はあ、はあ、はあ

ずっと病院までの道を走っていたから、息が上がってしまう。
胸が呼吸の度に膨れ上がり、心臓に押し出される血液はかつてないほど熱く巡っている。
三人ともそうだった。
病室の前にいるのに、その取手に手をかけることが出来ない。
けれど、どんなに息を整えようと努めても、解消されるどころか勢いを増してゆく。
手が震え出し、目頭が熱くなって何かが溢れ出す。

まだ何もしていないのに。
ただ走ってきただけなのに。

この重厚な扉の前に待つ景色を想像して、胸が苦しくて、気を抜いたら足の力が抜けてしまいそう。
そんな私とお母さんを横目に、お父さんが取手に手をかける。

「大丈夫だ。」

ゆっくりと視界が広がっていく。
いつもならそこに広がっているのは、無機質な白いベッドに天井。そして死んだように眠る暮名くんだ。
何かあったらどうしようかと、毎回背筋が伸びてしまう。
そんな瞬間。
思わず目を瞑ってしまう。

「…父さん?」

一番初めに耳をついたのは、あの愛しい声だった。
ちょっと低くて、だけど安心できるように静かで落ち着いていて、はっきりとした声。
大好きな声。
目を瞑っていたのに、その瞼の隙間を縫って溢れる何かを感じていた。

「翔っ…!」

次に言葉を発したのは暮名くんのお母さん。
先程までの落ち着きでは考えられない、悲痛な声だった。
きっとお母さんも辛かったのだろう。いや、辛い訳がない。
それなのに、私の居心地を良くするために、自分の辛い感情を押し殺してきたのだ。
私は徐に瞼を持ち上げた。
その視界に映った暮名くんに、足は動かず立ち尽くしている。
眠ってなんかいなくて、ベッドから体を起こしている。顔を覆っていた酸素マスクはない。

「翔っ。良かったっ、本当に良かった。」

お母さんの泣きじゃくる声。

「…母さん、ごめん。」

そんなお母さんの背中を摩り、あの優しい笑顔を浮かべた。その手にはスマートフォンが握られている。目覚めた時にすぐに確認できるように、常に充電は満タンにしていた。
だからきっと、事故に遭って約半年眠っていたことにも気がついたのだろう。
お父さんも暮名くんに近づき、肩をポンと叩いた。
背中だけで分かってしまう。お父さんも辛かったのだろう。時折上がる肩がそれを証明していた。
私は暮名くんを見つめた。
愛しい人が、目覚めた。それだけで私はもう、どうにかなりそうだった。その正体が、嬉しさなのか、安堵なのか、それまた違う感情なのか今は分からない。
けれど、暮名くんの笑顔を見ただけで、全てが救われた。
あの花火で世界に色がついて、暮名くんはその色が褪せないようにしてくれた。

「…うっ、うっ」

手のひらで口元を抑えながら涙を流す。その隙間から嗚咽が漏れ出す。
もう立ってることなんて出来なくて、病院の冷たい床にしゃがみ込んだ。この位置なら他のベッドの死角になっていて、暮名くんが私の存在に気づくことはない。

家族水入らずで過ごして欲しかった。
私が奪ってしまったその時間を。
だけど、分かっているけれど。
もう少し同じ空間にいたい。
ここを断つのは、私の涙が枯れてからにしよう。

 暮名くんのご両親も、息子が目覚めた喜びを存分に味わったみたいで、暫くすると談笑が混じった泣き声へと変化していった。
私も現実味を増してきて、涙の筋が狭まっていく。

…帰ろう。

私は震える足を鼓舞して徐に立ち上がって、廟室の扉を後にしようとした時だった。

「玲ちゃん。」

私を呼ぶ声。お母さんの声だった。

「…玲?」

そしてそれに続くように発せられた暮名くんの声。驚きが露わとなっている。
コツコツとヒールを床に突く音が次第に近づいてきて、私の視界の片隅に収まった。

「あの、大丈」

最後まで言わせてもらえなかった。
お母さんのふわりと香る柔軟剤の匂いで充満していく。腕には温かい体温が伝わる。
抱きしめられていた。

「玲ちゃんには辛い思いさせたでしょう。気を使うなって言ってもそんなことは出来なかったわよね。私たちはもう大丈夫だから、翔の側に行ってあげて。」

耳元で囁かれる、そんな優しい声。
再び涙の線が太くなっていく。

「…っでも。」
「大丈夫だから。」

そんな声が耳元で聞こえたかと思うと、腕の温もりは離れ、病室の中へ押し出された。
お父さんも私の肩に手を置き、去ってしまった。
私が返答する前に、病室の扉が閉められ、私は暮名くんと二人きりになってしまう。
今の私は暮名くんにどんな言葉をかければ良いか分からない。
謝罪なのか、安堵なのか。
だけど逃げられるほど私は強くない。
二度も好きな人から逃げられない。

「玲。」

聞いたこともない、私を呼ぶ優しくて愛しい声がこだまする。その声に背中が伸びた。ずっと呼んで欲しかった。
半年間、夢にまで見た。
けれど、私はどうしようもなく弱い。目を合わせることは出来なかった。

「…うん。」

絞り出すように、その二文字を綴った。

「こっち来て。」
「…無理っ」

自分の汚れた靴を見つめて返事をした。
暮名くんに近づいたらどうなるか分かっている。その存在を確かめるように泣きじゃくって、理性なんか保てない。
でもどうしてだろうか。一歩ずつ暮名くんのベッドに足が向かっている。
もう理性は働いていないようだった。私だってずっとこの瞬間を夢見ていた。そう簡単に片付く問題じゃないのだ。
気がつけばそう遠くない距離を駆けていた。
そしてもう目の前には暮名くんがいる。白い入院服を着た、目を開けている暮名くんが。

「無理って言ったのに来てるじゃん。」

暮名くんは私を揶揄うように笑った。
その全ての動作に涙腺が緩んでしまうことを、君は知らないでしょう。
更に溢れる私の涙を見て、

「目、真っ赤」

と少し笑ったあと、物凄い勢いで私は腕を引っ張られた。
不測の出来事に私は抗うことなんて出来ない。気がつけば目の前に暮名くんの胸があった。暮名くんの膝に座るような体制になる。そしてその後には、あの日と同じような暖かな体温に包まれる。
そして強く、強く腕が絞められた。
半年間分の空白を埋めるように、強く。

「ごめんな。本当に勝手に半年も眠ってて、ごめんな。」

頭上からそんな声が降ってきた。
暮名くんのものとは思い難い、消えてしまいそうな声。いつかの日のように私の肩に顔を埋めている。

「ほんとだよ。ばか。」

そう暮名くんの背中を叩く。相変わらず暖かくて、この体温に再び包まれることに泣かずにはいられなかった。
肩に冷たい感触が広がる。
暮名くんの涙だった。
それからは二人で涙が枯れるまで泣いた。私は声を張り上げ、暮名くんは静かに現実を噛み締めるように泣いた。
けれど、途方もなく幸せだった。

そして、花火の話になった。
あの美しさを、感動を伝えた。

「嬉しかった。本当にありがとう。」

私がそういうと恥ずかしそうに暮名くんは頭を掻く。あの構想図も見たというと、頬を赤く染め上げていた。
どれくらいの時間を話していたんだろう。
話題は尽きることなく、腫れた目でお互いを見つめあった。

「ねえ、」

そんな声に振り向くと、暮名くんの綺麗な顔が目の前にあった。

…あ

私は自然と目を閉じる。
その直後、途方もないくらいの温かさの傍ら、柔らかい唇が重なった。

「ん。」

暫く唇を重ねると、角度を変えて、味わうように短いキスを降らせた。その気持ちよさに私は頭が回らなくなる。
暮名くんは私の腰を手繰り寄せて、逃げられないようにする。

「…暮名くん、っ、やっ」
「嫌じゃないでしょ。」

そう言うと、唇を更に押し付けて、頭が溶けてしまいそうだ。

「…んっ…ふあ」

次第に激しくなり、どんどん深く唇を重ねる。何も考えられなくて、私も暮名くんの背中に手を回した。
暮名くんの舌がついに口の中へ入ってくる。
もつれる舌を絡ませ、吸われ。満足な言葉も出せないまま、快感に溺れてしまう。私の許容範囲を超え、自然と涙が溢れてしまった。

こんなテクニックをどこで習ったのだろうか。
半年分の隙間を埋めるように私たちはキスをし合った。お互いの頬に流れる涙のしょっぱさを感じるキスだった。
そしてようやく唇が離れた。
私は暮名くんの胸を叩く。

「息、出来なかったじゃん。」

睨んで暮名くんに訴えかける。
けれど暮名くんは頬を赤く染めた顔で、嬉しそうに笑うから私は何も言い返せなくなった。

その時、暮名くんが目覚めてくれた事実がようやく現実となって現れる。
でも、私はどうしようもなく幸せだった。
私たちはこれからきっと、これ以上の苦しみを味わうのだろう。
けれどその度お互いの光を灯しあって、人生という線香花火が輝くのを待っていくのだろう。

確かに、人生は線香花火なのかもしれない。
そして今は、今だけはこの眩い光に溺れていたい。