「時人、俺の話聞いてた?」
「聞いてない」
「またかよっ」
 
 俊介(しゅんすけ)は身体をのけぞらせて大袈裟にリアクションを取った。ガソリンスタンドの事務所内、窓際に設置された長テーブルに頬杖をつきながら客足を気にする俺に構うことなく、俊介は喋り続ける。
 
「だから、店長が前に言ってた都市伝説の話。覚えてるか? 地下に街が造られてるとかなんとか」
「ああ」
「あれ、あながち間違いじゃなかったみたいでさ。ほら」
 
 俊介が指を差したテレビには、腕に布をかけられて警察に連行されていく数人の男女が映っていた。
 
「違法カジノとか風俗店とか、軒並み摘発されたって。中には小さい女の子誘拐して、男の相手をさせるように教育していたっていうんだから許せねえよな」
「へえ。お前にそんな正義感あったんだ。意外」
「そりゃ俺にも良心のひとつやふたつ。それにさ、このことを明るみに出したのは警察じゃなくて、1人の勇敢な男だって言うんだから驚きじゃん? 寝ている間に自分の大切な人が攫われたんだって敵地に乗り込んでさ。夢あるじゃん、ヒーローじゃん?」
「まあ……あ、ほら客だぞ。接客してこい俊介」
「あのねえ。俺これでも一応きみより年上よ?」
「俺は正社員。そちらは?」
「アルバイト」
「ん?」
「……いってきまーす」
 
 俊介は不貞腐れたそぶりで事務所を出たが、すぐに気持ちを切り替えた様子で来客に声をかけていた。その姿を一瞥したあと、俺は再び事務所内のテレビへと視線を移す。
 ニュースはまだ例の都市伝説(・・・・)を特集していて、摘発された人間の中には名だたる政治家や著名人が名を連ねていた。しかし皆で口裏を合わせているのか詳細は知らぬ存ぜぬ、証言は『妙な女に会ってからの記憶がない』その一点張りらしい。
 
 接客を終えた俊介がレシート片手に事務所に戻れば、俺は何故か睨みつけられた。
 
「まただよ」
「なにが」
「ナイト様にご指名入りまーす」
 
 わざとらしく高い声を出しながら俊介が差し出したレシートの裏には、電話番号が書かれている。
 
「今しがたご来店された美人の客からでーす。くそっ、なんでいつも時人ばっかり!」
「いや、別に俺いらないから。欲しいならやるよ」
「そういうわけにはいかないだろう。時人宛に貰った番号に電話するなんて、そんな情けない話があるかよ」
「そうだな。そんなことしたら新婚早々離婚だな」

 俺はテーブルに置かれた俊介のスマートフォンを手に取る。待受には、おでん片手に肩を寄せ合う俊介と女性の写真があった。
 慌てて俺の手からスマートフォンを取り返した俊介が、今度は軽蔑の眼差しを向けてくる。
 
「時人お前、汚ねえぞ!」
「なにがだよ。大体お前の奥さんが着てる俺のジャケット、これ高かったんだけど。なんでまじで持って帰ってんの?」
「へへっ、それはまあ……ご祝儀?」
 
 今度は俺が俊介を睨みつける。
 
「お、怒んなって。本当はさ、田舎から東京に出てきた嫁をお前にサプライズで紹介しようって腹だったんだけどよ、お前は小屋で気絶しちまうし、あのあと病院に運んだり色々と大変だったんだぜ、俺」
「サプライズが斜め上過ぎんだろ。っていうか、俊介の奥さんってもしかして」
 
 俺は三度(みたび)テレビに目をやる。嬉しそうに都市伝説を話す店長を思い浮かべながら、妙に繋がる頭の中の考えを否定したかった。だけど。
 
 “時代設定はあの吉原遊廓があった頃って話でさ”

 あの日俊介の奥さんが身につけていた着物、立ち振る舞い。あれはまさに、よくドラマなんかで観る遊女のように思えて。
 
「もしかして、なんだよ」
「……いや、なんでもないわ。それより店長遅くないか。軽油の配達に出てからもう1時間近く経つけど」
「たしかに。あ、噂をすれば」
 
 交差点を急カーブしてガソリンスタンド内に入ってきた白い軽トラックは、ブレーキの際に勢い余ってお尻を上げる。運転席から降りてきた店長は馬鹿力でドアを閉めると、事務所内に居る俺と俊介を見つけるや否や、表情を明るくして足早に向かってきた。
 
「あ、これあれだな。店長ラジオで聴いたな、例のニュース」
「ああ。ほれみたことかって顔してるな。俺の言った通りだろ、って」
「めんどいな」
「だな」
 
 その時、俺のスマートフォンがポケットで震える。
 
「……俺タオルの洗濯回してくるわ」
「ちょ、時人ずるいぞ!」
「あとは頼んだバイト君」
「感じ悪っ」
「ジャケットと貰えるはずだった1万2千円はこの際忘れてやってもいいけど」
「あ、てんちょー? 例のニュース! 流石じゃないっすかぁ」
 
 俊介が店長の元へと自ら捕獲されに行く様子を横目に、俺は事務所の勝手口から外へ出た。そこに設置された古い二層式洗濯機に汚れた窓拭きタオルを突っ込むと、蓋を閉めてスイッチを回す。
 給水される洗濯機の轟音を聴きながら、俺はスマートフォンのメッセージアプリを開いた。
 
 “審査に通りました。本日お引き渡しになります。現金を用意してお越しください”
 
 小さくガッツポーズ。これでようやく、彼女(・・)に報告できる。
 
 
 
 
 
 
 
 アルバイトを終えた俺はサウナに寄る。
 本当はすぐにでも家に帰りたかったのだが、彼女になにやら考えがあるらしく帰宅時間を遅らせてほしいと連絡があった。
 黄色いマットの敷かれた雛壇、その上段の端に座りながら、俺は吹き出る汗をタオルで拭う。
 
「やっぱりもう帰りましょうよ、猪崎さん」
「いや、もう少し。もう少しで来る気がするんだ」
 
 サウナには、俺の他に2人の客がいた。
 男たちは下段の真ん中に腰を下ろし、時折サウナ内の石に柄杓で水を掛けている。
 
「大体、今更その吾作ってお爺さんに会っても何にもならなくないですか? ニュースにもあれだけ取り上げられて、猪崎さんは今や英雄として一躍時の人。別にそのお爺さんの証言がなくたって」
「それじゃダメなんだよ。動画の再生回数(・・・・・・・)を回すには、みんなが注目するような新たなトピックを持ってこないと」
 
 先輩であろう男の発言に、若い男はため息をついた。
 
「猪崎さん、なんだか人が変わりましたよね。あんなに真面目に働いていたのに、今回の事件が摘発されたあと会社も辞めて、しかもまさかの動画配信者になっちゃうし」
「松本こそ。別に俺に付き合って会社辞めることなかったんだぞ? 俺は動画の編集とかに、ほんのちょっと力を貸してほしいって思っただけで」
「勘弁してくださいよ。猪崎さんとつるんでる後輩、会社で俺だけだったじゃないですか。ニュースのあと俺まで妙に注目されちゃって。居づらいったらないっすよ。責任とってもらわないと」
 
 俺は上段からふたりの後頭部を見下ろす。何か揉めているように思ったが、どうやら仲は良いらしい。
 
「あー、だめだわ。限界っすわ俺。先に出てますね」
「松本は相変わらず忍耐力がないな」
「猪崎さんが熱さに強すぎるんですよ。あ、それから調べましたけど、事件の被害者女性の中にモモの付く名前の人は居ませんでした。これもあとで飯食いながら打ち合わせ——」
 
 若い男の言葉が止まる。気になって顔を上げれば、立ち上がっていた男と目が合った。
 
「……あの。以前どこかでお会いしたことあります? 僕たち」
 
 使い古されたナンパの誘い文句に、俺は眉を上げて首を振る。
 
「ないと思いますけど」
「そう、ですよね。なんかすみません」
 
 若い男は頭を下げると、そのままサウナを出て行った。外気の冷たい風が一瞬室内を通るが、ドアが閉まれば再び灼熱が訪れる。
 残された男はゆっくり振り返ると、俺をじっと見つめた。それもなぜか、左胸の辺りを。
 
「あの、まだなにか」
 
 俺が声を掛ければ、男は慌てて顔の前で手を振った。同時に、俺の腕につけていたスマートウォッチが震える。どうやら彼女の準備が整ったらしい。
 
「じゃあ俺行くんで」
「は、はい。それじゃあ」
 
 なんだか気まずい空気の中、俺は雛壇を降りて出口に向かう。ドアを開けると、目の前には作務衣(さむい)を着た従業員が顔を伏せて立っていて、すれ違いざまに立ち止まった。
 
「……熱波はいかがですか」
「あー、俺は大丈夫です。中にまだ客いますよ」
「そうですか。ご利用ありがとうございました、お気をつけて」
 
 中に入った従業員がドアを閉める。俺はそのまま軽くシャワーを浴びて着替えを済ませると、更衣室に設置された自動販売機でペットボトルの水を買った。
 キャップを開け、喉に水を流し込みながらふと、その自販機に吊るされた『熱波スケジュール』なるものが目に入る。
 
「へえ……サービス?」
 
 この日の熱波の予定は全て終了した、スケジュールにはそう書かれてあった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 (ほて)った身体を冷ますように、春の夜風に吹かれつつ。俺は一件用事を済ませるとようやく自宅に帰った。靴を脱ぎ、荷物をいったん玄関へと降ろす。
 
「ただいまー」
 
 電気はついている。だがリビングにつながる扉を開けても返事はなかった。キッチンを見れば、ぐつぐつと気泡を弾け飛ばす鍋におたまが沈む。俺は慌ててコンロの火を止めた。
 
 その瞬間、寝室の扉が勢いよく開く。
 
「おい、お前コンロに火付けっぱなし……」
「おかえり時人! じゃーん! ねえ、みてみて!」
 
 桜が咲いたように笑う彼女。その顔を見て俺は思わず息を呑んだ。
 
「病院の先生がね、もう包帯とってもいいって! どう? 私の額の傷、少しは綺麗になったかな?」
 
 浮かれて身体を揺らす彼女とは対照的に、俺はコンロの前から一歩も動けない。
 
「ねえ、時人聞いてる?」
「……ああ、聞いてるよ」
「リアクション薄っ!」
「ごめん。でも、驚いて」
 
 俺は目元を手のひらで隠した。情けない。彼女が笑っているというのに、俺は涙が止められない。
 
「もう、泣かないでよ時人。こっちまで貰っちゃうじゃん」
「ごめん」
「ねえ、私綺麗になった?」
 
 俺は顔を伏せたまま首を振る。
 
「はあ? そこは綺麗になったって素直に」
「綺麗だよ。お前は傷を治すその前からずっと綺麗だ」
「嘘つき」
「俺は嘘が嫌いなんだよ」
 
 彼女がキッチンへと近づいてくる。その足音に、俺は思わず後退りして。
 
「ま、待てよ。ちょっとタイム」
「いやだ待たない。ねえ、婚姻届出してきてくれた?」
「いや、まだ出してない」
 
 俺の答えに彼女は目を見開く。
 
「え、なんでよ! 結婚記念日は4月8日、時人の誕生日にしようって」
「違う、記念日はお前の誕生日だって言ったろ。だから明日出す」
「うわあ、めっちゃ強情なんですけど! パパって昔からそうなんですよー、デートは二の次でバイトばっかり。どうしましょうかねー?」
 
 言葉とは裏腹に、彼女は満足げな表情で膨らんだお腹を撫でた。
 
「まあ、いっか。ご飯食べよ、私お腹すいちゃったよ」
「お前がまだ帰ってくるなって言ったんだろ」
「だって包帯とった顔に化粧するのに時間が必要だったから」
「だからって鍋に火をつけたままにすんなよ。火事にでもなったら」
 
 その時。玄関のほうでガタリと物音がした。
 
「え、なに。誰か来た?」
「俺が見てくるよ。お前は念の為、リビングの奥の方に行っといて」
「嘘、やめてよ。警察に連絡した方が」
「大丈夫だって」
 
 俺はサッと涙を拭うと大袈裟に鼻を啜った。玄関に向かい、ガリガリと爪でゲージを引っ掻く奴を抱き抱えてから、ぼそりと呟く。
 
「……ったく。サプライズもクソもない」
 
 リビングの扉を開けると、警戒して一瞬のけぞった彼女は俺の腕の中を凝視して声を上げた。
 
「時人、その子」
「今日保健所から連絡が来て、飼ってもいいって。だからさっき引き取ってきた」
 
 俺の腕から離れた黒猫は、軽快な足取りで彼女の元へと走る。足に擦り寄る子猫を抱き抱えた彼女は俺に顔を向けた。
 
「時人は凄いね。私の願いごと全部叶えてくれる。顔の傷の手術も、この子も」
「あーもう、そんなんいいから飯食おう!」
 
 俺は照れ臭くて。彼女がその先に続けそうな言葉を無理矢理に遮る。
 
「今日なんだっけ、あ、カレーか。え、カレー? 記念日に?」
「ちょっと。時人がカレーがいいって言ったんでしょう? しかも時人のせいで、今日は記念日でもなくなったし」
「あーはいはい、そうでした。ほら猫、お前にも食器とか缶詰とか色々買ってきたから、ちょっと待ってな」
「猫って……ちゃんと名前つけましょうねー、何がいいかな」
 
 俺は食事の準備をしながら、猫をあやす彼女を見る。

 部屋に干してある彼女の服も、
 お揃いのコップも歯ブラシも。
 その全ては間違いなく現実で、
 ちゃんと、目の前に存在する。

「そうだ、鈴蘭(すずらん)。今日からきみの名前はスズくんとしよう」
「鈴蘭?」

 俺が聞き返せば、彼女は黒猫を万歳させて見せてきて。

「ね、ぴったりでしょう?」
 
 胸元に変わった鈴を(たずさ)えた小さな小さな黒猫が、にゃあ、と鳴いた。


 了