それ以来、週末の夜10時から演奏をするようになった。
 主なレパートリーはショパンをジャズ風にアレンジしたもので客の反応も良かったが、ある夜、意外なリクエストを受けた。
 スタッフが持ってきたメモには〈ビートルズの曲〉と書かれていた。

 もちろん彼らのことは知っていたし、カラオケで歌ったこともあったが、一度も弾いたことがなかった。
 その夜は丁重にお断りした。
 
 次の日、レコードショップへ行って、彼らのバラードナンバーを集めたベストアルバムを買った。
 そしてその中からジャズ風にアレンジできそうな曲を選んで、楽譜を購入し、自室のエレキピアノで練習を繰り返した。
 
 週末になった。
 先週リクエストをしてくれた客が今夜も来ていた。
 自分より一回り上くらいだろうか、ビートルズと共に青春を過ごしたであろう年代の男性だった。
 そして、その横には奥さんらしき女性が座っていた。

 店の奥からピアノに向かっている時、その男性と目が合った。
 軽く会釈をすると、微笑みを返された。
 素敵な笑顔だった。

 ピアノチェアに座って鍵盤に指を置き、その男性に視線を向けてからメロディーを弾き始めた。
 すると「アッ」という小さな声が聞こえた。
 視線を向けると、奥さんらしき女性が嬉しそうな顔でその男性に微笑んでいた。

『イエスタデイ』のメロディーが客の心の中に沁み込んでいるようだった。
 目を瞑って聴いている人がいた。
 ウットリとした表情で耳を傾ける人がいた。
 誰もが幸せそうな顔をしていた。

『ミッシェル』を弾き始めると、ワ~という歓声が場をわきまえた控え目な声で広がった。
 そして、『ヘイ・ジュード』から『レット・イット・ビー』へとつなげていくと、誰もが知っている曲ということもあってあちこちの席から発せられる囁くような歌声やハミングが上品なハーモニーとなって耳に届いた。
 それを聞きながら幸せな気分になって『レット・イット・ビー』の最後の音を弾き終わった。
 そしてその余韻が残る中、あの名曲のイントロを弾き始めた。
『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』