作っているものだ。それを聞いた途端私はただ単に凄いと思った。
そして、そんな近くに花火があるなんて、羨望の眼差しで聞いたいたと思う。
けれど、暮名くんはそうではなかった。暮名くんは花火に執着するお父さんがいたから、花火は好きではなかったらしい。
お父さんの花火も見たことがない、と。
今日の花火大会だって、暮名くんの中には葛藤があっただろう。
今、その目でお父さんの花火を見て、どんな気持ちでいるのだろう。
きっと、私には分からないほどの苦しみを味わっていたんだ。
私はそっと、左側にある暮名くんの右手の指を絡め取った。自分から繋ぐなんて、少し体が痒くなってしまう。細い指は、真夏の夜に似合わないほど冷たかった。
「俺さ、」
暮名くんは握った手を更に強く握り返す。その冷たい手が私の手の体温に染まっていく。
「本当に花火とか嫌いだったんだよ。何であんなもんを命懸けで作ってるんだろうって。失敗とかしたら、がっかりされるしさ。家族を蔑ろにしてまで、花火職人を続ける意図がずっと、分からなかった。絶対に継ぎたくもない。」
「…うん。」
「でも、今はそんなこと思わない。玲の嬉しそうな横顔を見て、それまで自分の中にあった悪魔みたいな感情が消えたんだよ。」
再び暮名くんの顔をみると、本当に吹っ切れたかのような、眩しい笑顔がそこにはあった。
憑き物が取れたように寂しさの色は少しもない。
きっと、暮名くんの中で何かが変わったのだろう。
私が暮名くんに出会って、全てが変わったように。
自分の親を嫌うって、どんなに辛いことか私は理解しているつもりだ。
他の幸せそうな親子を見て羨ましいと感じてしまう気持ち。けれど、それでも上手くいかず自己制御出来ないほどに離れてしまう心。
そんな気持ちが少しでも晴らせるのなら、世界は変わってゆく。
線香花火が再び、闇を縫って光を咲かすように。
「私はね、」
この理由だけは、絶対に言いたくなかったこと。自分の醜さを愛しい人に曝け出すなんて、怖いに決まっている。
けれど、暮名くんは私に全てを伝えてくれたのだ。
怖気そうになる心を叱咤する。
「私は、小さい頃から家族に嫌われてる。自分を否定されて、私もそんな自分が大嫌いだった。人が何を言っても、私は理解が出来ない。人の気持ちを考えられない。
けれど、初めておばあちゃんに光蘭祭の花火を見せてもらった時、凄く感動したの。夜の暗い闇で輝く花火に虜になった。言葉を発していなくても、その素晴らしさは痛いほど伝わる。
作っている人がどんな思いで、作っているのか。万民を魅了してしまうその綺麗さに。花火を見ている時だけは、私も普通の人になれる。花火の美しさに、同じように感動しているその瞬間が好きになった。だから私は花火が好き。」
怖くて顔を見れない。
どんな反応をするのか。怖かった。でもきっと暮名くんは知っている。私が普通じゃないなんて。話が食い違うことなんて日常茶飯事なのだ。
「すげぇな、花火。」
しかし頭上から降ってきた声は、あまりにも明るかった。
「…え?」
予想とは百八十度違うその返答に、思わず情けない声が喉をつく。今の私の話に、凄いと言えることはない。私の本当の意味での、黒歴史なのだ。
「だってさ、玲の心の拠り所になってくれたんだろ?父さんが。花火って凄いんだな。」
どうして、どうしてこの人は私が望んでいた言葉を汲んでかけてくれるのだろう。
人と分かち合えるって、こんなにも素晴らしいことだったんだ。
私はただ、こんな風に話したかったのだ。
「…うんっ」
そして私たちは再び夜空に咲く、大きな大きな花火を見上げ続けた。
お互いの手を温め合いながら、ずっと空を見上げていた。そんな私と暮名くんの頬には、花火が咲き誇る度、一筋の光が流れていた。
まだ熱で火照った頬を、静かに冷やしていった。
その翌日。
暮名くんから一通のメールが届いた。今は夏休みである。部活動などで忙しい暮名くんとは毎日のように会えない。
その為、毎晩のようにメールを交わしていた。お互いの近況を報告するだけの簡潔なメール。しかし今日は違った。
「俺さ、花火職人になりたい。それで玲の笑顔を守りたい。俺が作った花火で、玲を感動させて、泣かせたい。」
そう送ってきたのだ。私は勿論驚いた。思ってもみない、発言だった。
本心を語ると、私が暮名くんの将来のレールを潰してしまったようで、申し訳ない気持ちは拭えない。素直に喜べなかったのが事実。
けれど、その言葉は本心だったようで、毎日近況を報告してくるようになった。お父さんとの関係も良好なようで、私まで嬉しかった。
学校も始まり、文化祭の準備に終われていた。
私のクラスはメイド喫茶、暮名くんのクラスはお化け屋敷をやるそうだった。暮名くんはお化け役をやるそうで、度々衣装を着て私を怖がらせた。
その時の私たちは間違いなく、線香花火で言うところのあの陽の瞬間だった。
暮名くんは度々し花火を試作し、成功しているようだった。
「玲には完成したの、見せたい。」
と言って、私には見せてくれなかったけれど。
そんな多忙な時期でも暮名くんと私はよく遊びに出かけた。
幼少期に作ったお互いの穴を埋めるように、私たちはずっと一緒に過ごしたのだ。
憧れだった放課後デートも数えられないほどした。
手だって何回繋いだか分からない。あの大きな腕に閉じ込められて、早くなった鼓動を聞くこともあった。
その度に暮名くんは歯の浮くようなセリフをいとも簡単に言ってのけ、私の頬を赤く染めた。文化祭の準備で男子生徒と話すだけで、その腕の力は強まる。
「俺以外の男と喋んないで。妬く。」
私の肩に顔を埋めながら、そう何回も言っていた。
暮名くんだって、学校中の人気者だ。その尊いルックスと弾けるような笑顔を見るため、上級生も一年生のフロアにやってくる。
そうやって女の子たちと話している度、私の心は騒つく。急に靄がかかり、自分の中の悪魔が蠢くような感情に駆られる。
だけど、暮名くんは私よりも上手。
本当にずるい人だった。そんな暮名くんを見るだけで、私の靄は瞬く間に晴れていくのだ。
だけど、いいの?
他の男の子と、私話してるよ?
取られるかもしれないよ?
いいの?
お願い。取られないでよ。
言葉が溢れて止まらない。
俺だけ見てて。そんな顔他の男に見せないでね。ずっと一緒にいて。そう言っていたのに。
どうして貴方は目を覚まさないの?
私、取られちゃうよ。
それが嫌なら、お願い。目を覚まして。そしてあの笑顔で私に笑いかけてよ。
抱きしめて。
キスだってしてよ。
光蘭祭りよりも深いキスを。あれ以来していないでしょう。
お願い。
あれはいつ頃だっただろうか。
あまりにも頭が朦朧としていて、正直覚えていない。でもマフラーをつけていたから、きっと冬なんだろう。
私たちが住む街は田舎だ。冬は勿論のこと、雪が積もる。街全体が、銀景色になるのだ。
その白く染まった景色が、赤く染まるなんてことがあってはいいのだろうか。
悴む手を口元に持っていき、息で温めていた時だった。
暮名くんと別れて、まだ頬が高揚していた。
あの笑顔を思い出して口角が自然と緩んでいた。
そして帰路につくため、横断歩道へと向かった。信号が青なのを確認して、私は足を踏み出す。
「玲…!」
愛しい声だった。
けれどその声は強張っている。声の方を振り向くと先程別れたばかりの暮名くんが走っている。
その顔は緊迫しているようで、口を大きく開けて眉が吊り上がっている。
その視線の先を見ると、暴走しているように横断歩道へ一直線へ向かってきているトラックが見えた。
あ、ぶつかる。
そう思った瞬間。全てがスローモーションに見えた。いつもは少し冷たい手の中に包まれる感覚。暮名くんと出会って人生が変わった瞬間。
これが、走馬灯とでも言うのだろうか。
覚悟して目を強く瞑った時だった。
ドン
という鈍い音が轟く。けれど、何故か何処にも痛みを感じない。
嫌な予感がした。
恐る恐る目を開けてみると、トラックは進行方向がずれたようで歩道のレールにぶつかっていた。
そして、目の前には、そう。血を流して地面にひれ伏す暮名くんがいた。大きな体は横断歩道一面に広がり、白線がみるみるうちに赤く染め上げられる。
「…え?」
驚き、というものなんかじゃなかった。
この時の気落ちを、何と表現すればいいのだろう。ただ何も考えられなかった。
一抹の希望が何者かに掬い上げられるように、目の前が真っ暗になった。
あまりにも静かで、自分の心音しか聞こえない。
何が起きているのか、分からない。
けれどそんな頭の片隅で、暮名くんが私を庇ってトラックに轢かれた、という事実だけが鈍器となって刺さっていく。
「おい!誰か救急車を!」
張り詰めた声で通行人が叫ぶ。
高校生が轢かれたという事実は大きさを増して、みるみるうちに野次馬が増えていく。
「く、く、暮名、くん…?」
私はぐったりと血を流している暮名くんを前に情けない言葉しか出てこない。辺りは雪が降りしきっているのに、私の脈は熱く熱く全身を駆け巡っている。
何も出来ない自分が憎い。救急車を呼んだり、意識が戻らなくても声をかけることだって出来たのに。
言葉を織って紡ぐことが出来ない。
その後、高いサイレンを鳴らしながら来た救急隊員に暮名くんは運ばれていった。
ただ呆然とその場を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
今にも泡を吹いてしまうほどの顔面蒼白だったのだろう。1人の救急隊員が私を労うように顔をのぞく。その顔はやはり暮名くんじゃない。愛おしそうな目で私の顔を見る暮名くんじゃない。
その時、ようやく現実味を増した。
「暮名くんを、助けてくださいっ。お願いしますっ。全部全部私のせいなんです。私が注視していなかったから。私を庇ってこんな事に。
お願いします。助けてください。」
強く訴えるでもなく、ただ小さく蚊の鳴くような声で捲し立てる。側から見たらおかしな人だっただろう。精神が異常だと。
その言葉を言ってしまうと、どうしても現実なんだと感じてしまう。
暮名くんは私を庇ったのだ。
死んでしまったらどうしよう。
そうなれば、私は人殺しだ。
私の救世主をこの手で。
大好きな大好きな暮名くんを失うなんて、私はどう生きればいいのか分からない。暮名くんに謝っても、もう取り返しがつかない。
ゲームみたいに一からやり直せるほど甘くない。
「全力を尽くします。」
助けられる、と断言はしなかった。けれどふわりと笑う笑顔に安心したのは事実。
そこからはほとんど記憶にない。
何故か私も救急車に乗って同行した。
血が溢れて、顔が蒼白くなっていくその様子をずっと見つめていたように思う。
後から聞いた話だが、暮名くんは頭を強く打っていて、命の危険が迫っていた。数日間はいつでも急変してもいいよう、特別な部屋で治療していた。
病院で暮名くんの処置が行われている際、暮名くんのご両親が到着した。
お母さんは息子の事故に気が動転しているようで、今にも叫び出しそうに泣いていた。
お父さんはそんなお母さんを慰めるように、背中をさする。
けれど反対の手は強く強く握っていたようで、痛々しく爪の跡がついていた。
「私が見ていなかったせいです。私を庇って暮名くんは事故に遭ってしまいました。本当にごめんなさい。」
いくら頭を下げたって、あの笑顔が再び見れる保証はない。
「貴方のせいではない、咲口さん。貴方と出会ってから翔は明るくなって、私たち家族とも円満にいくようになった。だから謝らないで欲しい。これは翔自身が選択した出来事だ。そんなに自分を責めていたら翔も浮かばれない。」
息子の命が危険。
恋人でもこんなにも辛いのに、息子だとその悲しみは比較できないほどだろう。なのに、お父さんは私なんかを気遣ってくれていた。
素敵な人だった。
その瞬間、抑えていた涙が頬を伝う。
私は暮名くんのお母さんと一緒に、涙が枯れるまで泣いていた。色んな感情が織り混じって、涙が枯れるのには時間を要す。
私の線香花火が枯れた瞬間だった。
暮名くんは何とか一命を取り留めている。
頭の打ちどころが悪かったら即死だったらしい。トラックと正面衝突したのに生きていられるのは、奇跡らしい。
けれど、暮名くんはあの日から目覚めていない。
いつ目覚めるかの目処すら立たない。一生目覚めないことを覚悟した方がいいと医者に言われたらしい。
死んだように息を潜めて、病室の一角で眠っている。酸素マスクをつけて白い肌を更に白くして、気持ち良さそうに。
私はあの日から罪悪感という名のしこりが心臓の奥深くに根付いていて、どうやっても取れない。このまま眠り続けていたらと思うと、殴られるような頭痛が襲う。
「今日もありがとう。玲ちゃん。」
私は毎日のようにお見舞いにきている。今日も放課後走って病院までやってきた。そこにいるのは暮名くんのお母さんだ。
暮名くんの家族は私を非難するまでもなく、まるで家族のように扱ってくれる。
けれどそんなお母さんは見るたびに憔悴しているような気がする。
ツヤツヤだった髪の毛は次第に乱雑に結われていて、大きな双眸の下には黒いクマが広がっている。
「暮名くんは、落ち着いていますか?」
息を整えながら、愛しい人が眠るベッドの前へと足を伸ばす。この時間は約半年経った今でも一向に慣れない。もしかしたら何事も無かったように眩しい笑顔を見せてくれるかもしれない。反対に息が浅く苦しんでもがいているかもしれない。
けれど、今日もどちらでもない。
いつも通りだ。
死んでいるように、音も立てず眠っている。
その白い瞼が持ち上がることはない。
「そうね。玲ちゃんが来てくれてるからかしらね。」
そう笑う顔は暮名くんにそっくりなのだ。思わず目頭が熱くなって、天井を仰いだ。
私は近くにあった椅子に腰掛けた。
長いまつ毛が肌に影を落としている。酸素マスクが呼吸の度に白く曇り、今にも「おはよう。」と何でもない顔で抱きしめてくれそうな気がする。
暮名くん、私たちもう二年生だよ。
同じクラスになれたんだよ。移動教室だって一緒に回れるし、席が近くなったらずっと一緒にいられるよ。
そんな思考を振り払って、私は乾いた笑いを落とす。
ただの現実逃避にしか過ぎない。
決して既読もつかない、返信が来ないメールを送るのもそろそろやめよう。もしかしたらと、心の底では縋る気持ちがあるのだろう。
「おはよう。」
「今日は学校が休みだって。」
そんな報告するだけのメール。
暮名くんのスマホには、何百通もの通知が溜まっていると思う。現実を見ないところも、私の短所だ。
ふと窓の外を見てみると、大きな入道雲が空に描かれている。ハッキリ、クッキリと線を描いて。
もうすぐ一年が経とうとしていた。
私たちが手を握り合ったあの日から。
暮名くんのお父さんは今年も光蘭祭りで打ち上げられる花火の制作に忙しくしていた。毎日会っていたお父さんは、近頃全く会っていない。今年は何か壮大な構想があるらしく、毎日部屋に篭っているらしい。お父さんは弱音こそ口にしないものの、暮名くんの手を握る力が強かったのを私は知っている。
暮名くんに冷たく当たっていた時期があったのは嘘ではないらしい。
花火の素晴らしさを知ってもらいたい、それだけを追求するあまり暮名くんを気遣う余裕が無かったと、お母さんは教えてくれた。
「けれど、そんなあの子が花火を一生懸命作って、頑張っているんです。玲ちゃんに喜んでもらえるように、と。」
涙を流しながら、嬉しそうに笑っていた。
それほど私の存在は大きかったと感謝までされてしまった。
そんな話をお母さんはよくしてくれるようになった。
「翔の一目惚れだったみたいで。お花に水を上げる姿に惹かれたらしいわよ。
元気がない花に向き合ってる笑顔が好きになったと、ぽろりと口から溢してたの。
昔から女の子が苦手だったあの子が、人を好きになってくれているなんて、聞いた時は涙が出そうだった。」
暮名くんの口からは溢れることがなかった言葉。そんな言葉をお母さんは、
「内緒よ?」
と小指を唇に当てて話してくれた。
私のことを心から信用している面持ちで、微笑みかけてくれた。
その話は気恥ずかしい気もするし、私に向けられるべきものではないとも思う。
けれど、そんな話を聞くたび、私は暮名くんに恋焦がれてゆく。
何も出来ない。迷惑をかけることしか出来ない自分がどうしようもなく嫌いになっていった。
あの時のように。暮名くんに会う前の私に戻ったみたいだ。
勿論家族との関係も良好にならないし、家に遊びに来た弟の友達ですら私を軽蔑しているように思える。弟が何か吹き込んでいるのだろう。
日々、まるで地中に眠った怪物が這い上がっているような気がしてならない。
気を緩めてしまえば、その怪物の醜い姿が顔を出す。
今にも壊れてしまいそうなのだ。
再び、ふとおばあちゃんの言葉を思い出している。
確かに、人生は線香花火かもしれない。
細くて拙い小さな棒から編み出される光と闇の数々。人生にはその人だけの苦労がある。死んでしまいたくなることがあるのは、痛いほど分かる。
どうして自分はこうなのか。そしてそれを変えられない自分にも腹が立って仕方ない。
こんなことを言うのは早すぎると言われてしまうかもしれない。
けれど、人生は闇だらけだった。光が灯った時期なんて、暮名くんと過ごしたあの一瞬。静かに儚く消えてしまったけれど、あの一瞬だけは確かに幸せだと叫べた。
線香花火でいうところの、思わず目を細めてしまうような眩しさが咲くあの一瞬。あの光だけを求めて人はもがく。
けれど次第に光り輝く時間は過ぎ去り、最期は全てを失い消えていく。
私の人生の線香花火は、潰えてしまった。
暮名くんのいない日々なんて耐えられない。いっそずっとこんな自分を嫌いでいるだけの方が、幸せだったのかもしれない。
あの光を知ってしまったら、人間は貪欲にその光を求めてしまう。
もし、人生が線香花火なんだとしたら、もう私は線香花火を愛することが出来ない。
大嫌いだ。
『玲ちゃん、今日の光蘭祭り来てくれる?』
私の狭くて暗い一人部屋がスマートフォンの画面によって照らされる。
時刻が六時を過ぎていたからか、余計に画面の明るさが引き立つ。
友達もいない私のスマートフォンの通知がなるなんて、滅多にない。
だからか、心臓がヒュッと鳴った。
暮名くんかもしれない。
もしかして目覚めたんじゃ…?
そんな思いを抱えて覗いてみると、差出人は暮名くんのお母さんだった。
そういえば、今日は光蘭祭りだ。
毎年花火に恋焦がれて、赴いていた祭り。そして、暮名くんと共に笑った思い出のイベントである。
けれど、今年は行く気になれなかった。あの壮大な花火を前にして、自分のちっぽけさが引き立って、暮名くんを思い出して、きっと泣いてしまうだろうから。
あの場所へ飛び込むには、私は堕ちすぎた。
『行かない予定でした。何かありましたか。』
ベッドに横たわり画面を操作する。メッセージを送るとすぐに既読がついた。
『今日の花火、玲ちゃんにぜひ見てもらいたいって、旦那が。予定が無ければ来てくれないかな?』
謝っているスタンプと共に返信が来た。
私が花火が好きだということは暮名くんから伝わっていたらしい。暮名くんのお父さんの花火を毎年見ていることも。
だから、それも兼ねて誘ってくれているのかもしれない。
断る気にはなれなかった。
もし花火を見て心臓が縮んてしまいそうになっても、自分自身のせいだからと腹を括るしかないのだろう。
『分かりました。』
私はそうメッセージを送った。
「玲ちゃん、呼び出してごめんね。見て欲しいものがあって。」
私たちが待ち合わせしたのは、屋台が連なる通りの入り口だった。
他にも待ち合わせらしい人が列をなしていた。スマートフォンを眺める者。小さな手鏡で自分の身なりを確認するもの。
どれも甘酸っぱくて、去年のことを思い出してしまう。
慣れない草履で向かう道は難しかったけれど、これから起こるであろう出来事に思いを馳せて苦にならなかった。何度も手鏡で自分の容姿を確認していた、甘酸っぱい思い出。
あの日から一年。
思い出すだけで、息が苦しくなる。
「いえ。お待たせしました。」
小さく微笑みながら私は暮名くんのお母さんの元へ駆けた。足の重みが去年より軽くて、暮名くんがいない事実を私に突きつける。
「じゃあ、案内するね。」
そう言って案内されたのは、打ち上げ花火が一番よく見える河原だった。きっと関係者じゃないと入れない。
有料席でさえも、もう少し離れている。
そして河原には大量の打ち上げ花火と思われる群が広がっていた。
「ここって…?」
こんな舞台裏に私なんかが来てしまってもいいのだろうか。
「言ったでしょ。見てもらいたいものがあるって。」
何かを企むようにお母さんはニヒルに笑う。その不敵な笑顔に疑問を覚えたのも束の間。
「いきます!」
そんな声が聞こえた。
野太くて、強くて、思わず肩が跳ね上がる。
その声の方向をみると、暮名くんのお父さんが立っていた。
ヘルメットを被って仲間に指示するお父さんは、かっこよかった。花火職人ってすごいなとまた思う。
そしてみんなを率いて、目標となるその姿は暮名くんに似ている。
ドーン
花火が打ち上がった音がする。
こんなにも花火が近かったことはない。思ったよりも大きなその音に、お母さんも私も驚きを露わにした。
光蘭祭りの花火は、一つ一つの花が巨大なことで有名である。
一発の威力では日本でもトップクラスで、広大な空に一輪の巨大な花が咲き誇る。
この花火を見に、観光客が訪れるくらいだ。
私は光の筋を辿った。
今年はこの壮大な花火を見て、どう思うだろう。
…あれ?
けれど、中々巨大な花は咲かない。小さな花が咲き、少しの間沈黙が訪れた。
もしかして失敗なのかもしれないと思っていた時。
小さな破裂音が無数に爆ぜる音が辺りに響き渡った。
私はその光景を見た瞬間、息を呑んだ。
呼吸も忘れてしまう。
先ほど咲いた花の周りに、一気に無数に花火が広がる。
弧を描くように、無数の小さな花が層になって、咲き誇っていた。
何百にも及ぶ小さなは花が色とりどりに空を埋め尽くして、それは視界に収まらないほど。
微かに残る雲を赤く、青く、白く、黄色く染めている。
空という巨大なキャンバスが、丁寧に、かつ大胆に色をのせられているような感覚。
非現実的な美しさだった。全身が震えて、鳥肌が覆うのを感じた。
ワアァァァッ
花火を見に来ていた人々から次々に歓声が上がる。会場がこの花火の美しさに目を囚われている。
私もその一人だった。
「すごい。綺麗。」
この時の感動をどんな言葉で紡げばいいのだろう。一輪に咲き誇る花火よりも、小さな存在が集まって、大きな形を成している。
余白など見当たらず、空を彩り続けている。
何人もの心を掴んで離さない花火がそこにあった。
花火は優しい音で上がり続けて、空に色を残していった。
こんなに綺麗なものが世界に存在していたんだ。
恐れていたものは、何もなかった。
自分の存在なんてその時は思い出すことも出来なかった。
ただ花火に心を動かされた、幼少期の気持ちが思い出される。
どうしようもなく、目が離せないでいた。
「良かった。これを見せたかったの。」
あの花火の後、巨大な一輪の花火に戻った。
もちろんそれも美しかったが、私はあの感動を超えることはできなかった。
クライマックスも終了し、興奮が冷め切らぬまま暮名くんのお母さんにいかに感動したのかを語った。
その話を聞くと、会心の笑みを浮かべた。
「ありがとうございました。」
「いいえ。泣いてしまうほど感動してくれたのね。」
…え?
その一言で、私の頬に伝う涙に気がついた。
仕切りに流れて止まらない。
あの美しさに打ちのめされたようだ。
手の甲で涙を必死に拭うが、溢れて止むことはなかった。
「翔も喜ぶと思うわ。」
暮名くんのお母さんもそう言うと、目頭を親指で押さえた。
「暮名くんが…?」
どうしてここで暮名くんが出てくるのだろう。
その時、肩に何かが触れた。
思考を巡らせていた私は突然のその感触に肩を跳ね上げた。恐る恐る振り返るとそこには暮名くんのお父さんが立っていた。
ヘルメットと作業着を身につけ、普段と違う様子に緊張してしまう。
「あの花火は、翔が作ったんだ。」
そう言い、お父さんは私にB5サイズくらいの紙を手渡した。
暮名くんが作った?
暮名くんはずっと眠っている。そんな訳がない。あり得ない。
けれど私は吸い込まれるようにその紙を眺めた。
その紙には、花火が打ち上がった時の構想図だろうか。それが描かれていた。
『玲を喜ばせる花火』
そんな見出しが目を引く。
滑らかで綺麗な線が特徴の筆跡だ。
「暮名くんの字。」
気がついた瞬間、息を呑んだ。呼吸が苦しくなった。もしかしてと言う自分に都合の良い妄想が並べられていく。
紙の下の方に目をやると、私が涙した花火が描かれている。
地平線に、無数に爆ぜる花火たち。
その花火には棒線が引っ張られていた。
『花火が好きな玲だから、沢山咲かせたい』
『色とりどりの花火に目が輝いていた。だから色んな色を一気に出したい』
『…難しい?』
『視界が花火でいっぱいになったら玲が感動してくれるかも』
『玲は青が好きだから、青を多く』
『玲の心を癒す壮大な花火にしたい』
『玲を俺の花火で泣かせたい』
『玲の笑顔が見たい』
涙で視界がいびつに歪んでいく。
ああ、どうして、この人は。
私の心を掴んで離さないんだろう。
「泣いちゃったよ、ばか。」
思わずそんな可愛くない言葉が喉をつく。あの花火は私を想って作ってくれたらしい。言葉通り、どうしようもないほど心が震えた。
この世にあんな美しいものがあったなんて。それを暮名くんが作ってくれた。私との約束を覚えてくれて、それを実現してくれた。
そんなことを知った暁には、私の暮名くんの気持ちは止まらなくなってしまう。
「翔がこんなことを書いていて、びっくりしたんです。だけど、それなら旦那が作ってあげようって。翔の願いを叶えてあげようって。」
まだほんのりと色づく雲を見上げながら、暮名くんのお母さんは呟いた。
もう、感謝しても仕切れない。
「翔の作戦、成功したみたいね?」
僅かに赤く染まった瞳で私を見て、不敵に笑う。私もその笑顔に釣られて自然に笑みと涙が溢れた。
寡黙なお父さんもお母さんの言葉に同意して、
「喜んでくれたなら、良かった。」
と語ってくれた。
そして私たちはいつまでも、暮名くんの匂いのする空を見上げ続けていた。
私の人生の線香花火が再び灯ろうとした瞬間だった。
その闇を切り裂くように、暮名くんのお父さんのポケットに入っていたスマートフォンが鳴り出した。
プルルルル
そんな高い音が不気味になった。
「…はい。」
お父さんもその気配に勘付いたのか、いつもよりワントーン低い声で電話に出る。
「…え?本当ですか?」
その声に私とお母さんはその声に思わず振り向く。
はあ、はあ、はあ
ずっと病院までの道を走っていたから、息が上がってしまう。
胸が呼吸の度に膨れ上がり、心臓に押し出される血液はかつてないほど熱く巡っている。
三人ともそうだった。
病室の前にいるのに、その取手に手をかけることが出来ない。
けれど、どんなに息を整えようと努めても、解消されるどころか勢いを増してゆく。
手が震え出し、目頭が熱くなって何かが溢れ出す。
まだ何もしていないのに。
ただ走ってきただけなのに。
この重厚な扉の前に待つ景色を想像して、胸が苦しくて、気を抜いたら足の力が抜けてしまいそう。
そんな私とお母さんを横目に、お父さんが取手に手をかける。
「大丈夫だ。」
ゆっくりと視界が広がっていく。
いつもならそこに広がっているのは、無機質な白いベッドに天井。そして死んだように眠る暮名くんだ。
何かあったらどうしようかと、毎回背筋が伸びてしまう。
そんな瞬間。
思わず目を瞑ってしまう。
「…父さん?」
一番初めに耳をついたのは、あの愛しい声だった。
ちょっと低くて、だけど安心できるように静かで落ち着いていて、はっきりとした声。
大好きな声。
目を瞑っていたのに、その瞼の隙間を縫って溢れる何かを感じていた。
「翔っ…!」
次に言葉を発したのは暮名くんのお母さん。
先程までの落ち着きでは考えられない、悲痛な声だった。
きっとお母さんも辛かったのだろう。いや、辛い訳がない。
それなのに、私の居心地を良くするために、自分の辛い感情を押し殺してきたのだ。
私は徐に瞼を持ち上げた。
その視界に映った暮名くんに、足は動かず立ち尽くしている。
眠ってなんかいなくて、ベッドから体を起こしている。顔を覆っていた酸素マスクはない。
「翔っ。良かったっ、本当に良かった。」
お母さんの泣きじゃくる声。
「…母さん、ごめん。」
そんなお母さんの背中を摩り、あの優しい笑顔を浮かべた。その手にはスマートフォンが握られている。目覚めた時にすぐに確認できるように、常に充電は満タンにしていた。
だからきっと、事故に遭って約半年眠っていたことにも気がついたのだろう。
お父さんも暮名くんに近づき、肩をポンと叩いた。
背中だけで分かってしまう。お父さんも辛かったのだろう。時折上がる肩がそれを証明していた。
私は暮名くんを見つめた。
愛しい人が、目覚めた。それだけで私はもう、どうにかなりそうだった。その正体が、嬉しさなのか、安堵なのか、それまた違う感情なのか今は分からない。
けれど、暮名くんの笑顔を見ただけで、全てが救われた。
あの花火で世界に色がついて、暮名くんはその色が褪せないようにしてくれた。
「…うっ、うっ」
手のひらで口元を抑えながら涙を流す。その隙間から嗚咽が漏れ出す。
もう立ってることなんて出来なくて、病院の冷たい床にしゃがみ込んだ。この位置なら他のベッドの死角になっていて、暮名くんが私の存在に気づくことはない。
家族水入らずで過ごして欲しかった。
私が奪ってしまったその時間を。
だけど、分かっているけれど。
もう少し同じ空間にいたい。
ここを断つのは、私の涙が枯れてからにしよう。
暮名くんのご両親も、息子が目覚めた喜びを存分に味わったみたいで、暫くすると談笑が混じった泣き声へと変化していった。
私も現実味を増してきて、涙の筋が狭まっていく。
…帰ろう。
私は震える足を鼓舞して徐に立ち上がって、廟室の扉を後にしようとした時だった。
「玲ちゃん。」
私を呼ぶ声。お母さんの声だった。
「…玲?」
そしてそれに続くように発せられた暮名くんの声。驚きが露わとなっている。
コツコツとヒールを床に突く音が次第に近づいてきて、私の視界の片隅に収まった。
「あの、大丈」
最後まで言わせてもらえなかった。
お母さんのふわりと香る柔軟剤の匂いで充満していく。腕には温かい体温が伝わる。
抱きしめられていた。
「玲ちゃんには辛い思いさせたでしょう。気を使うなって言ってもそんなことは出来なかったわよね。私たちはもう大丈夫だから、翔の側に行ってあげて。」
耳元で囁かれる、そんな優しい声。
再び涙の線が太くなっていく。
「…っでも。」
「大丈夫だから。」
そんな声が耳元で聞こえたかと思うと、腕の温もりは離れ、病室の中へ押し出された。
お父さんも私の肩に手を置き、去ってしまった。
私が返答する前に、病室の扉が閉められ、私は暮名くんと二人きりになってしまう。
今の私は暮名くんにどんな言葉をかければ良いか分からない。
謝罪なのか、安堵なのか。
だけど逃げられるほど私は強くない。
二度も好きな人から逃げられない。
「玲。」
聞いたこともない、私を呼ぶ優しくて愛しい声がこだまする。その声に背中が伸びた。ずっと呼んで欲しかった。
半年間、夢にまで見た。
けれど、私はどうしようもなく弱い。目を合わせることは出来なかった。
「…うん。」
絞り出すように、その二文字を綴った。
「こっち来て。」
「…無理っ」
自分の汚れた靴を見つめて返事をした。
暮名くんに近づいたらどうなるか分かっている。その存在を確かめるように泣きじゃくって、理性なんか保てない。
でもどうしてだろうか。一歩ずつ暮名くんのベッドに足が向かっている。
もう理性は働いていないようだった。私だってずっとこの瞬間を夢見ていた。そう簡単に片付く問題じゃないのだ。
気がつけばそう遠くない距離を駆けていた。
そしてもう目の前には暮名くんがいる。白い入院服を着た、目を開けている暮名くんが。
「無理って言ったのに来てるじゃん。」
暮名くんは私を揶揄うように笑った。
その全ての動作に涙腺が緩んでしまうことを、君は知らないでしょう。
更に溢れる私の涙を見て、
「目、真っ赤」
と少し笑ったあと、物凄い勢いで私は腕を引っ張られた。
不測の出来事に私は抗うことなんて出来ない。気がつけば目の前に暮名くんの胸があった。暮名くんの膝に座るような体制になる。そしてその後には、あの日と同じような暖かな体温に包まれる。
そして強く、強く腕が絞められた。
半年間分の空白を埋めるように、強く。
「ごめんな。本当に勝手に半年も眠ってて、ごめんな。」
頭上からそんな声が降ってきた。
暮名くんのものとは思い難い、消えてしまいそうな声。いつかの日のように私の肩に顔を埋めている。
「ほんとだよ。ばか。」
そう暮名くんの背中を叩く。相変わらず暖かくて、この体温に再び包まれることに泣かずにはいられなかった。
肩に冷たい感触が広がる。
暮名くんの涙だった。
それからは二人で涙が枯れるまで泣いた。私は声を張り上げ、暮名くんは静かに現実を噛み締めるように泣いた。
けれど、途方もなく幸せだった。
そして、花火の話になった。
あの美しさを、感動を伝えた。
「嬉しかった。本当にありがとう。」
私がそういうと恥ずかしそうに暮名くんは頭を掻く。あの構想図も見たというと、頬を赤く染め上げていた。
どれくらいの時間を話していたんだろう。
話題は尽きることなく、腫れた目でお互いを見つめあった。
「ねえ、」
そんな声に振り向くと、暮名くんの綺麗な顔が目の前にあった。
…あ
私は自然と目を閉じる。
その直後、途方もないくらいの温かさの傍ら、柔らかい唇が重なった。
「ん。」
暫く唇を重ねると、角度を変えて、味わうように短いキスを降らせた。その気持ちよさに私は頭が回らなくなる。
暮名くんは私の腰を手繰り寄せて、逃げられないようにする。
「…暮名くん、っ、やっ」
「嫌じゃないでしょ。」
そう言うと、唇を更に押し付けて、頭が溶けてしまいそうだ。
「…んっ…ふあ」
次第に激しくなり、どんどん深く唇を重ねる。何も考えられなくて、私も暮名くんの背中に手を回した。
暮名くんの舌がついに口の中へ入ってくる。
もつれる舌を絡ませ、吸われ。満足な言葉も出せないまま、快感に溺れてしまう。私の許容範囲を超え、自然と涙が溢れてしまった。
こんなテクニックをどこで習ったのだろうか。
半年分の隙間を埋めるように私たちはキスをし合った。お互いの頬に流れる涙のしょっぱさを感じるキスだった。
そしてようやく唇が離れた。
私は暮名くんの胸を叩く。
「息、出来なかったじゃん。」
睨んで暮名くんに訴えかける。
けれど暮名くんは頬を赤く染めた顔で、嬉しそうに笑うから私は何も言い返せなくなった。
その時、暮名くんが目覚めてくれた事実がようやく現実となって現れる。
でも、私はどうしようもなく幸せだった。
私たちはこれからきっと、これ以上の苦しみを味わうのだろう。
けれどその度お互いの光を灯しあって、人生という線香花火が輝くのを待っていくのだろう。
確かに、人生は線香花火なのかもしれない。
そして今は、今だけはこの眩い光に溺れていたい。