従者が出てくる前に逃げなければ。ヒールの高い靴ではうまく走れない。
 人気の少ない場所のトイレを利用したおかげで、こんなはしたない恰好をしていても来賓客とは出くわさないのがありがたかった。
 息をつく暇もなく右へ左へ、時に階段を駆け下りて、そしてひとまずは誰も追ってこないだろうと思ったところでやっと足を止めた。
 はぁはぁと息を整えながら、人気のない庭に出る。漏れ出る屋敷からの光。それが差し入れない場所で再び靴に足を通した。

 このまま正面玄関へ抜けれないかな? そしたら馬車に乗って帰れそうなんだけど。
 公爵邸に来たのは初めて。さらに従者の目を避けているせいで、どっちに行けば正面玄関に出るのかも聞けない。
 これはなかなか骨が折れるな……なんて思いつつ、逆にいえば人気がある方向に向かえば自ずと玄関の方向なのでは? という答えにたどり着き、私はやみくもに歩き出した。
 少し歩いた先で、人の声が聞こえた。それを頼りに歩いて行くと――。

「……や、やめて下さい」

 悲痛な声が、私の耳を貫くように届いた。決して大きな声ではないというのに、はっきりと聞こえた。周りに喧騒が無い上に、声の主の嫌悪感が、その声によく表れていたからだ。
 私は足音を忍ばせ、声を潜めながら、声の方へと近づく。
 こんなところで一体誰が……? そう思った矢先、再び声が聞こえた。

「やめて欲しい? 本当に? その割に顔が赤いぞ」

 あーーーーーーーー……。
 一瞬で察してしまった。今この茂みの向こう側に誰がいるのかを。
 忍んでいた私の足はピタリと止まる。このまま回れ右をしようと思っていた矢先だった。

「あっ、赤くなど……! コーデリア公爵様、公爵様には婚約者の方がいると言っていたではありませんかっ!」

 女性が放ったひと言は、私の疑惑が確信に変わった瞬間だった。