昔々、刻飛村(こくひむら)という人口百にも満たない小さな村があった。その村は他の干渉を良しとせず、衣食住の全てを村人自身で賄い、自給自足で生活を営む。それ(ゆえ)に刻飛村の文化は独自性を極め、文明は進歩のない閉鎖的な村だと誰もが思い込んでいた。
 
「しかし、だな。これが不思議なことに、刻飛村の人々は随分と灰殻(ハイカラ)な生活をしていたようなんだ」
「灰殻って?」
「まだ着物が主流の時代に村人はスーツを着こなし、食事時にはパスタをフォークで巻いて、畑仕事には電動自動車で出かける」
 
 俺が言えば、後輩の松本は肩にかけていたタオルで顔面の汗を拭った。
 
「はい? 猪崎(いざき)さんの話じゃ刻飛村って、江戸時代に栄えた村ってことでしたよね。その時代に電気ってあったんですか?」
「ないよ」
「じゃあ今の話は嘘じゃないですか。電動自転車だなんて」
「それがだな。村にある小高い丘にはソーラーパネルが敷き詰められていて、蓄電池やそこから電気を供給する回路を確保していたり、家屋なんて聞いて驚け、壁はまさかのコンクリート! 冷蔵庫や電子レンジもあったとかなかったとか」
「はあ。っていうか俺もう限界っすわ、ちょっと先に出てますね」
「え、もう?」
「猪崎さん熱さに強すぎです。やばい、水水……」
 
 松本は立ち上がると早足で出口に向かう。木造りのドアが軋む音を立てて静かに開けば、外気の風が熱された皮膚を心地よく撫でた。
 扉はすぐに閉まり、再び室内は熱で満たされる。俺は頬を膨らませるようにして長く息を吐くと、立ち上がってそばにある石に柄杓で湯をかけた。
 
 ジュッ、と小さく悲鳴を上げた石は蒸気を上げ、さらに室内の温度と湿度を上昇させる。俺は狭い室内に自分一人なことを確認すると、今度は小さく短いため息をついた。
 
「今日も来ない、か」
 
 
 
 
 
 
 
 
 サウナから出て数分。俺と松本は施設内にある食事処でテーブルを挟み、ビールジョッキを鳴り合わせる。天井を煽り見ながら小気味よく喉を上下させた後、松本がジョッキをテーブルに置けば中身は半分以上消えていた。
 
「くぅ。汗かいた後のアルコールは沁みますね。それで、どこまで話しましたっけ」
「だから、刻飛村には文明を発展させることの出来るカラクリがあるって話だよ」
 
 そうだった、と松本。
 
「村の奥には洞窟があってだな。その洞窟を進むと小さな(ほこら)がみえてくる。祠には、白い鈴と黒い鈴がひとつずつ(まつ)られていて、その鈴が鳴り響く時、人は時を飛ぶんだよ。ぽーんって。そうやって村人は、未来の文明を取り入れていたらしい」
「な、なるほど。猪狩さんはその話をこの銭湯のサウナでたまたま耳にして、それから気になって気になって仕方がなくなっちゃったんでしたね」
「なんだよその言い方。なんか馬鹿にしてる?」
「してませんよ。でもその話をしていた人、ここ数日はサウナに顔出さなくなっちゃったって。猪崎さんは話の続きが聞きたくてうずうずしてるっていうのに」
 
 やっぱり馬鹿にしているなと思いながら、俺は松本の言葉を否定できなかった。
 
 数週間前、サウナで出会った男は自らを吾作(ごさく)と名乗った。綺麗な白髪頭で、歳はおそらく70代。サウナの雛壇、その上段の角に座っていた吾作さんは、雛壇の下段に座る俺にこう話しかけてきた。
 
『もし時を飛べるとしたら、あなたは過去に行きたいですか? それとも未来ですか?』
 
 初めはよくある世間話だと思った。サウナという熱さに耐えるだけの空間で、手持ち無沙汰になった男がたまたま居合わせた男に話し掛けてきただけだと。
 だが、俺は吾作さんの話に夢中になった。洞窟や(ほこら)、刻を飛ぶ妙な鈴。吾作さんの口調は質の良い講談を聴いているような、それでいて未熟な嗜好を(くすぐ)られる心地よさで、気づけば俺は珍しく逆上(のぼ)せ上がってしまう。
 
『話の続きは、また明日』
 
 俺の体調を気遣った吾作さんがサウナを出ると、後に続いた俺は水風呂に身体を沈めて、吾作さんの話を脳内で繰り返した。
 次の日も、その次の日も。サウナには吾作さんがいた。吾作さんはいつも上段の角にちょこんと座って、いつしか俺の姿を見つけると笑顔で手招きするまでに。
 
「……あの猪崎さん。言いづらいんですけどその吾作ってお爺さん、実は悪い人ってことはないですか」
「え?」
 
 俺は枝豆を口に放り込みながら、間抜けな顔で松本を見る。
 
「ほら、よくある話じゃないですか。最初は興味のある話で関心を引いておいて、実は変な団体への勧誘が目的だったとか」
「はあ」
「はあ、って。猪崎さんぼーっとしすぎなんですよ。だから会社でも舐められてるんじゃないですか。俺、今日は猪崎さんが心配だったからこうしてここまできたんです。そのお爺さんの目的を確かめてやろうって」
 
 猪崎耕太郎(いざきこうたろう)、37歳。俺はこの歳で会社での出世コースに乗るわけでもなく、上司に期待されるでも後輩に慕われるわけでもなく、正直居ても居なくても大差ない窓際社員だ。
 松本はそんな俺が社内で気兼ねなく誘える唯一の後輩で、数日前に軽い気持ちで吾作さんの話をしたところ、松本は吾作さんに会ってみたいと言い出した。
 
「確認ですけど、その吾作ってお爺さんと猪崎さんに面識ってないんですよね」
「うん」
「何か興味を持たれる心当たりとかないんですか? 家族構成を話したりとか……あ、貯金額言っちゃったとか」
「ないない。だいたい家族構成なんて、両親は早くに死んじゃってて兄弟もいないし、話せることないよ」
 
 俺が言えば、松本はつまらなそうにジョッキに残ったビールを口に流し込んだ。会話が止まってしまうことを危惧した俺は、慌てて話題を口にする。
 
「松本はさ、もし過去か未来かに飛べるんだったらどっちに行く?」
「あー、未来ですかね。そこで過去に当選した宝くじの番号控えるだけ控えて、戻ってきてからそれ買います」
「……夢のない奴」
「いや、夢あるでしょ。世の中お金があれば大抵の問題は解決します」
「お金で買えないものだってあるよ」
「例えば?」
「恋とか」
 
 松本は驚いた顔で俺をみた。
 
「恋って。そんなの過去に行こうが未来に行こうが、やること今と変わんないじゃないですか」
「そうだけど、でも自分が今生きている時代じゃない全く別のどこかで、自分の理想の女性が生きているかもしれないだろ?」
「なんですかそれ。猪崎さんってもしかして、今まで彼女できたことないんじゃ」
「ないけど」
 
 松本はさらに驚いて目を見開く。
 
「あ、まじですか。なるほど」
「なんだよ」
「いや別に。あ、俺そろそろ帰りますけど、猪崎さんは? もうちょっと待つんですか、吾作って人のこと」
「うん。もう少しだけ待ってみるよ」
「そうですか。まあ、あんまり深入りしないでくださいよ。なんかあったらまた相談乗りますから」
 
 ご馳走様です、と松本はちゃっかり伝票を置いて席を立った。こんなことなら1人で来ればよかった……と、そんなことを考えてしまうから、俺は結局慕われないのだろうな。大体、俺は松本に相談などしていない。
 
「……行くか」
 
 
 
 
 
 
 
 再び訪れたサウナは貸切状態だった。俺は慣れた調子で石に水を掛け、石が蒸気をあげると雛壇の下段に座る。
 最後にサウナで吾作さんに会ったのは、5日ほど前になるだろうか。その日、吾作さんが俺にしてくれたのは見目麗しい女性の話だった。
 
 女性の名はお(ひゃく)刻飛村(こくひむら)には、遭難を理由に助けを求めてやってきた。お百は今にも消え入りそうに白く透き通る肌を持っていて、薄紫の絹布を笠に取り付けた市女笠(いちめがさ)を被り、その布から覗く瞳を見た瞬間、吾作さんは一瞬で恋に落ちた。
 
 吾作さんは村の禁忌を破ると同時に、お百を村へと迎え入れた。お百はただ何もせずに吾作さんの家に居座ったそうだ。一緒に食事を摂り、風呂に入って、一緒の布団で眠る。そうして(しばら)くはひっそりと幸福な時を過ごしたふたりだが、ある日お百は吾作さんに言った。
 
『村に伝わる鈴が見たい』
 
 それだけはダメだ、と吾作さんは突っぱねた。だがお百は目に涙を浮かべ、吾作さんの頬を両手で包み、たった一言『お願い』と。
 気づけば吾作さんは(ほこら)からふたつの鈴を盗み出し、お百の手を取って村を飛び出していたという。
 
 
 
「失礼しんす」
 
 
 
 物思いに耽っていた俺は女性の声にハッとする。見れば、バスタオルで胸下を覆った女性がひとりサウナ内に入ってきていた。俺は慌てて肩に掛けていたタオルで局部を隠す。
 
「えっ、あ、あの。ここ男性用サウナですよ」
「知ってやす。とある男を探してまして、こここにその匂い(・・)が」
 
 女性は雛壇の上段の角をじっと見つめる。
 
「もしかして。その男って吾作さんですか」
 
 吾作さんの名前を出した俺に、女性は表情を明るくした。
 
「おや。吾作とお知り合いとは、わっちは運が良い。あんた名前は」
「猪崎、耕太郎といいます」
「耕太郎。わっちと、恋に落ちんせんか? そうすればあんたを、第二の吾作にしてあげんす」
「恋って……ちょっと何言ってるのか、よく分からないんですけど」
「分からなくてようござりんす。あんたはただ、わっちの目を見て惚れていなんし」
 
 一瞬だった。女性は俺の目の前まで来ると、両手を頬に添わせて顔を近づける。そうして見つめた瞳は、白眼まで全て真っ黒に塗りつぶされていた。
 
「耕太郎。お願いがありんす」
「はい」
「探し人の名は夕霧(ゆうぎり)。この時代のどこかに逃げた悪者(わるもん)を、わっちの前に連れてきておくんなんし」
「はい」
「それからもうひとつ、鈴じゃ」
 
 女性が顔の前で揺らした紐の先には、しゃらりと繊細な音を奏でる白い鈴。
 
「これは未来へと刻を飛び越える刻飛鈴(こくひりん)。この鈴と瓜二つ、(こく)(さかのぼ)る漆黒の神楽鈴(かぐらすず)を探せ。その鈴と夕霧の痣があれば、わっちらは目当ての時代に帰ることができるでありんす」
 
 痣。そう聞いて、俺は真っ先に吾作さんの胸に刻まれた刺青を思い出した。あのタコみたいなのはおそらく、刺青ではなく痣だったに違いない。そして——
 
「分かります。知ってます、その白い鈴に似た、黒い鈴」
「なんと」
「よく行くガソリンスタンドの金髪の従業員が腰に下げてるんです。吾作さんの話を聞いてからというもの、妙にその鈴が目についちゃって。今、その白い鈴を見て確信しました。あの黒い鈴は神楽鈴(かぐらすず)です」
 
 ニヤリと女性の口の端が裂けた。
 それでも女性は美しい。
 俺は、そう信じて疑わない。
 
「……耕太郎、合格じゃ。其方(そなた)はわっちの(つがい)に相応しい。よい夢を見せてやろうぞ」
 
 触れるか触れないかの距離にあった女性の唇が、やっと重なる。甘い感覚に囚われ、溺れ——
 何度も角度を変えてのキスにのめり込んだ俺はこの2日後、令和から明治へと、時を超えた。