けれど、暮名くんを囲う、女子からの冷たく鋭い矢のような視線を浴びることも、少なくなかった。

「あんたみたいな、気持ち悪い人間が関わっていいような人じゃない。一体どんな手を使ったのよ!」

そう、くるくるな髪をした可愛い女の子たちに、暗い倉庫に閉じ込められたこともある。
生徒の私でも知らなかった、廃墟のような佇まいの倉庫。
初夏だというのに、冬のような冷たさが頬を掠る。

…はあ。まただ。

正直、何処かに閉じ込められることは慣れていた。
家でも、中学校でも、数えきれないほどある。
暗くても、身震いがするほど怖くても、点検に来た先生が見つけてくれる。
だから、まあいいか、とズキズキ痛む背中を丸めて、座った。
目の前には、暗くて、埃っぽくて、湿気ていて、まるで私を具現化したような、そんな空間が広がっている。本来、私はこんな寂しい空間にいるべき人間なのだ。暮名くんと出会ってから、私も普通の人間なのではないか、と浮かれていた。
身の程も知らないで。

…そうよ。私の居場所はここなんだから。

確かに、私は暮名くんと関わっていいような人間じゃないじゃない。
分かっている。
自分の気持ち悪さも、全て痛いほど知っている。
けれど、その日はどうしてか、自分の感情を制御出来なかった。
苦手な蜘蛛は平気だったのに、涙が膝を濡らして止まらない。
今は、この暗い空間から逃げ出したい。そして、あの眩しい笑顔が見たい。

怖い…っ。助けて、暮名くん。

そう思っても、こんな使われていない倉庫に来てくれるわけがない。存在すら知らないだろう。
なのに、その名前が、笑顔が浮かんでしまう。

「助けてよっ」

そんな私の蚊の鳴くような声は、すぐにかき消されていく。
その瞬間だった。

ドンドンドンッ

倉庫の扉が、叩かれる鈍い音。
もしかして。

「暮名くん?」

不意にあの人の名前が、溢れ出た。

「咲口さんっ。いる?いるなら返事して!」
「…っ、うん!」

間違いなく、暮名くんの声だった。
その声は、切羽詰まっているように強張っていて、いつものような余裕がない。けれど、暮名くんが来てくれた、という事実が、恐怖を掻き消す。代わりに、どうしようもない安堵に包まれた。

はぁ。良かった…

冷たくなった手で、更に勢いを増す涙を懸命に拭く。

「大丈夫?今開けるから」

そんな声が降ると、倉庫の扉はギギギと耳障りな音を立て、開かれる。
差し込む夕日の逆光が眩しくて、思わず目を逸らすと、私の体は一瞬にして温かいものに包まれた。

「暮名、くん?」

横を見ると、暮名くんが私の肩に顔を埋めていた。
そして、私の背中に手を回して、強く、息が苦しくなるくらい抱きしめた。火照った顔と、ふわりと香る暮名くんの匂いが、鼓動を早くする。

「ちょっと、苦しいよ。」

いつまで経っても私は可愛くなく、そう暮名くんの背中を、ポカポカ叩くけれど、効果はない。
諦めて身を預けていると、暮名くんの荒い息遣いが聞こえてきた。
走ってくれたらしい。

「ごめんっ。本当に。俺のせいでっ」

暮名くんには似合わない小さく、震えた声だった。
本当に私を心配してくれたんだ。
なんて単純なんだ、と我ながら思うが、その一言で私の恐怖は薄れていく。ただ、私を心配して、探してくれた事が嬉しい。
この時だけは、自分の気持ちに素直になってみよう。

「…ふふふっ」
「なんで、笑ってんの」

私の肩に、顔を埋めたまま、暮名くんが呟く。

「んー。怖かったけど、嬉しい。ありがとう、来てくれて。」

ヒーローみたいだった、と小さく付け足す。
ん、と暮名くんは頷く。
そして私も、暮名くんの大きな肩に顔を埋めた。その時間が心地よかった。
暫くその場にいた後、私たちはようやく倉庫を出た。
暮名くんは私が思っていた以上に、探してくれていたみたいで、その制服は汚れていた。

「あの女たちには俺から言っといたから、もうこんな事はないと誓う。ごめんな。」

最後に、暮名くんはそう言っていたと思う。
そう語る瞳は、いつものような輝きはなく、闇に染まっていて背筋に怖気が走る。
次の日、登校するとあのくるくる髪の女の子たちが私に謝ってきた。
その瞳は、何かに怯えるように小刻みに震えている。
もしかしたら、暮名くんが、とまた私の心はあの温もりに包まれたのだ。


その頃からだろうか。
いつの間にか、暮名くんの姿を追ってしまうようになったのは。
花壇の水やりに校舎裏に来ても、視界に映るのは、太陽の下でボールを追いながら、駆け回る暮名くん。チームメイトと笑いながら、時に真剣にボールを見る暮名くんに、胸が高鳴った。
世界に色がついたみたいに、私の日常が輝き出した。
興味すら持てなかったメイク用品にも手が伸び始めた。
可愛い女の子を観察して、仕草を真似してみたり。
髪型も、メイクもバッチリ決まった日は、一番に暮名くんに見せたい。
そう思うようになった。
褒められた日は、ずっとふわふわ浮いてる気分になるし、ずっと手が痺れて、心臓が微かに痛んで止まない。
ずっと、私だけが抱いているものだと思ったら、違ったらしい。

ある日、私は暮名くんに呼び出された。一学期が終わる頃だった。

「俺、咲口さんのこと好きなんだ。付き合って欲しい。」

そう言われた時は、もう心臓がバクバクだった。
あの日のように、耳まで真っ赤にして、小刻みに震えている手を差し出している。

え…?
暮名くんが、私を?
こんなかっこいい人が、私を?

信じられなかった。頭の中が、ハテナマークで埋め尽くされていたように思う。それくらい、叶わない気持ちだと半ば諦めていたのだ。
ただでさえ、状況を呑み込む速度が他人より遅い私だ。暮名くんが、私を好きで、恋人になって欲しいと理解するのには、時間を要した。

「わ、私?」
「うん。咲口さん。」
「本当に、私?…私でいいの?」

頭がパニックになって、何度も確認をした。もしかしたら、これは自分に都合の良い夢を見ているだけなのかも、と。
けれど、頬をつねっても、ちゃんと痛かった。
そんな私を見て、

「夢じゃないよ。現実」

という暮名くんの優しい声が降りかかる。
体を起こした、その整った顔を見つめる。見つめたその瞬間、暮名くんの頬は少し赤くなった気がした。

本当に、私のことを好きなんだ。
こんな、私のことを本当に…。

疑問は確信に変わった。そして、その瞬間、気がついたら視界が歪んだ。握り込んだ拳に、何やら生暖かいものが落ちる。

「、、ううっ」

そう声を上げる私に、暮名くんは困ってしまうだろう。眉を寄せて、少しはにかみながら。
けれどそんな心配をしている余裕なんて、私にはなかった。

不意に、景色が一変した。
ふと、暗い押し入れで啜り泣く声が聞こえてきた。
空中から映像を見下ろすように、場面を眺めている状況だ。
私は、この声を知っている。
絶対に忘れる事ができない。あの日々。

「ごめんなさい…。怖いよぉ、怖い。ごめんなさい。出して…。」

間違いない。
これは、私の幼少期。
小学校の授業参観があった日だろうか。両親が観にくるということで、周りの生徒は勉強に勤しんでいた。
母はプライドが高い人だった。実際、難関大学出身である。
だから私のことを目の敵にしていたのは、主に母であった。
私は勉強が出来ない。授業だって、ついていくのが精一杯だった。
けれど、その日は授業参観。
私だって、弟のように可愛がって欲しかった。
愛おしさを袋一杯に詰め込んだ笑顔で、私を見て欲しい。怒らないで、ただ普通に話したい。褒められたい。
そんな欲望が、幼い私にもあったのだろう。
母と父が教室の後ろに立つ。
母は世間体を一番に気にする人だ。授業参観に来ないわけがなかった。

「この問題、分かるお友達いるかなー?」

気苦しそうなスーツを着た先生が、子供をあやすような猫に似た声を出す。その声を合図に私は手を挙げ続けた。
もちろん、私が手を挙げたことなんてない。
先生は私の手が挙がると、嬉しそうに私の名前を口にした。
けれど、私は正直分からなかった。答えられるはずもない。
口篭ってしまうのも当然なわけで。

「咲口玲ちゃん、分かったら手を挙げましょう。」

と先生から言われてしまった。
クラスメイトは、クスッとバカにしたように鼻で笑っていた。けれど、私にはその言葉の真意を理解していない。それからもずっと、父と母が帰るまで、先生とクラスメイトを困らせ続けた。授業参観なのに関わらず、先生の語尾が強まっていたくらいだ。

元々、私を気味悪がって閉じ込めたりすることはあった。
けれど、それは一時的なものだった。
母は、

「これは、おかしなあんたを躾けてやってんだから。」

と怒号を浴びせていた。しかし、授業参観後、帰宅すると、そんな生ぬるい躾が待っているはずもなく。
恥ずかしいと始終叫んでいた。

「あんたを産んだ私が間違いだった。親だって子供を選べたら良かったのに。お前は私の子じゃない。」

と吐き捨てたのは、流石に何かくるものがあった。
心臓を握り潰されたような、崖から突き落とされたみたいな絶望。
そして、私をまたあの暗い押し入れに閉じ込めた。
父に助けを求めても、私の顔を白い目で一瞥した後、何処かへ行ってしまった。家族に自分を愛してくれる人はいなかった。

怖かった。
暗くて、一人ぼっちなのが。

小さな手はずっと震えていて、泣くのをやめてしまえば、気を失いそうなほど。その時に私はようやく理解したのだ。
私は、普通ではない。
おかしくて、生まれてきたらいけなかった人。居るだけで不幸にしてしまう、疫病神みたいな人。
辛くなかった、と言えば嘘になる。
押し入れの中で号哭した。
あの日がきっと、人生で初めての、遅すぎる挫折。

それからは、誰かからの愛を求めなくなった。
初めから諦めることにした。
どうせ、私なんて愛される長所の一つもないのだ。恋人を見て羨ましいと思った事はあっても、自分がそうなりたいか、と聞かれれば、違うと断言できる。

けれど、どうしてだろう。
何故か、この言葉を聞いた瞬間涙が溢れてしまった。

求めてなんか、いないのに。私はずっと、暮名くんの笑顔を眺めているだけで良かったのに。

その言葉を聞いた瞬間、次を求めてしまった。
あのラブラブな恋人を、私と、暮名くんに置き換えてしまう。
どうして、暮名くんの「好き」がこんなにも辛くて、嬉しいのだろう。
無意識に、涙が溢れてしまう。乾いたアスファルトに楕円形のシミが落とされていく。
その涙に釣られるように、口が開く。

「私も、暮名くんが好き。でも、恋人になりたいか、と思ったら分からない。私なんかが幸せになって、いいのかなって思っちゃうの。」

こんなことを言ったって、困るだけだろう。
急に泣き出して、面倒臭いと思っているかも。
けれど、次の瞬間、頭ごと何かにスッポリ覆われた。一瞬にして、滲む視界から解放される。

「そんなこと、ない。咲口さんが俺の事が好きって言ってくれて、すげぇ嬉しかった。咲口さんは、それだけじゃダメ?」

あの倉庫の時より、ずっと、強い力だった。
その腕の中は、熱く、早く心臓が鼓動していた。

ドクドクドク

暮名くん、緊張してる…?

と思ってしまうほどの、早くて強い音。
その音を聞いているうちに、涙が枯れていく。
あの押し入れの中は、苦しくて、息が出来なくて、震えが止まらなかったのに。
この温かい腕の中にいると、何故か、震えが収まってしまう。
不思議だ。
これが恋の力なのかもしれない。
私は、首を横に振る。

「ううん。そんな事ない。私も嬉しいっ」
「…っ」

蚊の鳴くような声だったけど、暮名くんには届いていたらしい。
いつの間にか体は離れて、温かい体温が逃げていく。
向かい合わせになって、私はようやく暮名くんの顔を見る。その顔は、太陽に照らされているせいなのか、赤い。

「じゃあ、もう一回言います。俺と付き合ってください。」

薄い唇の中から歯が見えてしまうほどの笑顔。
ニッと笑った顔を見ると、私まで笑顔になってしまう。

ずるいよ。

そんな顔されたら、もうこの欲望には抗えない。

「お願いします。」

そう差し伸べられた手を握ると、そのまま手を引っ張られた。突然の事に抗えず、暮名くんの体の中にダイブする。

「はあああ。緊張したー」

そんな声が降ってくる。

「私も、びっくりした。嬉しかった。」

今この瞬間の幸せを含み、笑い返すと、暮名くんは私を抱きしめる力を増した。
少し、息苦しい。けれど、この息苦しさが丁度いい。
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
その時、不意におばあちゃんの声が降ってきた。

「人生ってね、線香花火みたいなもの。」

その言葉の意味は、今でも分からない。
けれど、線香花火は、煌びやかに輝いて一瞬にして、人の心を奪う瞬間がある。
線香花火を囲う空間が、闇に包まれていたとしても、その光だけで一気に明るくなる。その光を見ているだけで、心が満たされ、今までの闇は嘘だったんじゃないか、とさえ思ってしまう。
もし、人生を線香花火とするのなら、この瞬間が間違いなく、あの光が灯った時だっただろう。役目を果たした太陽が眠りにつく中、暮名くんの腕の中で息をしていた、あの瞬間が。