早朝。(くるわ)の大門前にて。
 俺は箒を片手にうーんと身体を伸ばして大きな欠伸をすると、ため息を吐いた。
 
「あーあ、暇だぜ全く。落ち葉なんてよ、掃いたところでまた風に乗ってやってくるんだ、意味ねえぜ」
俊介(しゅんすけ)、独り言がでけえ。暇どころか仕事は山ほどあるんだ、口じゃなくて手動かしな」
「へいへい」
 
 と、返事はしてみたものの。俺の手に握られた箒は同じ地面を右往左往するのみで、やる気なぞ全く出やしない。そんな俺の様子に、今度は同僚の平六(へいろく)がため息を吐いた。
 
「ちっとは気張れや。近頃の薄雲(うすぐも)さんみてみぃ」
「鈴ノ屋の薄雲さんがどうしたって?」
「ほら、顔があんなことになっちまって一事は自死まで心配されたが、今じゃ鈴ノ屋の遣手(やりて)として一念発起。禿(かむろ)や新造の教育は勿論、廓遊びの全盛期でもないこの時代に、鈴ノ屋は毎晩大繁盛だろ? ありゃ全部、薄雲さんのお陰だって」
「へえ。でもまた、なんで急にそんなやる気に?」
「それがよ」
 
 平六は手招きすると、口に手を添えて俺の耳元に寄る。
 
「なんでも鈴ノ屋に雇われた新参の若い(もん)がえらい色男らしくてな。薄雲さんだけじゃなく、他の遊女もみーんな虜にしちまって。仕事が捗りゃ目に止めてもらえるって、それはそれは熱心に働いてるそうだ」
 
 その言葉に、俺は唇をへの字に曲げて平六へと顔を向けた。
 
「なんだそりゃ。色男ったって、とどのつまりは俺たちと同じ妓夫(ぎゅう)だろう? そんなもんがなんでこの(くるわ)で地位を得られるんだ、いけすかねえ」
「気になるなら覗きに行ってみたらどうだ」
「はあ? 角町(すみちょう)揚屋町(あげやまち)にある遊女屋ならともかく、鈴ノ屋があるのはあの遊郭城(・・・)だぞ? 銭もねえのに近寄れねえわ」
 
 確かに、と平六。俺は大門を背にして立つと、その一本道の先に君臨する城を(あご)で示した。
 遊郭城(ゆうかくじょう)。その城は数ヶ月前、かの豊臣秀吉が築いた一夜城のように突如としてこの(くるわ)に出現した。だがその壁は張りぼてなどではなく、三階層からなる正真正銘の立派な城である。
 
「鈴ノ屋、それから刻飛楼(こくひろう)。元はこの仲の町にあった小さな遊女屋が、城にお呼ばれした途端あっという間に敷居を上げちまって。まあ、俺はここの長屋でわいのわいのやってる頃のが好きだったけどな、正直」
「俺だってそうさ。遊郭城に出入りするのはもっぱら政府のお偉いさんだもんな。軍服着こなした男が(がん)首揃えて来たと思ったら、出ていく頃にはみーんな頬染めて腑抜けになってら。笑えるよ」
「言うじゃねえか、平六」
「そりゃ言うさ。俊介ほどじゃあねえけどな」
 
 俺と平六のため息が重なった。
 聳え建つ城を見つめる俺の横顔に何かを察したのか、平六は眉を下げて口を開く。
 
「俊介、夕霧(ゆうぎり)と会えなくなってどんくらいだ」
「……どうだかな。桜が散っちまったことを話した記憶はねえ、かな」
 
 照りつける陽ざしで背に汗が伝う。(せみ)の羽音が、鬱陶しいほど耳についた。
 
「悪い。嫌なこと思い出させちまって」
「あー、やめやめやめ。湿っぽいのは好かねえわ。平六、頭切り替えようぜ」
「ああ」
「それに、聞けば今日は久々に花魁が歩くって話じゃねえか。どの店が出すって?」
「確か」
 
 
 
「あちきが、歩きんす」
 
 
 
 振り返る。そこに立つ遊女の顔を見て、平六は慌てて頭を下げた。
 
百墨(ももずみ)花魁(おいらん)!」
 
 黒煙が着物に揺らぐ。濃淡鮮やかな紫が尾鰭(おびれ)を振る金魚を描き、小ぶりな薔薇が散りばめられた刺繍は、絵であるにも関わらずむせかえりそうな匂いを放っているのではと錯覚した。透き通るほどに青みがかった肌に藤色の薄い紅が儚げで、俺は思わず息を呑む。
 
「お初にお目に掛かりんす、刻飛楼(こくひろう)の百墨と申しんす。お見知り置きを」
 
 百墨は切れ長な瞼をふっと伏せるように軽く頭を下げた後、顔を上げて凛と佇む。
 その瞳は間違い無く俺を見つめていた。
 
「そ、そりゃあ勿論! 異人のようなその白銀(しろがね)の髪! いやあ、噂には聞いていたがまさかそんなにお綺麗とは」
「……異人、ねえ。あんたさんが俊介かい?」
「あ、いやいや! 俊介は俺でなく、こっちの若い(もん)で」
「だろうねえ」
 
 平六が俺を差し出せば、百墨はなぜか微笑む。小首を傾げてぬるりと近づくと、俺の頬に触れた。

「確かに、男前じゃ」
「そりゃどうも」
「どうじゃ。あちき専属の用心棒になるというのは」
「ご冗談を」
「何故?」
「ひとりでも強そうだ」
「お、おい! 俊介」
 
 狼狽える平六を無視して、俺は百墨の手をそっと頬から剥がすと、続ける。
 
「高貴な空気は息が詰まる。俺は花魁(あんた)のような高嶺の花より、野を這う女郎(菜っ葉)が好きなんですよ」
「詭弁じゃ。あちきが必要だと言ってやす。それが全てじゃ。ただの妓夫に、あちきの頼みを断るだけの力があるとでも?」
「ご勘弁を。ああそうだ、ここにいる平六の方が俺なんかよりずっと役に立つんじゃ」
「鈴ノ屋の夕霧(ゆうぎり)に子が出来んした」
 
 ぐらり、視界が揺れた。
 後頭部をぶん殴られたかと、百墨の言葉は俺にとってそれほどの衝撃だった。
 俺はなんとか足に力を入れ踏ん張ると、できる限りの気丈を身に纏わせる。
 
「……へえ。そうですかい。そりゃまた、けったいなこって。遊女が(みごも)ったところで結局、無理矢理にでも無かったことにされちまうんだから」
「それがまた困ったもんでね。夕霧は何がなんでも産み落とすのだと頑なだとか。なんでも腹の子は念願、愛しい真夫(まぶ)との間に出来た子なんだと」
 
 真夫。それは遊女の想い人。つまり恋人だ。
 
「今、鈴ノ屋の楼主は必死になってその真夫を探しているとかなんとか。客ならいいが、万が一にも(くるわ)の人間だと分かったらどうなるだろう。ねえ? 俊介」
「さあな。腹の子が誰の子かなんて、探したところで分かりゃしねえさ」
「それが分かる、と言ったら?」
 
 平六の視線が驚きと動揺を含んだ圧で俺を刺してくる。その様子に、百墨は占めたとばかりに畳み掛けてきた。
 
「俊介。今晩の道中、あちきに肩を貸しておくんなんし。さすれば夕霧の件、一肌脱いで差し上げんす」
 
 
 
 
 
 
 
 ——夜の闇に、行燈(あんどん)が道を成す。
 遊郭城(ゆうかくじょう)を背に列で歩く御一行の名は刻飛楼(こくひろう)。吉原一の揚屋である刻飛楼は、その地位を鈴ノ屋と二分(にぶん)し、遊郭城にて栄華を極めていた。
 
 妓夫(ぎゅう)が笠持ち旗を持ち、楼主(ろうしゅ)は“刻”の字の印字された提灯(ちょうちん)を片手に鼻高々。
 禿(かむろ)新造(しんぞう)端女郎(はしじょろう)に至っては数知れず、いつもは粗末な着物でも、この日ばかりは目一杯に着飾る。逆に鹿子位(かこい)天神(てんじん)の格上遊女は、花魁に華を添えるべく遠慮を魅せる徹底ぶり。
 
「よっ! 百墨花魁(ももずみおいらん)!」
 
 その陣頭を担うは待望。高さのある三枚歯下駄を擦りながら、百墨が膝から下で優雅に弧を描いて歩いていく。外側に大きく蹴り出す八文字。その力強い道中を、百墨は俺の肩に手を添えながら悠々と全うしていた。
 
 行燈(あんどん)で照らされた桜が散る中、辺り一帯の客から注がれる憧憬(しょうけい)の眼差しを横目に、俺はまっすぐ前を見据えながら——心、ここに在らずだった。

 
『俊さん、こっちこっち! 桜だよ!』

 
 これほど華美な花魁道中の真っ只中だというのに、俺の脳裏に浮かぶは山吹色の着物。ひょこひょこ跳ねながら俺の手を嬉しそうに引く夕霧の姿が、どうにもこびりついて離れやしない。
 
 
『ねえ俊さん知ってる? 桜ってさ、ひとつじゃないんだって』
『はっ、そりゃそうだ。この(くるわ)にも何本もあるじゃねえか』
『そうじゃなくて。いろんな種類があるんだよ。同じように見えて、少しずつ違う桜があるってこと』
『へえ、随分物知りなことで。客から聞いたのか』
 
 客。あの時、俺が発した言葉に夕霧(ゆうぎり)は悲しげに眉を下げて笑っていた。
 
『俊さんはさ、子供って好き?』
『なんだよ急に』
『もしさ、もしも私に俊さんの子供ができたら、俊さんの名前を貰ってもいいかな』
 
 確かこの時、俺はすぐに返事をすることはせずに顔を伏せた。夕霧のことは好いていた。抱けば気持ちも高まった。だが遊女と妓夫(ぎゅう)の色恋は当然、御法度だった。
 俺はすぐに笑みを貼り付けて顔を上げると、夕霧の頭に手を添えた。
 
『構わねえが、誰の子かなんて分かりゃしねえよ。お前は人気の遊女だからな』
『それが分かるんだよ。月のものを自由に止めることのできる薬があってさ』
『おいおい。それも客から聞いたのか? なんか危ねえもん飲まされてんじゃねえだろうな』
『大丈夫だよ。御守りがあるから』
『……はあ?』
 
 見れば、夕霧の手には小さな白い鈴が転がっていた。
 
『ね、今日はまだ張見世(はりみせ)まで時間があるの。いいでしょう? 俊さん』
 
 甘い声が、脳を突く。

 この日を境に夕霧は度々俺を誘った。そうして程なく、夕霧は遊郭城に引き抜かれて俺の前から姿を消したのだ。
 
 
 
「……すけ、俊介!」
 
 呼ばれてようやく、俺は我に帰る。
 気づけば道中はとっくに足を止めていて、茶屋の前に立つ吊り目の男が、顔に喜色を浮かべながら百墨へと手を伸ばしていた。
 
「今晩、百墨花魁をお相手なさる猪崎耕太郎(いざきこうたろう)さまだ。さっさと頭を下げて役目を代わんな」
 
 男は呉服屋の旦那らしく、紳士的な洋装で佇む。その胸元に揺れるものを見て、俺は思わず声を出してしまった。
 
「その鈴……」
 
 しゃらり。記憶の夕霧(ゆうぎり)が、笑う。