「危ない! すみれちゃん!!」



どうしてなんだろう?

転ぶ時って、目の前の世界がスローモーションになる。



私の体を庇うようにして。

幼馴染みの真夏(まなつ)くんが、私に手を伸ばす。

頭に手を添えて守ってくれた。



一瞬の出来事だけど、胸の奥がキュンって鳴ったみたいな感覚。



手に持っていたアイスが少し溶けていたのか、その水滴が部屋にキラキラ輝きながら散らばる。

床に置いていたショッキングピンク色のエコバッグが、私の足元で空中を舞っていた。

私のオレンジ色のネイルが。

ハレーションを起こしたみたいに何重にも重なって見えた気がする。



世界がスローモーションの時間は終わり、代わりにドンッと床に倒れた。

音の割りに衝撃が少ない。

真夏くんに守られたからだと思うと、申し訳なさが二割、ときめきが八割くらい。



「大丈夫!? どっか痛い!?」
と、真夏くんが私の顔を見る。



「大丈夫」



答えつつ、真夏くんに抱きしめられているみたいな、この状況に鼓動が速くなる。

「あっ……、ご、ごめん!」
と、真夏くんが離れようとするから、私は焦った。



焦って、床に倒れている密着状態のまま、咄嗟(とっさ)に真夏くんをぎゅっと抱きしめた。



「すみれちゃん?」



戸惑った声を聞いて、もっと焦った。



「真夏くん……」



私は真夏くんの体を抱きしめた腕の力を緩めて、真夏くんの顔を上目遣いで見上げる。

フローリングの床とぴったりくっついた背中に、じんわり汗の気配。



「……キスしよう?」



言った。

言っちゃった。



真夏くんの顔が赤くなったような気がして。

期待する気持ちと不安で仕方ない気持ちが、私の心の中でザラザラと混ざる。



……お願い。

どうか、拒まないで……!!






ーーー高野(たかの) すみれ。

十六歳の夏は。

束の間の、この三日間が全て……ーーー

















「久しぶり、真夏くん」



都内のとあるアパートの二階。

犬飼(いぬかい)』と書かれた表札が、部屋番号の『203号室』とインターホンのチャイムの間に、お行儀良く鎮座している。



「えっ?」
と、私より三歳年上の犬飼 真夏くんはメガネの奥の目を大きく見開いた。



セミがミンミン鳴いている。

夏空に浮かぶ太陽は眩しくて、容赦ない日照りを私達に浴びせる。



「今日、最高気温やばくない? 真夏くんにアイス買って来たんだけど、溶けてないかしんぱーい」

「……え、あ、ありがとう。いや、そうじゃなくて……」



真夏くんは戸惑った様子を見せて、でも、意を決した様子で私にこう聞いた。



「……あの、すみれちゃんだよね?」



私はニッコリ笑って頷く。



「そうだよ、高野(たかの) すみれ! 真夏くんの幼馴染みのすみれだよ! 2年ぶりの再会だよね」

「いや、……そうだけど、でもなんでここに?」



私は真夏くんの言いたいことはわかっていたけれど、わざと小首を傾げて、
「ん?」
と、聞き返した。

「すみれちゃん、役者さんになったんだよね?」

「そうだよ、観てくれてる? 私のこと」

「テレビで観ない日なんかないよ。でも、そんな人気者のすみれちゃんが、どうしてオレの部屋の前にいるの?」



私は笑顔を崩さず、
「とりあえず中に入れてよ」
と、玄関ドアを指差した。



「え?」

「ほら、アイスも溶けるし」



手に持っているショッキングピンク色のエコバッグを、ひょいっと少し持ち上げてみせる。



それでも真夏くんは、
「いや、でも部屋の中は……」
と、渋った。



「なんで?」

「ひとり暮らしの部屋だし……」

「部屋に恋人でも待っているの?」

「えっ!? まっ、待ってないよ!」



真夏くんが慌てた。



(……ナイス)



真夏くんのその反応で、恋人なんていないんだろうなって安心した。

ナイス。

非常にナイスな展開。



「ほら、外は暑いしさ。私、日焼けとかなるべく避けたいんだよね。話す間だけでもいいから、部屋に入れてよ」

真夏くんは少し考えて、
「……うん、わかった」
と、玄関ドアに鍵を差した。



ゆっくりした動作で玄関ドアを開けた真夏くんの隣で、私の心の中では、少しの緊張感とわくわくした気持ちがとろりと混ざり合った。



「お邪魔しま〜す……」



玄関スペースに目を走らせる。



(恋人の気配は……、ない、よね?)



再確認して安心したあと、部屋の中に入って行く。

ワンルームのアパートで、入ると左手にキッチン、その奥に多分洗面室、隣はトイレかな?

まっすぐ進むとベッドとローテーブル、テレビがある。

真正面の窓のそばには多肉植物の寄せ植えと、豆苗が置いてあった。



「アイス食べよ?」
と、私は真夏くんに声をかける。



真夏くんは冷蔵庫を開けてペットボトルのジュースと、ガラスコップを二つ持って、それらをローテーブルに置いた。



「真夏くん、バニラが好きだよねー」
と、私はエコバッグからアイスを取り出す。

買ってきたのは、真夏くんが好きでよく食べていたカップアイス。

真夏くんの前にさりげなく置くと、真夏くんは少し目を細めて、
「よく覚えているね」
と、笑った。



覚えているよ。

当たり前じゃん。



だって、好きな人の好きなものだもん。

それって、私にとっても好きなものだし、尊いんだから。



「……それで、どうしたの?」
と、立ち上がり、キッチンからスプーンを二つ持って来た真夏くんが私に尋ねる。



「何か、悩み事でもあるの? つらいことを誰かに言われたの?」

「……だ、大丈夫だよぉ、元気だよ」



そう言いながら、私はアイスの蓋を開けようとした。

指に力が入らなくて、なかなか開かない。

苦戦していると、
「貸して」
と、真夏くんの手が伸びてきた。



その時。

ほんの一瞬だけど。

私の指と、真夏くんの指が、触れた。



ドキンって心臓が跳ねる。

触れた場所が熱を持つ。

真夏くんは自分の前にアイスを置いて、軽々といった様子で蓋を開けると、それを私の前に丁寧な動作で置いた。



(あぁ、真夏くんのままだなぁ)



そう思ったら、嬉しかった。



真夏くんは、私が物心ついた時からすでにそばに居た近所のお兄ちゃんだった。

同じマンションで生まれ育った私達。

よく一緒に遊んでもらった。



真夏くんは物静かで。

小さな頃から、丁寧な人だった。



物に対しても、人に対しても丁寧に接する人で、そのせいで動作がゆっくりになるから、「トロい」とか「ノロマ」とか言われてしまうけれど。

私には輝いて見えた。



言葉を選んで真夏くんが話してくれるから、自分がお姫様になったみたいな気持ちになる。



大きくなると、その丁寧さが物事すべてを肯定しているようで。

安心した。

憧れた。

好きでしかなかった。



「……会いたかっただけだよ」
と、私は努めて何でもないふうに話す。



「真夏くん、どうしてるのかなって思っていたから。今、大学生なんだよね?」

「うん。まだ入学して四か月くらいの、一年生だけどね」

「何の勉強をしているの?」

「植物について。農学部に進んだんだ」

「えっ! すごいじゃん! ずっと草花が好きだったんもんね!?」



真夏くんは嬉しそうに、「すごくはないよ」と言いつつ照れている。



真夏くんは小さな頃から植物が大好きで、よく花や草の名前を教えてくれた。

何度も同じ植物の名前を聞いても、ちっとも嫌な顔をせずに教えてくれる。

でも私は、実はあまり植物に興味はなかった。

だから、名前を覚えられなかった。

それでも何度も名前を尋ねたのは、真夏くんと話したかったからだった。



「すみれちゃんは?」

「え?」

「毎日、どうしてたの?」

「私?」



私は一応、芸能クラスのある高校に進学したものの、ほとんど登校していない。

この春に入学したてでこんなことを言うのはおかしいけれど、卒業出来るのか、今のままの状態で仕事があると怪しい。