直樹が英明の腕を振りほどいて、今度は逃げる立場に変わった。
できるだけ英明と距離を取り、動向を伺う。
「うぅ……」
小さなうめき声が聞こえてきて振り向くと、教室の隅っこで春美がうずくまって震えていた。
土気色をした顔で膝を立てて座り、両手で自分の足をギュッと抱きしめている。
そんなことをしていたらすぐに逃げることができないのに。
そう思ったが助言することはなかった。
春美だって、今は私のライバルなんだから。
春美のことを気にしている間に英明がしのぶを追い詰めていた。
後に壁、前には英明という状況に追い込まれたしのぶが真っ青になっている。
「や、やめて!!」
英明がビンの中身をしのぶへぶちまける。
ふたりは仲が良かったはずだけれど、この状況ではそれも関係なかった。
「いやああ!」
薬品が目に入ったのだろう、しのぶが悲鳴を上げてその場にしゃがみこんだ。
両手で必死に目の周りをこすっているけれど、そんなんで取れるとは思えなかった。
「痛い痛い痛い痛い!」
しのぶが叫びながらふらふらと立ち上がって歩き出した。
「水、水」
手探りで出口へと向かおうとするしのぶの前に立ちはだかったのは椎名だった。
椎名はおもしろいオモチャでも見つけたようにしのぶへ向けて手を叩いた。
「鬼さんこちら手のなる方へ」
クスクスと笑う椎名の声にしのぶが反応した。
目が見えなくても椎名の声は覚えているんだろう。
パチパチと手を鳴らされた方へと方向転換して歩きだす。
それは歩き始めたばかりの赤ん坊みたいで、なんだか可愛らしく感じられた。
「あははっ。みんなもやって。鬼さんこちら手のなる方へ」
椎名に言われて私も手を叩いてしのぶを呼んだ。
あちこちから名前を呼ばれ、手を叩かれてしのぶの体はふらふらと動き回る。
未だにうずくまったままの春美も、手だけは叩いていた。
一向に外へ出ることはできない。
永遠に、水で顔を洗うことはできない。
「痛い……痛いよ……」
と繰り返しながらもしのぶは教室内を歩き回ることをやめられなかった。
やがてしのぶの動きが鈍くなり、そしてついにその場に崩れ落ちてしまった。
カブトムシの幼虫みたいに丸くなって床に寝そべる。
「しのぶちゃん、どうしたの?」
椎名が声をかけても返事をしない。
直樹が近づいていってしのぶの手首で脈を確認している。
それから顔をあげると「死んでる」と、ひとこと言ったのだった。
しのぶはどれだけ声をかけても、体をゆすってみても起きなかった。
きっとショックで死んでしまったんだろう。
「仕方ないから、これを教室の奥に運んでよ」
椎名に言われて直樹と英明のふたりでしのぶの死体を教室後方へと移動した。
「ついに脱落者が出たな」
勝ち誇ったように言ったのは重人だった。
重人はメガネの奥の目を鋭く光らせている。
「うん。そうだね」
私も同じ気持ちだった。
椎名の友達になるためなら生死だってかける覚悟でいる。
こうして死者が出るのだって、想定内の出来事だった。
「みんな疲れたでしょう? 少し休憩しようか」
しのぶが死んだことをきっかけにして、椎名がまた麦茶を振る舞ってくれた。
カラカラに乾いていた喉に甘い麦茶が染み渡っていく。
飲んでいると頭がクラクラして、心地よくなっていくから不思議だった。
「おいしい」
麦茶の入った紙コップを両手で包み込むようにして千佳がうっとりと呟く。
「本当においしいよね。こんなの飲んだことない」
何杯でもおかわりしたかったけれど、椎名はきっと遠慮を知らない友達はいらないと言うだろう。
だからみんな一杯だけで我慢しているんだ。
「さぁ、次のテストの説明をするわよ」
全員が麦茶を飲み終わったことを確認して、椎名が言う。
「今度は一気に数を減らしたいから。ふたり一組になって、相手を殺せるかどうかやってもらうわ」
椎名がそう言って黒板へ向いた。
対戦相手は椎名が独断で決めるみたいだ。
相手を殺すと言われても動揺はしなかった。
すでにしのぶが死んでいる今、そうなっていくだろうということは理解できていたから。
「一組目は直樹くんと英明くんで戦ってもらう」
椎名が黒板にふたりの名前を書いたとき、重人が安堵のため息を漏らした。
体格的にも肉体的にも重人がふたりに敵うはずはないからだ。
「教室をでなければ相手になにをしてもOKよ。ちゃんと最後まで殺してね?」
椎名に言われて直樹と英明は互いに目を見合わせて牽制し合っている。
教室内にある道具なども自由に使っていいということなんだろう。
どれだけ大暴れされるかわからなくて、私は椎名の隣に身を寄せた。
この教室内で一番安全な場所だ。
「それじゃ、スタート!」
椎名の掛け声を合図にして戦いは開幕した。
英明が拳を振り上げて直樹に襲いかかる。
直樹はそれを素早く交わして机の下に潜り込んだ。
力では英明の方が強そうだけれど、直樹には俊敏さがある。
どれだけ力が強くても当たらなくては意味がない。
直樹は机をうまく利用して英明の攻撃を交わし続けている。
「くそ! ちょこまか逃げるんじゃねぇ!」
イラ立った英明が椅子を持ち上げて直樹の頭上へと振り下ろした。
直樹は机の間に身を屈めてやり過ごす。
英明が振り下ろした椅子は机の天板に当たってガツンッ! と大きな音を立てた。
その衝撃で両手がしびれたのか、突然英明が苦悶の表情を浮かべて椅子を落としてしまった。
直樹はすぐに立ち上がり、英明が落としたばかりの椅子を拾い上げると、英明の背中を殴りつけた。
「ぐっ」
英明が床に膝をつく。
そのチャンスを直樹は見逃さなかった。
今度は容赦なく英明の頭部へ椅子を振り下ろした。
1回、2回、3回目で英明が体を横へと移動させて、次の攻撃をかわす。
振り向いた英明の額には血が流れていたが、気にしている暇もなかった。
「くそが!」
悪態をついて目の前の直樹へ両手を伸ばす。
太い二の腕が直樹の首にかかった。
そのまま両手に力が込められて、英明の二の腕に血管が浮き出した。
「うぅ……っ」
直樹が低い呻き声を上げて英明の腕をバンバンと叩く。
それでも力が弱まることはないようで、直樹の顔は真っ赤にそまった。
「死ね、死ね、死ね」
英明がまるで呪詛のように呟く。
けれど直樹も諦めていなかった。
右足で英明の股間を思いっきり蹴り上げたのだ。
急所を突かれた英明は直樹から両手を離して床に転がる。
直樹激しく咳き込みながらもどうにか立ち上がり、苦しんでいる英明の体に馬乗りになった。
そしてその頬を右から左から殴りつけた。
英明の鼻や口の端から血が流れ、それでも直樹は攻撃をやめなかった。
椎名に言われたのが、相手を殺すことだったからだ。
直樹は英明が死ぬまでやめない。
止まらない。
それなのに、なんだか私の胸の中がモヤモヤとした気持ちになった。
この気持はなんだろうと思って自分の胸に手を当ててみたけれど、思い出せなかった。
昔は知っていたなにかだったような気がするけれど、今は思い出せないからきっと関係ないんだろう。
「面白いわね」