「人生は、線香花火と同じなのよ。」
生前、私のおばあちゃんが言った言葉だった。
浴衣を着て、線香花火に興奮している私に、縁側で座りながらそうボソッと呟いていた。
「これと、同じなの?」
幼い私は、寂しそうに夜の帷を眺めるおばあちゃんに問いかけた。
その言葉に、おばあちゃんは寂しそうに笑ったのを、今でも覚えている。
花火が大好きな私は、線香花火に夢中になっていた。けれど、そんな私の視線を奪ってしまうほどの、儚い笑顔。
しわくちゃになった目尻を更にくしゃっと丸めて。
縁側の木目に手を這わせて。
そして、夜の闇に咲く、小さくて眩い光を見つめて。
「そうよ。線香花火は人生。ほら。もう落ちてしまいそうでしょう。」
私の左手に持つ線香花火を顎でクイっと指す。
「だけど、落ちる前に足掻いているのか、綺麗な光を放つ。ばあちゃんも、もうすぐだ。」
そう話していた。
その直後、線香花火は小さな火玉となって落ちていった。
これが、私が聞いたおばあちゃんの最後の言葉だった。
その二日後、おばあちゃんは亡くなった。
持病を持っているわけでもなかった。
笑顔も絶えなくて、よく私の話に耳を傾けてくれていた。
普通に、その人生を全うした。
人生とは、線香花火。
その言葉は、十二年経った今でも、理解が出来ていない。
けれど、人生を線香花火だと例えたその心が、もしいつ落ちてもおかしくない。どのタイミングで、火花が広がって消えていくのか、分からない。次に何が起こるのか分からない。そんな意味合いが込められているのだとしたら。
…私は、線香花火が大嫌いだ。
ただ、決められたレールを歩くだけがいい。
次の瞬間、何が起こるのか暗示されていて欲しい。光がなくとも、闇で染まっていても。
先の見えないというものが、人生なのであれば、私はこの命を放棄したい。
そう思ってしまうのだ。
私には、彼氏がいる。
高校で出会った、大好きな人。
性格も、声も、顔も、身長も、手の大きさも、少し冷たい体温も、髪色も、全てが愛おしくて、仕方がないそんな人。
私は、家族に虐げられている。
気がついたら、家族に嫌われていた。逆鱗に触れてしまった記憶もないのに。
可愛くて仕方がなかった弟も、物心がつくにつれ、私のことを軽蔑の眼差しで見るようになった。
でも、きっとその理由は分かっている。
私は、昔から上手く話せない。
自分の気持ちを、他人に伝えることが出来ない。
何をしても、普通の人より何倍もの時間がかかってしまう。
そう。私は、障害者なのだ。
ずるくて、醜くて、気持ちの悪い、障害者。
学校でも度々いじめられてきた。
けれど、そのいじめには理由があった。ただ、気に入らないという理由だけではない。
初めは普通のクラスメイトだった。
けれど、私がおかしいということに次第に気がついていく。
すぐに口篭り、突拍子もないことを、至って普通にやってしまう。グループでのレポート作成だって、私だけが上手に出来ない。
クラスメイトが、自分から離れていく、あの寂しさは、ずっと慣れない。
いつも、近くにいた存在が一瞬にして消えてしまうような。
自分を支えていた地面が、一気に剥がれ落ちるような。
絶望に近い感覚だ。
そしていつしか、私に対しての疑問が、醜さや、憎しみに変わっていく。
学校につけば、何かと罵声を浴びせられる。
机の中の荷物だって、ゴミ箱に乱雑に廃棄されている。
トイレの汚水を顔にかけられる。
そんな毎日が、顔を出す。
辛かった。私は何もしていないのに。
私は、普通にしていたのに。嫌われることなんてしていない。
けれど、私には反抗することも許されない。
「気持ち悪い」とか、「おかしい」という言葉は全て正論なのだから。
私の人生に、幸福というものはなかった。
友達だって出来なかった。ドラマや映画で見た、友達と笑って話すということが出来ない自分が悔しかった。
自分が大嫌いだ。
今すぐにでも殺してやりたいくらいに、憎い。
自分の容姿も、性格も、全てが、吐き気がするほど嫌いなのだ。周りが、最も簡単に行えることが出来ない。
でもそんな自分を殺す勇気すら持ち合わせていない、醜い人間。
そんな、私を変えてくれたのが、暮名くんだった。
暮名翔。
私と、同い年の男の子。
初めて出会ったのは、高校入学して、半年くらいだろうか。
私は花壇に水をやっていた。
校舎の裏側にある、陽の光が通らない場所に寂しく置かれている花壇。
ジメっとした湿気を含んでおり、その場にいるだけで、汗が滲み出そうな場所。生徒が通ることすら、滅多にない。だけど、私はそんな墓場のような地獄に追いやられている花壇が、可哀想だと思った。
陽の光を求めているのに、それが手に入らない悔しさ。
こんなにも美しい可憐な花を咲かせているのに、見向きもされないその花壇が私の同情を得たのだろう。
その花壇の存在を認知してから、私は毎日水をやりに来ていた。
その前に広がる運動場では、サッカー部が活動をしている。
青いユニフォームを着て、運動場を駆けている。チームメイトと笑い合って、まさに青春。
私とは、違う陽の世界にいる人たち。
羨ましい。私もあんな風に駆け回れたらな。
何度、そう思ったことだろう。
暮名くんも、そんな私と正反対の人間だった。
「危ない!」
切羽詰まったような、危険を知らせる低い声が、私の頭上に降ってきた。
え…?
驚いて顔を上げると、目の前にはサッカーボールが迫ってきていた。まるでスローモーションのように動くサッカーボールに気を囚われていると、ゴンという鈍い音と共に、顔に痛みが走った。
「っ…いたっ」
私は思わず、手で顔を覆う。
昔から怪我をすることが多かった。その理由は、私が危険を感知する能力が、人よりも劣っているから。
その重く、ハンマーで殴られたような痛みに、視界が歪んでいく。ボールが触れた部分が、ドクドクと熱く波打つ。
「すみません。大丈夫ですかっ」
私が蹲っていると、一人の男子生徒が駆け寄ってきた。
その声は、さっきの声とよく似ている。
顔を上げると、青いユニフォームを着た男子生徒が、申し訳なさそうに体を折り曲げている図が目に入る。
きっと、この男子生徒が蹴ったボールなのだろう。
「…はい。」
そう言うと、体を起こした男子生徒と目が合う。
すると、男子生徒は血相を変え、目にかかるほど伸びた前髪を、大きな手でわしゃわしゃと掻き乱している。
なに、この人。
その様子に疑問を感じ、痛みに耐えながら、顔を覆っていた手を見ると、赤い液体がついている。
まさか、鼻血?
「はあ。ついてない、本当に。」
私は保健室へ行こうと、体を起こした。
男子生徒は、まだ考え込んでいるのが視界に映る。
まあ、謝ってくれたんだし…
そう、校舎側へ体を翻した時だった。
ふと腰に温かいものが触れたかと思うと、次の瞬間には、私の足が宙に浮いていた。
鍛えているからだろうか。太く逞しい片腕が、私をお姫様抱っこするように、太ももの裏に回され、もう片方の腕は、私の背中を支えるように、無造作に肩に添えられる。
夏なのに、体が密着して、余計に体温が上がってしまう。
「え?何して…」
「すみません、走ります。」
私は、今その男子生徒によって、お姫様抱っこされている、と分かった時には、男子生徒に抱えられながら、保健室までの道のりを辿っていた。
長身ゆえの足の速さだった。
落ちそう、怖い…っ
頬に感じる空気が恐怖を倍増していく。
目をぎゅっと瞑り、男子生徒の腕を掴んで耐えていると、いつの間にか保健室についていた。
校舎裏から、保健室までは結構な距離がある。
男子生徒の額には、汗が滲んでいた。
「着いたっす。」
そう、私をぎこちない手つきで地面に下ろし、また前髪をわしゃわしゃと掻いていた。その長い前髪からチラリと覗く耳が少し赤くなっている。
少しだけ、笑みが溢れた。
「すみません。勝手に走っちゃって。でも、それ早く処置しねぇと思って。」
申し訳なさそうに、男子生徒は話した。
礼儀正しいのか、何度も私に向かって頭を下げている。そんな経験は初めてのことで、戸惑う。
そして、私の腕をふわりと掴み、保健室の窓を三回叩く。
「はーい。」
気だるそうな顔を見せた先生は、私の鼻血を見ると、素早くティッシュを持ってきた。
「大丈夫?」
「…何とか。」
苦笑いを浮かべながら、生返事をする。
そして、私たち二人を保健室に手招きした。保健室の真ん中にある、小さな丸机に座る。
ティッシュを貰いたいだけだったのに、大袈裟な処置にされるがままだったの私だった。それから暫く、鼻を押さえていると、自然と止血された。
それを確認すると先生は、はあとため息を吐きながら、私たち二人を見た。
長い黒髪と、長い睫毛のせいなのか、その唇が妙に色っぽく見えてしまう。
「で、どうしたの。」
「お、俺が、ボールぶつけちゃって。」
私と先生の視線を一身に受け、その男子生徒は小さく萎縮していた。大きな手で手遊びをしているかのように、動かしている。
私の重い体を運んだとは、信じられないほどに。
「またやったのー。暮名くん。」
呆れたように眉を寄せる先生の表情からして、今回が初めてではないらしい。
そして、名前を暮名というらしい。
何処かで聞いた事がある名前だ。
そう思っていると、
「はい。ほんと、申し訳ねえっす。」
私の方を向いて、何度目か分からない謝罪を述べた。その頭を見ると、罪悪感が湧いてきた。それはまあ、ちょっとは痛かったけど。
頭を下げてもらうほどのことではない。
ましてや、私なんかに。塵として扱われるのが当然なのに。
「全然、大丈夫、です。びっくりはしましたけど。」
そう言うと、暮名くんは、ニッと笑顔を見せた。
その笑顔が眩しくて、思わず目を逸らす。
今気がついたけれど、暮名くんの顔はとても整っていた。
サッカー部であるはずなのに、陶器のように透き通る白い肌と、大きな瞳に薄い唇、その美しすぎるパーツが、これまた素晴らしく配置されている。
そして、全身に可愛いルックスを柔らかく纏っている。
その時、合点がいった。
女子から、大人気のあの暮名くんじゃ…
そうだ。一年生に、美少年だと騒がれている男子生徒がいた。友達がいない私でも噂を知るほどの人気者。その人が話す度、笑う度、美しくて、多くの女子を虜するという、暮名くん。
私と一生関わることの無い人種。
廊下ですれ違ったこともあるが、取り巻きの女の子たちが多くて、始終圧倒されていた。
そんな暮名くんが、当たり前のように目の前にいる。
「よかったぁあ。まじで焦ったんだよ、俺。ガチでボール蹴ってたからさ。」
私が口を開けて、情けなくパクパクしているのも、気が付かず笑顔で私に話しかける。
その笑顔は、純粋無垢で、女子から人気がある理由も分かる気がする。
一緒にいるだけで、自分の邪気が払われていくような、そんな感じ。
そんな人に、お姫様抱っこをされていたのだと思うと、少し体が熱くなる。
いつの間にか、先生はいなくなっていて、私と暮名くんの二人が残されていた。
暮名くんは、私と違い、フレンドリーだ。
私の反応が薄くても、一人で話している。私が口篭っても、笑顔で待ってくれていた。
それに、少しだけ救われた。
この時だけ、自分も、普通の人間のフリが出来る。
女子の会話のように、相手を探る巧みな会話じゃなくて、ただ素直に聞いていれる話ばっかりだった。
それから、私たちはずっと保健室にいた。冷気が充満していた保健室が心地よかったのか、椅子から離れることはなかった。
あの短時間だけで、色んなことを知れたと思う。
でも、一番知れてよかったのは、暮名くんが花火職人の息子だということ。
夏が近づいているこの時期は忙しいらしい。この町で毎年行う、花火大会用の花火の作成に追われているのだそう。
だから、少しだけ花火が苦手だと、言っていた。
「え、お父さんが花火職人なのっ?」
そう目を輝かす私に、暮名くんの目は丸く見開いていた。
花火職人は、私にとって憧れの職業。
小さい頃に花火に心を奪われてから、ずっと大好きなもの。
「そうだよ。咲口さん、花火好きなの?」
大きな双眸をさらに見開いた暮名くんを見て、一気に恥ずかしさで体が火照る。
自分の好きを誰かに言ったのはこれが初めてかもしれない。
「う、うん。」
俯きながら頷く私を見て、暮名くんは微笑む。家業を好いてくれる人がいて、嬉しかったのだろうか。
火照った頬を冷やそうと、手のひらを押し付ける。
理由を聞かれるかと思ったが、以外にも暮名くんは理由を問うことはしなかった。そのことがさらに私の心を解きほぐす。
退出時刻になって、私たちはようやく別れた。
夕日を背中に手を振り合うその姿に、もう気まずさなんてなかった。
私が、暮名くんに感じた第一印象は、変な人。
そして、少しだけみんなと違う人。
私と暮名くんは、クラスは違うものの、同じ学年だ。
人数の少ない田舎の高校だからか、クラスは五つしかない。女子に囲まれて、歩く暮名くんを何度も見かけることになる。
今日もモテてるなぁ。
やっぱり、私とは違う世界の人なんだな…
そんな現実を目の当たりにして、胸が針を刺されたかのようにチクっと痛む。
けれど、暮名くんはそう思っていなかったらしい。
あの日から、私と目が合う度に
「咲口さーん!」
と眩しいくらいの笑顔で、手を振ってくれるようになった。そう挨拶するのが、当たり前のように、自然に。
初めは戸惑った。
知り合いにはなったけれど、住む世界が違うのだ。
小学校からそう。私が友達だと思っても、相手は違う。こんな誰からも嫌われている私を、可哀想だと思っていただけ、という事が幾度かあった。
ある種のトラウマ。
だから、高校では大人しくしていた。あまり喋らない人、という印象を残せるようにした。もちろん、友達なんていない。
どう接すればいいか分からなかった。
けれど、その笑顔に釣られるように、私も手を振り返すようになった。その初めは小さく、遠くから挨拶するだけだったのに、気がつけばその距離は縮んでいた。
話をすることも多くなった。
「咲口さんっ」
と呼ぶその声に、何度も救われた。楽しくて仕方がなかった。
いつも下ばかりを向いて、ボソボソ話す私とは対照的な、華やかに歌うような話し方だった。私まで、自然と笑みが溢れる。
家族から不当な扱いを受けて、涙を溜めた翌日でも、暮名くんと会えば笑える。
自己嫌悪さえも、暇をくれる。
けれど、暮名くんを囲う、女子からの冷たく鋭い矢のような視線を浴びることも、少なくなかった。
「あんたみたいな、気持ち悪い人間が関わっていいような人じゃない。一体どんな手を使ったのよ!」
そう、くるくるな髪をした可愛い女の子たちに、暗い倉庫に閉じ込められたこともある。
生徒の私でも知らなかった、廃墟のような佇まいの倉庫。
初夏だというのに、冬のような冷たさが頬を掠る。
…はあ。まただ。
正直、何処かに閉じ込められることは慣れていた。
家でも、中学校でも、数えきれないほどある。
暗くても、身震いがするほど怖くても、点検に来た先生が見つけてくれる。
だから、まあいいか、とズキズキ痛む背中を丸めて、座った。
目の前には、暗くて、埃っぽくて、湿気ていて、まるで私を具現化したような、そんな空間が広がっている。本来、私はこんな寂しい空間にいるべき人間なのだ。暮名くんと出会ってから、私も普通の人間なのではないか、と浮かれていた。
身の程も知らないで。
…そうよ。私の居場所はここなんだから。
確かに、私は暮名くんと関わっていいような人間じゃないじゃない。
分かっている。
自分の気持ち悪さも、全て痛いほど知っている。
けれど、その日はどうしてか、自分の感情を制御出来なかった。
苦手な蜘蛛は平気だったのに、涙が膝を濡らして止まらない。
今は、この暗い空間から逃げ出したい。そして、あの眩しい笑顔が見たい。
怖い…っ。助けて、暮名くん。
そう思っても、こんな使われていない倉庫に来てくれるわけがない。存在すら知らないだろう。
なのに、その名前が、笑顔が浮かんでしまう。
「助けてよっ」
そんな私の蚊の鳴くような声は、すぐにかき消されていく。
その瞬間だった。
ドンドンドンッ
倉庫の扉が、叩かれる鈍い音。
もしかして。
「暮名くん?」
不意にあの人の名前が、溢れ出た。
「咲口さんっ。いる?いるなら返事して!」
「…っ、うん!」
間違いなく、暮名くんの声だった。
その声は、切羽詰まっているように強張っていて、いつものような余裕がない。けれど、暮名くんが来てくれた、という事実が、恐怖を掻き消す。代わりに、どうしようもない安堵に包まれた。
はぁ。良かった…
冷たくなった手で、更に勢いを増す涙を懸命に拭く。
「大丈夫?今開けるから」
そんな声が降ると、倉庫の扉はギギギと耳障りな音を立て、開かれる。
差し込む夕日の逆光が眩しくて、思わず目を逸らすと、私の体は一瞬にして温かいものに包まれた。
「暮名、くん?」
横を見ると、暮名くんが私の肩に顔を埋めていた。
そして、私の背中に手を回して、強く、息が苦しくなるくらい抱きしめた。火照った顔と、ふわりと香る暮名くんの匂いが、鼓動を早くする。
「ちょっと、苦しいよ。」
いつまで経っても私は可愛くなく、そう暮名くんの背中を、ポカポカ叩くけれど、効果はない。
諦めて身を預けていると、暮名くんの荒い息遣いが聞こえてきた。
走ってくれたらしい。
「ごめんっ。本当に。俺のせいでっ」
暮名くんには似合わない小さく、震えた声だった。
本当に私を心配してくれたんだ。
なんて単純なんだ、と我ながら思うが、その一言で私の恐怖は薄れていく。ただ、私を心配して、探してくれた事が嬉しい。
この時だけは、自分の気持ちに素直になってみよう。
「…ふふふっ」
「なんで、笑ってんの」
私の肩に、顔を埋めたまま、暮名くんが呟く。
「んー。怖かったけど、嬉しい。ありがとう、来てくれて。」
ヒーローみたいだった、と小さく付け足す。
ん、と暮名くんは頷く。
そして私も、暮名くんの大きな肩に顔を埋めた。その時間が心地よかった。
暫くその場にいた後、私たちはようやく倉庫を出た。
暮名くんは私が思っていた以上に、探してくれていたみたいで、その制服は汚れていた。
「あの女たちには俺から言っといたから、もうこんな事はないと誓う。ごめんな。」
最後に、暮名くんはそう言っていたと思う。
そう語る瞳は、いつものような輝きはなく、闇に染まっていて背筋に怖気が走る。
次の日、登校するとあのくるくる髪の女の子たちが私に謝ってきた。
その瞳は、何かに怯えるように小刻みに震えている。
もしかしたら、暮名くんが、とまた私の心はあの温もりに包まれたのだ。
その頃からだろうか。
いつの間にか、暮名くんの姿を追ってしまうようになったのは。
花壇の水やりに校舎裏に来ても、視界に映るのは、太陽の下でボールを追いながら、駆け回る暮名くん。チームメイトと笑いながら、時に真剣にボールを見る暮名くんに、胸が高鳴った。
世界に色がついたみたいに、私の日常が輝き出した。
興味すら持てなかったメイク用品にも手が伸び始めた。
可愛い女の子を観察して、仕草を真似してみたり。
髪型も、メイクもバッチリ決まった日は、一番に暮名くんに見せたい。
そう思うようになった。
褒められた日は、ずっとふわふわ浮いてる気分になるし、ずっと手が痺れて、心臓が微かに痛んで止まない。
ずっと、私だけが抱いているものだと思ったら、違ったらしい。
ある日、私は暮名くんに呼び出された。一学期が終わる頃だった。
「俺、咲口さんのこと好きなんだ。付き合って欲しい。」
そう言われた時は、もう心臓がバクバクだった。
あの日のように、耳まで真っ赤にして、小刻みに震えている手を差し出している。
え…?
暮名くんが、私を?
こんなかっこいい人が、私を?
信じられなかった。頭の中が、ハテナマークで埋め尽くされていたように思う。それくらい、叶わない気持ちだと半ば諦めていたのだ。
ただでさえ、状況を呑み込む速度が他人より遅い私だ。暮名くんが、私を好きで、恋人になって欲しいと理解するのには、時間を要した。
「わ、私?」
「うん。咲口さん。」
「本当に、私?…私でいいの?」
頭がパニックになって、何度も確認をした。もしかしたら、これは自分に都合の良い夢を見ているだけなのかも、と。
けれど、頬をつねっても、ちゃんと痛かった。
そんな私を見て、
「夢じゃないよ。現実」
という暮名くんの優しい声が降りかかる。
体を起こした、その整った顔を見つめる。見つめたその瞬間、暮名くんの頬は少し赤くなった気がした。
本当に、私のことを好きなんだ。
こんな、私のことを本当に…。
疑問は確信に変わった。そして、その瞬間、気がついたら視界が歪んだ。握り込んだ拳に、何やら生暖かいものが落ちる。
「、、ううっ」
そう声を上げる私に、暮名くんは困ってしまうだろう。眉を寄せて、少しはにかみながら。
けれどそんな心配をしている余裕なんて、私にはなかった。
不意に、景色が一変した。
ふと、暗い押し入れで啜り泣く声が聞こえてきた。
空中から映像を見下ろすように、場面を眺めている状況だ。
私は、この声を知っている。
絶対に忘れる事ができない。あの日々。
「ごめんなさい…。怖いよぉ、怖い。ごめんなさい。出して…。」
間違いない。
これは、私の幼少期。
小学校の授業参観があった日だろうか。両親が観にくるということで、周りの生徒は勉強に勤しんでいた。
母はプライドが高い人だった。実際、難関大学出身である。
だから私のことを目の敵にしていたのは、主に母であった。
私は勉強が出来ない。授業だって、ついていくのが精一杯だった。
けれど、その日は授業参観。
私だって、弟のように可愛がって欲しかった。
愛おしさを袋一杯に詰め込んだ笑顔で、私を見て欲しい。怒らないで、ただ普通に話したい。褒められたい。
そんな欲望が、幼い私にもあったのだろう。
母と父が教室の後ろに立つ。
母は世間体を一番に気にする人だ。授業参観に来ないわけがなかった。
「この問題、分かるお友達いるかなー?」
気苦しそうなスーツを着た先生が、子供をあやすような猫に似た声を出す。その声を合図に私は手を挙げ続けた。
もちろん、私が手を挙げたことなんてない。
先生は私の手が挙がると、嬉しそうに私の名前を口にした。
けれど、私は正直分からなかった。答えられるはずもない。
口篭ってしまうのも当然なわけで。
「咲口玲ちゃん、分かったら手を挙げましょう。」
と先生から言われてしまった。
クラスメイトは、クスッとバカにしたように鼻で笑っていた。けれど、私にはその言葉の真意を理解していない。それからもずっと、父と母が帰るまで、先生とクラスメイトを困らせ続けた。授業参観なのに関わらず、先生の語尾が強まっていたくらいだ。
元々、私を気味悪がって閉じ込めたりすることはあった。
けれど、それは一時的なものだった。
母は、
「これは、おかしなあんたを躾けてやってんだから。」
と怒号を浴びせていた。しかし、授業参観後、帰宅すると、そんな生ぬるい躾が待っているはずもなく。
恥ずかしいと始終叫んでいた。
「あんたを産んだ私が間違いだった。親だって子供を選べたら良かったのに。お前は私の子じゃない。」
と吐き捨てたのは、流石に何かくるものがあった。
心臓を握り潰されたような、崖から突き落とされたみたいな絶望。
そして、私をまたあの暗い押し入れに閉じ込めた。
父に助けを求めても、私の顔を白い目で一瞥した後、何処かへ行ってしまった。家族に自分を愛してくれる人はいなかった。
怖かった。
暗くて、一人ぼっちなのが。
小さな手はずっと震えていて、泣くのをやめてしまえば、気を失いそうなほど。その時に私はようやく理解したのだ。
私は、普通ではない。
おかしくて、生まれてきたらいけなかった人。居るだけで不幸にしてしまう、疫病神みたいな人。
辛くなかった、と言えば嘘になる。
押し入れの中で号哭した。
あの日がきっと、人生で初めての、遅すぎる挫折。
それからは、誰かからの愛を求めなくなった。
初めから諦めることにした。
どうせ、私なんて愛される長所の一つもないのだ。恋人を見て羨ましいと思った事はあっても、自分がそうなりたいか、と聞かれれば、違うと断言できる。
けれど、どうしてだろう。
何故か、この言葉を聞いた瞬間涙が溢れてしまった。
求めてなんか、いないのに。私はずっと、暮名くんの笑顔を眺めているだけで良かったのに。
その言葉を聞いた瞬間、次を求めてしまった。
あのラブラブな恋人を、私と、暮名くんに置き換えてしまう。
どうして、暮名くんの「好き」がこんなにも辛くて、嬉しいのだろう。
無意識に、涙が溢れてしまう。乾いたアスファルトに楕円形のシミが落とされていく。
その涙に釣られるように、口が開く。
「私も、暮名くんが好き。でも、恋人になりたいか、と思ったら分からない。私なんかが幸せになって、いいのかなって思っちゃうの。」
こんなことを言ったって、困るだけだろう。
急に泣き出して、面倒臭いと思っているかも。
けれど、次の瞬間、頭ごと何かにスッポリ覆われた。一瞬にして、滲む視界から解放される。
「そんなこと、ない。咲口さんが俺の事が好きって言ってくれて、すげぇ嬉しかった。咲口さんは、それだけじゃダメ?」
あの倉庫の時より、ずっと、強い力だった。
その腕の中は、熱く、早く心臓が鼓動していた。
ドクドクドク
暮名くん、緊張してる…?
と思ってしまうほどの、早くて強い音。
その音を聞いているうちに、涙が枯れていく。
あの押し入れの中は、苦しくて、息が出来なくて、震えが止まらなかったのに。
この温かい腕の中にいると、何故か、震えが収まってしまう。
不思議だ。
これが恋の力なのかもしれない。
私は、首を横に振る。
「ううん。そんな事ない。私も嬉しいっ」
「…っ」
蚊の鳴くような声だったけど、暮名くんには届いていたらしい。
いつの間にか体は離れて、温かい体温が逃げていく。
向かい合わせになって、私はようやく暮名くんの顔を見る。その顔は、太陽に照らされているせいなのか、赤い。
「じゃあ、もう一回言います。俺と付き合ってください。」
薄い唇の中から歯が見えてしまうほどの笑顔。
ニッと笑った顔を見ると、私まで笑顔になってしまう。
ずるいよ。
そんな顔されたら、もうこの欲望には抗えない。
「お願いします。」
そう差し伸べられた手を握ると、そのまま手を引っ張られた。突然の事に抗えず、暮名くんの体の中にダイブする。
「はあああ。緊張したー」
そんな声が降ってくる。
「私も、びっくりした。嬉しかった。」
今この瞬間の幸せを含み、笑い返すと、暮名くんは私を抱きしめる力を増した。
少し、息苦しい。けれど、この息苦しさが丁度いい。
こんな日が来るなんて、思ってなかった。
その時、不意におばあちゃんの声が降ってきた。
「人生ってね、線香花火みたいなもの。」
その言葉の意味は、今でも分からない。
けれど、線香花火は、煌びやかに輝いて一瞬にして、人の心を奪う瞬間がある。
線香花火を囲う空間が、闇に包まれていたとしても、その光だけで一気に明るくなる。その光を見ているだけで、心が満たされ、今までの闇は嘘だったんじゃないか、とさえ思ってしまう。
もし、人生を線香花火とするのなら、この瞬間が間違いなく、あの光が灯った時だっただろう。役目を果たした太陽が眠りにつく中、暮名くんの腕の中で息をしていた、あの瞬間が。
あれから私たちは、放課後に出かけることもした。
私の憧れを、暮名くんは一緒にやってくれた。暮名くんと出会ってから、初めての事をどれくらい一緒にしただろう。
私のあの辛くて、寂しい幼少期は、この時間を暮名くんと過ごすためにあったのかもしれないと思うほどだった。
大好きだったのに、その好きが止まらなくなった。
胸が高鳴って、手が熱く痺れて、足の力が入らなくなって。
呼び方も、玲に変わった。
その名前が大嫌いだったのに、暮名くんに呼ばれると、耳がくすぐったかった。そんな暮名くんは、まさに、王子様という愛称が世界一似合っていたのでは、と今なら思う。
「玲、好きだよ。」
そんな言葉を、毎日のように投げかけてくれるのだ。そして強く抱きしめる。
「私も、暮名くんが大好き。」
そう返答すると、暮名くんは決まって頬を赤く染める。傷のない耳たぶでさえも、赤く染まる。
「ほんと、その顔、他の男の前ではしないで。俺が狂っちゃう。」
私より一枚上手なその言葉に、何度赤面させられたことか。憎しみの感情しか抱いたことのない、私がだ。
その度に、私を愛おしそうに見つめる。
その時間が何より、私の宝物だった。
けれど、一番心臓が壊れてしまうんじゃないかと思ったのは、花火大会だ。
暮名くんのお父さんが作った花火が上がる、光蘭祭り。
毎年欠かさず行っているお祭り。いつもは、決まって一人なのに、去年の光蘭祭りは、二人だった。
かき氷だって、頼んだ。
かき氷一つに、スプーンが二つ。
その前は、かき氷一つにスプーンが一つだけだった。そのカップが誰かの手のひらの上を行き交うこともなく、私の体温で溶かされていた。
けれど、去年頼んだかき氷は、私と暮名くんの手のひらを行き交っていた。お互いにカップを取り合いながら、その溶け具合がおかしくて笑ってしまった。
半分も残っているのに、すっかりジュースと化してしまったその液体に。
なのに、かき氷を食べる時間は、その前年の二倍遅かった。一人で黙々と口に突っ込むよりも、二人で分け合うと、時間が遅くなるんだと、その時初めて知った。
かき氷を食べ終わると、私たちは花火がよく見える穴場へと行った。
私はこのお祭りの常連だ。
穴場くらいいくらでも知っている。
けれど、そうやって張り切る私を、暮名くんはどんな表情で見ていたのだろうか。
きっと、笑っていたんでしょうね。
貴方の体に埋まっている心臓を抑えることもなく。
その時、暮名くんは私にお面を買っていた。
理由を問うと、
「玲の可愛い顔、他の誰にも見せたくない。」
だそうだ。
そんなことを簡単に言ってのけると、私が赤面してしまうことだって知っているのに。なんだか私は暮名くんにやられっぱなしが悔しくなった。
お面で顔を隠されると、何でも出来る気がした。
「そういう暮名くんの嫉妬しやすい所、好き。」
とまだ熱気が残るその背中に抱きついた。私の心臓の鼓動はこの上なく、早く動いていたと思う。
どんなに暮名くんに、私の存在を認められても、愛情表現をして嫌悪感を覚えさせてしまうかもしれない。そんな一抹の不安が、胸の奥でしこりとなって残っていた。だから自分からその大きな体を抱きしめに行ったことはないだろう。
その日が初めてだった。
反応を探るため表情を覗いてみると、その顔は私でも見たことがないくらい赤い。
私まで赤くなってしまいそう。
「〜っ、」
下唇を噛んでいる。
暮名くんの胸に頬を擦り合わせていると、その心音が聞こえてくる。あまりにも大きく、強い鼓動に、少し笑みが溢れる。
「へへっ。びっくりした?」
このままいたら私まで、おかしくなってしまいそう。
そう思って暮名くんの大きな背中から手を離す。
「全部玲が悪いんだからな。俺を煽ったりするから。我慢してたのに。」
頭上からそんな声が降ってきた。
…へ?何のこと?
と思案を巡らせていた時のこと。
暮名くんの細くて、長くて、白くて、なのに男らしい指がこちらに近づいてくる。そしてそのまま、私の顎に触れた。
それが気持ちよくて、頭が朦朧とする。
そして私の顔に密着するお面をゆっくりと剥がし取る。
気がついたら、暮名くんの一寸の乱れもない、崇高なお顔が目の前にあった。
「…んっ」
薄い唇が近づいたと思うと、その唇が私のそれと重なった。
柔らかくて、ほんのり甘くて、だけど脆く、一瞬で溶けてしまいそうな感覚。
「ん…暮名、く…」
唇と唇の間には、一ミリの隙間もなくて、私は次第に息が出来なくなる。思わず、暮名くんの胸を精一杯押すが、暮名くんは私の背中に回す手の力を強めた。
何度も何度も方向を変えて、味わうように唇を重ねる。
その溶けてしまいそうな気持ちよさに、私は足に力が入らなくなった。
どれほど唇を重ねていたのだろうか。屋台の方向から、花火のカウントダウンを告げる掛け声が聞こえてきた。
そしてようやく、暮名くんの唇が離れていく。
「ぷはっ」
思い切り息を吸う。ようやく離した唇は、驚くほどに熱くなっていた。
暮名くんも息を吸っている。
その目は、とろんと溶けているようで、ドキッとしてしまうような色っぽさが滲み出している。
私は暮名くんを睨む。
ファーストキスだった…
不意打ちで、心の準備も出来なかった。
でも、正直気持ちが良かった。気が遠くなってしまうほど。
「ごちそーさま」
暮名くんはおどけるように唇を舐めながら笑う。その仕草が更に私の鼓動を早くさせる。
その瞬間、夜空に巨大な花が咲いた。
ドーンドドン
闇を切り裂くような音と共に一面の花が彩っていく。二人の顔を眩い光が照らす。
「わあ…!」
思わず声が漏れてしまう。
なんて言ったって、私は花火が大好きなのだ。小さい頃から、花火が上がる夏だけが私の心の拠り所だった。
何回も形を変えて、轟く光に私は釘付けになる。
「すごいね、暮名くん。」
頬を高揚させながら、私は暮名くんを向いた。同じく花火を見上げ、輝く光に照らされた横顔は少し寂しそうでもあった。
「うん、本当にすごい。」
そう呟いた。
この花火は、花火職人である暮名くんのお父さんが作っているものだ。それを聞いた途端私はただ単に凄いと思った。
そして、そんな近くに花火があるなんて、羨望の眼差しで聞いたいたと思う。
けれど、暮名くんはそうではなかった。暮名くんは花火に執着するお父さんがいたから、花火は好きではなかったらしい。
お父さんの花火も見たことがない、と。
今日の花火大会だって、暮名くんの中には葛藤があっただろう。
今、その目でお父さんの花火を見て、どんな気持ちでいるのだろう。
きっと、私には分からないほどの苦しみを味わっていたんだ。
私はそっと、左側にある暮名くんの右手の指を絡め取った。自分から繋ぐなんて、少し体が痒くなってしまう。細い指は、真夏の夜に似合わないほど冷たかった。
「俺さ、」
暮名くんは握った手を更に強く握り返す。その冷たい手が私の手の体温に染まっていく。
「本当に花火とか嫌いだったんだよ。何であんなもんを命懸けで作ってるんだろうって。失敗とかしたら、がっかりされるしさ。家族を蔑ろにしてまで、花火職人を続ける意図がずっと、分からなかった。絶対に継ぎたくもない。」
「…うん。」
「でも、今はそんなこと思わない。玲の嬉しそうな横顔を見て、それまで自分の中にあった悪魔みたいな感情が消えたんだよ。」
再び暮名くんの顔をみると、本当に吹っ切れたかのような、眩しい笑顔がそこにはあった。
憑き物が取れたように寂しさの色は少しもない。
きっと、暮名くんの中で何かが変わったのだろう。
私が暮名くんに出会って、全てが変わったように。
自分の親を嫌うって、どんなに辛いことか私は理解しているつもりだ。
他の幸せそうな親子を見て羨ましいと感じてしまう気持ち。けれど、それでも上手くいかず自己制御出来ないほどに離れてしまう心。
そんな気持ちが少しでも晴らせるのなら、世界は変わってゆく。
線香花火が再び、闇を縫って光を咲かすように。
「私はね、」
この理由だけは、絶対に言いたくなかったこと。自分の醜さを愛しい人に曝け出すなんて、怖いに決まっている。
けれど、暮名くんは私に全てを伝えてくれたのだ。
怖気そうになる心を叱咤する。
「私は、小さい頃から家族に嫌われてる。自分を否定されて、私もそんな自分が大嫌いだった。人が何を言っても、私は理解が出来ない。人の気持ちを考えられない。
けれど、初めておばあちゃんに光蘭祭の花火を見せてもらった時、凄く感動したの。夜の暗い闇で輝く花火に虜になった。言葉を発していなくても、その素晴らしさは痛いほど伝わる。
作っている人がどんな思いで、作っているのか。万民を魅了してしまうその綺麗さに。花火を見ている時だけは、私も普通の人になれる。花火の美しさに、同じように感動しているその瞬間が好きになった。だから私は花火が好き。」
怖くて顔を見れない。
どんな反応をするのか。怖かった。でもきっと暮名くんは知っている。私が普通じゃないなんて。話が食い違うことなんて日常茶飯事なのだ。
「すげぇな、花火。」
しかし頭上から降ってきた声は、あまりにも明るかった。
「…え?」
予想とは百八十度違うその返答に、思わず情けない声が喉をつく。今の私の話に、凄いと言えることはない。私の本当の意味での、黒歴史なのだ。
「だってさ、玲の心の拠り所になってくれたんだろ?父さんが。花火って凄いんだな。」
どうして、どうしてこの人は私が望んでいた言葉を汲んでかけてくれるのだろう。
人と分かち合えるって、こんなにも素晴らしいことだったんだ。
私はただ、こんな風に話したかったのだ。
「…うんっ」
そして私たちは再び夜空に咲く、大きな大きな花火を見上げ続けた。
お互いの手を温め合いながら、ずっと空を見上げていた。そんな私と暮名くんの頬には、花火が咲き誇る度、一筋の光が流れていた。
まだ熱で火照った頬を、静かに冷やしていった。
その翌日。
暮名くんから一通のメールが届いた。今は夏休みである。部活動などで忙しい暮名くんとは毎日のように会えない。
その為、毎晩のようにメールを交わしていた。お互いの近況を報告するだけの簡潔なメール。しかし今日は違った。
「俺さ、花火職人になりたい。それで玲の笑顔を守りたい。俺が作った花火で、玲を感動させて、泣かせたい。」
そう送ってきたのだ。私は勿論驚いた。思ってもみない、発言だった。
本心を語ると、私が暮名くんの将来のレールを潰してしまったようで、申し訳ない気持ちは拭えない。素直に喜べなかったのが事実。
けれど、その言葉は本心だったようで、毎日近況を報告してくるようになった。お父さんとの関係も良好なようで、私まで嬉しかった。
学校も始まり、文化祭の準備に終われていた。
私のクラスはメイド喫茶、暮名くんのクラスはお化け屋敷をやるそうだった。暮名くんはお化け役をやるそうで、度々衣装を着て私を怖がらせた。
その時の私たちは間違いなく、線香花火で言うところのあの陽の瞬間だった。
暮名くんは度々し花火を試作し、成功しているようだった。
「玲には完成したの、見せたい。」
と言って、私には見せてくれなかったけれど。
そんな多忙な時期でも暮名くんと私はよく遊びに出かけた。
幼少期に作ったお互いの穴を埋めるように、私たちはずっと一緒に過ごしたのだ。
憧れだった放課後デートも数えられないほどした。
手だって何回繋いだか分からない。あの大きな腕に閉じ込められて、早くなった鼓動を聞くこともあった。
その度に暮名くんは歯の浮くようなセリフをいとも簡単に言ってのけ、私の頬を赤く染めた。文化祭の準備で男子生徒と話すだけで、その腕の力は強まる。
「俺以外の男と喋んないで。妬く。」
私の肩に顔を埋めながら、そう何回も言っていた。
暮名くんだって、学校中の人気者だ。その尊いルックスと弾けるような笑顔を見るため、上級生も一年生のフロアにやってくる。
そうやって女の子たちと話している度、私の心は騒つく。急に靄がかかり、自分の中の悪魔が蠢くような感情に駆られる。
だけど、暮名くんは私よりも上手。
本当にずるい人だった。そんな暮名くんを見るだけで、私の靄は瞬く間に晴れていくのだ。
だけど、いいの?
他の男の子と、私話してるよ?
取られるかもしれないよ?
いいの?
お願い。取られないでよ。
言葉が溢れて止まらない。
俺だけ見てて。そんな顔他の男に見せないでね。ずっと一緒にいて。そう言っていたのに。
どうして貴方は目を覚まさないの?
私、取られちゃうよ。
それが嫌なら、お願い。目を覚まして。そしてあの笑顔で私に笑いかけてよ。
抱きしめて。
キスだってしてよ。
光蘭祭りよりも深いキスを。あれ以来していないでしょう。
お願い。