鍵盤の上に手を置くと、緊張のせいか、少し指が震えていた。
 それでもYAMAHAのロゴマークを目にした途端、気持ちが落ち着いた。
 実家にあるピアノと同じものだったからだ。
 指の震えが治まると、弾く曲はすぐに決まった。
 目を瞑っていても弾ける曲、ショパンの『夜想曲第二番変ホ長調』だった。
 甘美で夢創的なメロディーが美しいノクターンはMOGAMIZとして学園祭でデビューした時に弾いた曲で、指が忘れているはずはなかった。
 思った以上に滑らかに演奏することができた。
 
 演奏が終わった瞬間、同僚たちだけでなく店内のあちこちから大きな拍手が沸き起こった。
 それは照れるほどの反応で一瞬どうしていいかわからなくなったが、なんとかボウ・アンド・スクレープで応えることができた。

 席に戻ると、オーナーから突然申し出を受けた。
 週末にピアノを弾いてもらえないかというのだ。
 そして、良かったら毎週頼みたいという。

 これには困った。
 ピアノマンになるつもりは毛頭なかった。
 だから断ろうと思ったが、ピアノを弾きたがっている指が勝手に動いてオーナーの手を握ってしまった。
 するとオーナーは満面に笑みを浮かべ、背中に手を回してきた。

 まさか彼にハグされるとは思わなかったので腰が引けそうになったが、しかし太い腕を背中に感じているとこれは何か運命のような気がしてきて、手が自然とオーナーの背中に回った。
 それに、これから長く続く地道な研究生活の中に変化をもたらすことは悪いことではなかった。

 オーナーのハグから解放された最上は、縁を繋いでくれた自らの指に感謝の言葉をかけた。