亜矢は魔界に辿り着いた途端に、気を失ってしまった。
次に目覚めると、そこは魔王の自室のベッドだった。
前世のアヤメであった頃に毎日、魔王と共に夜を過ごし、朝を迎えた場所。
懐かしくて心地良い……そう思っていると、すぐ側から愛しい人の声が聞こえた。

「亜矢……気分はどうだ?」

ずっと側に居てくれたのだろう。魔王が優しい瞳で顏を覗きこんでいた。
亜矢は微笑むと、真直ぐな瞳で眼前の魔王を見つめ返す。

「…………オラン」

そう名を呼んだのは、亜矢の口だった。
だが魔王は、何か違和感を感じた。
自分に向けられた、その優しくて真直ぐな瞳が……亜矢ではなく、完全にアヤメに重なって見えたのだ。

「アヤメか?」

確信した魔王は、亜矢に向かって、その名で呼んだ。
目の前に居るのは『亜矢』。だが、意識は完全な『アヤメ』であった。
亜矢は小さく頷いた。

「うん。オラン…ずっと見てたわ」

本来は共存すべきであり、融合させたはずの『亜矢とアヤメ』の人格と記憶。
だが、今は完全にアヤメの人格のみが亜矢を支配していた。
それは、アヤメの意思なのだろう。

「アヤメ……!!」

魔王は、感情のままに亜矢の体を強く抱きしめた。
こうやって、アヤメの名を呼びながら抱きしめたのは、何百年ぶりだろうか。

「息子…コランは弟として育てたが心配ねえ。アイツは立派になった」
「知ってるわ。ふふっ…本当、あなたにそっくりね」

アヤメと亜矢の魂は同一であり、人格は違えど、記憶は共有している。
亜矢の目を通してアヤメも、ずっと魔王とコランを見てきたのだ。

「オラン、ありがとう。また巡り会わせてくれて」
「ああ。オレが生きている限り、何度でも巡り会う」

魔王が言う、それは『魂の輪廻』の儀式の事だ。
その儀式により、数万年という魔王の寿命が尽きるまで、アヤメの魂は何度でも転生を繰り返す。
魂の奥底に眠る前世の記憶は、魔王の『口付け』によって目覚め、徐々に記憶が甦る。
そうして、アヤメが完全に覚醒する。
これが、魔王とアヤメが何度でも結ばれる『魂の輪廻』。

「うん。だからこそ、お願いがあるの」

アヤメの口から魔王に伝えられた『願い』。
それは、魔王が想像だにしない内容だった。

一瞬、何かを考えたが…魔王はその瞳に、僅かな悲しみを浮かべて答えた。

「ああ、分かった」
「ありがとう、オラン。好き…愛してる」
「ああ。愛している」

そう返すとアヤメはふっと優しく笑った。そして静かに目を閉じて意識を失った。
魔王は、亜矢の薬指の指輪を外した。
亜矢が次に目を開けた時……目を覚ましたのは亜矢の人格だった。
今度は、亜矢の人格のみが表に出て来た状態だ。

「魔王……?」

目の前の魔王の瞳は、今までにない優しさを帯びていた。

「苦しめて悪かったな、亜矢」
「え?」

何の事だか亜矢には解らなかった。

「これから『封印の儀式』を行う。アヤメの記憶を、再び魂の奥底へと眠らせる」

「え……なんで……?」

亜矢には、その言葉の意味も理解が出来なかった。
あんなにも毎日、魔王はアヤメの記憶を甦らせようとしていたのに……
魔王にしてみれば、ようやく念願が叶ったのでは……?
だが、それは自分の中に在るアヤメと、魔王の優しさなのだろうと、言葉はなくとも伝わってきた。
自分を映す魔王の赤の瞳が……その温かい心を感じさせてくれた。
魔王は亜矢の体を抱き、首の後ろから手を回し支えると、自らを近付けていく。



封印の儀式。
解放された前世の記憶の扉は『口付け』という名の鍵によって閉じられ、魂の奥底に封印される。




アヤメの記憶は再び、亜矢の魂の奥底で眠りについた。






何故かは解らない。気付けば亜矢の頬には、涙が伝っていた。
魔王の瞳からも、どこか物悲しさを感じられたが、それも一瞬の事だった。
次には、余裕を含んだいつもの魔王に戻っていた。

「だが、忘れるな。例えアヤメの記憶がなくとも、オレは変わらず亜矢を愛し続ける。覚悟しろ」

そう。これから先も、何も変わらない。変える気はない。
だから…亜矢も、亜矢らしく生きて欲しいという、アヤメと魔王の願い。

「魔王……恥ずかしいよ」

すでにオランとは呼んでくれない亜矢に、魔王は少しの寂しさを感じた。




だが、魔王とアヤメは『約束』をしていた。
『来世では必ず結ばれる』という事を。
それは、亜矢が次に『転生して』この世に生まれて来る、遠い未来の話。
だが、魔王にとっての365年なんて、ほんの一瞬の事だ。
それまで待ってやる余裕くらいは、ある。
だが、今世の亜矢を諦める気も更々ない。
隙さえあれば亜矢の心を奪い取り、アヤメごと自分の虜にしてやる。
その時こそが、魔王の野望の達成なのだ。




勝った訳でも、負けた訳でもない。
始まった訳でも、終わった訳でもない。
魔王と少女の物語は、これからも続いていく。