体感したこともない速さで移動する鉄箱に乗り込み、私は震える両掌擦り合わせる。万華鏡のように変化していく外の景色を堪能する余裕はなく、私は(ふところ)にしまった剃刀(かみそり)に心を囚われていた。
 
「どうしよう俊さん……私、人殺しちゃった」
「大丈夫だ。あの男は死んだりしないし、鈴は必ず戻って来る」
「なんで俊さんにそんなことがわかるの? 吾作さんの痣を利用して、百墨花魁がもし過去に戻ってしまったら」
「それなんだけどな夕霧……あ、松本さんそこ左に曲がってください。ガソリンスタンドに戻りたいんで」
 
 助手席に座る俊さんが運転手に指示を出せば、松本と呼ばれた男はハンドルを操作する。何度か見かけたことはあったが、車という乗り物に乗るのは初めてだった。
 地面に擦られて草臥(くたび)れた着物を持ち上げ、頭を下げて後部座席に乗り込んだ時には(いささ)か窮屈に思ったが、乗ってさえしまえば案外快適だ。
 
 ——いや。今は悠長にそんなことを考えている場合ではない。焦ったり、混乱に陥ると口数が増える俊さんもどうかとは思うが、こうしてどうでも良いことを冷静に考えてしまう自分にも嫌気がさした。
 
 現実に向き合わなければ。
 私は鼻から吸った息を長く細く口から吐くと、俊さんに告げる。
 
「元の時代に戻ろうよ俊さん」
 
 けれど俊さんから返ってきた答えは、私が求めていたものからは程遠くて。
 
「俺はこのまま、この未来に残る」
「どうして?」
「まあ聞けよ。そもそも夕霧、お前が未来に飛んだ目的はなんだった? 俺との子供が欲しかった、そうだろう? 百墨から受け取った刻飛鈴(こくひりん)を使って未来でお前が見つけた薬って低用量経口避妊薬だよな? 月のものを自由に操れたら、特定の男の子供を身籠りやすくなる」
「それが、なんなの」
「この1年、俺はお前を探し続けた。歴史を調べまくって、どこかに夕霧の存在がないかずっと探していたんだ。そうして調べるうちに3日前、とうとうサウナで松本さんに出会った。話を聞くうちに、松本さんの知り合いである猪崎耕太郎(いざきこうたろう)さんって人がお(ひゃく)……つまり百墨の企てに利用されたんじゃないかってことが分かったんだ」
 
 ——いや、サウナってなに。それのどこが元の時代に帰らないって話に繋がるのだ、とは思いつつ。
 私は眉を顰めながら、なんとか俊さんの話に食らいつく。
 
「3日前、俺がサウナに足を運んだのは吾作さんの行方を追ってのことだった。その日、猪崎さんと松本さんは同じサウナにいてさ。松本さんは先に帰ることにしたけど、やっぱり気になってサウナに戻ったんだ。そしたら更衣室に服は残ったままなのに、猪崎さんの姿はどこにもなくて。その日から、猪崎さんは仕事場に顔を出さなくなったって」
 
 俊さんが喋り続ける中、ハンドルを握り前を見たままの松本さんがついに口を開いた。
 
「突然すみません。俊介さんから夕霧さんの話は聞いていました。俺は猪崎さんを元に戻したい、その気持ちだけで……こんなこと誰にも話せない、ってか信じてもらえないし。猪崎さんを救うには、俊介さんやあなたに協力するしかないって思ったんです」
「あの。ひとつ聞いても?」
「はい」
「この未来では、人間が過去に飛んだり未来に飛ぶことはよくあるのでありんすか? その……そういう時代、なんてことは」
「ないない、ないです。猫型ロボットじゃあるまいし」
「猫?」
「いや、とにかく。猪崎さんの件と、俊介さんや夕霧さんが過去に戻るかどうかはそもそも別の話なんですよ。あ、俊介さん着きましたよ」
 
 車は速度を緩めて動きを止めた。
 車中から見えるのは、幾つかの柱に支えられ宙に浮かぶ、巨大な屋根。その屋根には街灯のように光る球が何個かぶら下がっていて、数多(あまた)の黒くて太い(くだ)が物騒なものに繋がっている。
 
「あの管に繋がっているものは……鉄砲か」
「ああ、うん。って、違う違う違う! 俺も最初は度肝抜かれたけど、ここはガソリンスタンドって言って、あの鉄砲みたいなのはガソリンって油を車に給油する機械でさ」
 
 そう得意げに顎を上げて話し続ける俊さんに、私はふと悲しみを覚えた。
 変わってしまった。俊さんは1年という時を経て、私の知らない黄色頭へと進化してしまった。
 
「でさ、本題なんだけど」
 
 俊さんは助手席から私に振り返ると、見慣れた笑顔を見せる。
 
「夕霧は今日この日、晴れて俺と一緒の時代にトリップを果たしたわけだ。さっきバイト先のテレビでインタビュー受けてる夕霧を見つけて、俺めっちゃ焦って飛び出したんだぜ? こりゃ今日のバイト代は諦めるしかないって。まあでも、目黒川がバ先から近くて助かったよ」
 
 会話の振り幅が大きすぎて、私は言葉に詰まる。
 
「俺は1年前にこの未来へとやって来た。何度も行き来したことのある夕霧と違って、はじめは当然ちんぷんかんぷん。でも、それでも生きていかなきゃ仕方がないだろう? 俺はこの時代に馴染む努力をしたんだ。この金髪だってそういうことさ」
 
 なんとなく。私は俊さんが言いたいことを察し始めた。
 
「この時代には過去を綴った書物がたくさんあって、今やこのスマホで誰でもいつでも、なんだって知ることができる。そりゃもう一発検索よ。そんで調べたら、あの日の火事には吉原大火って名前が付いてて、歴史にもちゃんと刻まれている。過去に戻ってもどうせ吉原は燃えちまう、歴史は変えられないんだ」
「俊さんはもう、元の時代に未練はないってこと?」
「まあ、そうなるな。でも考えてみろよ。さっきも言ったけど、夕霧が吉原にこだわったのは子供の為だろう? その為にわざわざ鈴を使って、俺の子供を間違いなく身籠れる(御守り)を手に入れた。望み通り、夕霧は俺との子供を産んだじゃねえか。俺がこの時代にいる以上、吉原に戻る理由なんてもう」
 
 俊さんの薄情者、私がそう口に出そうとしたその時。ガソリンスタンドなる建物からひとりの青年が出てきた。
 
 いらっしゃいませ——そう発された声色に呼吸が止まり、心臓が跳ねる。薄汚れた衣服に身を包み、先ほどの鉄砲を車にあてがう青年は、どこからどう見ても俊さんにそっくりで。
 
「俊さん……あの青年は、誰じゃ」
「あれは岸岡時人(きしおかときひと)。もうすぐ22歳になる、俺のバイト仲間さ」
 
 溢れた涙がすぐさま頬を伝う。
 その意味を、俊さんもすぐに察した。
 
「あの日、鈴の力を使って刻を飛んだのは4人。俺、百墨、夕霧、そして最後は」
「な、何故じゃ。半月前に産んだ息子(・・)が、何故ああも大きくなる! 私は……私はまだ乳もまともにあげてない。おしめだって、寝顔だって、泣き声だって! 私はまだ母にもなりきれていない! それに!!」
 
 鼻を垂らし、歯を食いしばったまま。私は後部座席から俊さんの肩を鷲掴みにした。
 
「名前……私たちの息子は、時人ではなく時介(ときすけ)。俊さんの名を一文字貰った、時介じゃ」
「時人に聞いたよ。あいつは生まれて直ぐ、小さな個人産院の玄関前に置かれていたって。誰が捨てたかわからない。でもお(くる)みは妙に年季が入ってて、添えられた和紙に『時人』そう筆で名が書かれていたんだって」
 
 
 
 
 
 
 
 明治44年4月9日。燃え盛る遊郭城の一室で、私は生まれたばかりの息子を胸に抱いていた。
 軽く揺れれば、にこりと笑う。私の顔に小さな手を伸ばし、まだ開いたばかりの瞼を幾度も瞬きさせて、見えているのか見えていないのか、その愛おしさに抱き締める腕の力を強めた。
 熱が頬を刺す。火事を知らせる半鐘(はんしょう)が吉原中を駆け巡り、もう幾許(いくばく)もない残りの刻をどう過ごそうかと、皆が必死で考えているであろうその時。私はいつもの悪い癖で妙に冷静でいた。
 
『……そうじゃ。名付けが、まだでありんした』
 
 私はそそくさと(すずり)を持ち出して墨を擦ると、机に和紙を広げて筆を持った。
 
『尚介、信介。うむ、どうもしっくりきんせん』
 
 火は襖の障子に移り、ちりちりと音を立て燃え広がる。
 
『ああ、よしよし。今、決めんすからね……ん?』
 
 寝転がり、手足をジタバタさせて元気に身体を動かす我が子。そのぷくりと丸いお腹に手を添えながら、私はふと懐の違和感に気づいて目を見開いた。
 何か硬くて小さいものの感触。見れば、我が子の襦袢(じゅばん)の中にあったのは白い鈴だった。
 
『何故。この刻飛鈴(こくひりん)は、百墨花魁が預かると持っていったはず。それをどうしてこの子が』
 
 私は疑問を持つと同時に、はたと思い立つ。自分の着物の襟ぐりを引っ張り、そこに見えた鈴蘭の痣を一瞥して顔を上げた。
 
『刻を、飛ばせる……?』
 
 私は急いで我が子を(いだ)き、慌てて口ずさむ。
 
 
 こーとろ ことろ 
 どの子を ことろ
 あの子を ことろ
 とるなら とってみろ
 こーとろ ことろ——
 
 
『……そうじゃ。名は、ときすけ。時介じゃ』
 
 しゃらり、鈴が()く。和紙に名を書くその途中で、私の視界は白く消失した。
 最後に聴こえたのは鈴の()と、私の名を呼ぶ、俊さんの声。
 
 
 
 
 
 
 
 
「私が名をしたため終わる前、介の字を書き終わる前に、時介は刻を超えてしまったというわけか。だから介の字が人に。22歳……(よわい)25の私や俊さんと、大差ない」
 
 気力が抜けた私は俊さんの肩から手を離して、座席の背もたれに身体を沈めた。
 
「なあ夕霧。この時代には俺と夕霧と時人、家族が全員揃ってる。もう無理に身体を傷つけることも、嫌な思いだってしなくて済むんだ」
 
 ずっと求めていた声。愛しい俊さんの明るい声が、霞んでいく。
 無情。諸行無常とは、このことか。
 
「この時代の規律に少しずつ慣れていけば充分に生きていける、そう思わないか? そうだ夕霧。この時代のおでんは一味違ってよ、あとでコンビニで買ってきてやるよ。えーっと、お前が好きそうなのは大根にはんぺん、あとはたまごと」
(たわ)け」
 
 ならば。私できることは、ひとつ。
 
「俊さんは先ほど、鈴は戻って来るとわっちに言いんしたな。どんな理屈じゃ」
「え? ああ。なんでだかはよくわかんねえけど、神楽鈴(かぐらすず)はなぜか俺に帰属するんだ。無くしても必ず俺の元に返って来る。ほら」
 
 俊さんが懐に突っ込んだ手を出して広げると、驚く事にそこには確かに神楽鈴があった。
 
「ならば猪崎という男が無事だという根拠は」
「それは百墨(ももずみ)の妖術だよ。妲己(だっき)のお(ひゃく)は、人を惑わし操る妖怪だ。そのためには操る相手の命を一時預かる。その間、操られている人間が死ぬことはないんだ。つまり妖術がかかっている状態の猪崎さんが致命傷を受けても死ぬことはない」
「なるほど」
「なあ、急にどうした夕霧。客相手じゃあるまいし、なんだよ“わっち”って。それに、言葉遣いもこれからは直していかねえと」
 
 私はじっと俊さんを見つめると、鈴の転がる俊さんの手のひらを握りしめた
 
「俊さん。ひとつ、頼まれておくんなんし」
「だから、なんだよ急に」
「時人さんに会いたいのでありんす。今夜、わっちの元に連れてきて」
「そりゃ勿論。なんなら今すぐにでも」
「それはだめよ、準備がしたいの。浅草寺という寺の近くに、樹々に囲まれた小屋がありんす。丸太で出来た小屋でありんす。わっちはそこで待つ故、俊さんは松本さんの運転するこの車で、時人さんを小屋まで連れてきておくんなんし。但し、時人さんに小屋の場所は教えないこと。松本さんは、俊さんと時人さんが小屋に入ったら外から鍵を掛けるのです」
 
 早口で捲し立てる私に、俊さんも松本さんも困り顔だ。そんなふたりに、私は微笑む。
 
「ただ会うのではつまらない、時人さんをあっと驚かせたいのでありんす。ね? 俊さん」
「ああもう、わかったよ。時人には適当に理由つけて呼び出すから」
「ありがとう、ござりんす」
 
 ……俊さんに手練手管(てれんてくだ)を使う日が来るとは、思わなんだ。