いくら、余裕を見せていた魔王であっても。
死神との『デート』を見せつけられては、黙っていられるはずがない。
亜矢は魔王の優しさに油断して、失念していた事がある。
魔王は『悪魔』なのだという、単純な事を。






亜矢はその日、学校で終礼が終わっても、いつものように無意識に職員室に向かう事はなかった。
最近は、毎日のように行われていた魔王との『密会』。
その日々すらも、まるで何事もなかったかのように、亜矢は平然として過ごしている。
この事からも、亜矢が今までの自分を取り戻しかけている事実が見て取れる。
だが、その行動が招く結果に、亜矢はまだ気付いていない。
亜矢が帰宅しようと、高校の校門を出ようとした瞬間だった。

「待ちな、亜矢」

校舎側に立つ魔王が、亜矢を呼び止めた。

「何ですか?魔王先生」

亜矢の敬語も、生徒と教師の関係でしかない学校での呼び方も。
何気ない普段通りの亜矢の言動が、今の魔王にとっては腹立たしく、苛立ちをも感じさせた。
半ば強引に、魔王は亜矢を校舎の裏の人気のない場所まで連れて行った。
校舎の壁に亜矢の背中を押しつけ、その壁に両手を突いて逃げ道を塞いだ。

「魔王、なにっ……!?」

亜矢は身に覚えが無いと言った感じで、魔王の気迫に怯えた。
望んでもいない反応ばかりを返され、魔王の眼はさらに鋭さを増し、亜矢を凍り付かせた。
目の前に迫る赤の瞳……逃げ道を塞がれ、視線を逸らす事すらできない。

「言う事を聞け、アヤメ」

魔王が、あえて亜矢を『アヤメ』の名で呼びかけた。
その瞬間、スッと亜矢の意識が遠のき、瞳の色が柔らかく変化したように見えた。

「………うん」

亜矢は抵抗する事なく、静かに頷き答えた。
思った通りだった。呼びかければ、確かにアヤメは呼応する。
『魂の輪廻』の儀式は、確かに完成している。足りないものなど無いはずだ。
だが、すぐに亜矢の瞳は、本来の色を取り戻した。

「魔王、ごめんね……」

突然の謝罪の言葉。魔王には、次の言葉が望むものではない事が予測出来た。
それは、聞きたくない、決して認めたくない言葉――――

「あたしは、亜矢なの」

「…………ッ!!!」

その言葉によって、魔王の中で何かの感情が弾け飛んだような衝撃を生んだ。
次の瞬間、魔王の赤の瞳が激しく光った。

(…………!?)

突然、亜矢の目の前の視界が『無』になった。
地面も、空も、周囲の景色もなく、ただ真っ白な空間。背中の壁も消えてなくなっている。
この空間は、以前にも見た事がある。
魔王と初めて出会った時にも、この空間に閉じ込められた。
亜矢は驚きや戸惑いよりも先に、自分の前に立つ魔王に向かって疑問を投げかける。

「魔王……今度は何?」

亜矢を見据える魔王には、いつもの優しさや余裕を含んだ笑顔は無かった。
そこにある感情は、紛れも無く『怒り』のみだろう。

「何じゃねえよ。優しくしてりゃあ、好き放題しやがって」

亜矢は、今までにない魔王の気迫に恐怖を感じた。
一歩下がろうとするが、意思に反して、体が少しも動かない。
以前の時と同じ。これは、魔王の魔力だ。
魔王の強大な魔力の前に、亜矢は成す術がない。
魔王は、さらに歩み寄ると、亜矢の頬を両手で包んで固定する。
魔王の深紅の瞳から、目が逸らせないように。
亜矢は瞬きすら封じられ、目を閉じる事も出来ない。魔王の魔力に、体が完全に支配されている。

「オレにだって限度ってモンがある。嫉妬もするぜ。悪魔なんでな」
「…………!!」

亜矢は声も出せない。ここまで徹底的に束縛するなんて、魔王は本気なのだろう。
ずっと、魔王の優しさに安心していたのに。今は確かな恐怖が全身を駆け巡る。

「悪いが、もう余地はねえ。大人しくしてろ」

言われなくても、すでに自由を奪われている亜矢は、魔王から逃れる事が出来なかった。
魔王の瞳に、亜矢の瞳が完全に捕らえられる。
亜矢の人格を壊さないように、大切に慎重に扱いながら覚醒させるつもりだったが、もうそんな配慮などしない。

「全てを思い出せ」

魔王は片手に小さな何かを持っていて、それがキラリと光った。
自由の利かない亜矢は、目だけで魔王の手にある物を目を凝らして確認する。
それは、指輪だった。
金色に光る金属に、赤い宝石が施された指輪。

(その指輪……は……)

亜矢は、その指輪に見覚えがあるような気がした。とても懐かしくて……大切な物だった気がする。
それは、かつて魔王がアヤメに贈った『結婚指輪』であった。
アヤメが生涯、ずっと左手の薬指に嵌めていた、婚姻の証。
魔王は亜矢の左手を取ると、薬指にその指輪を嵌めた。
その指輪には、魔力が込められていたのだろうか。
その瞬間、遥か遠い過去の記憶……全ての情報が、一気に亜矢の中に流れ込んできた。

「目覚めろ、アヤメ」

魔王が、亜矢の中の『アヤメ』に呼びかけた、その言葉を合図に。
亜矢は自分の意識が弾け飛んだ感覚がして、ふっと意識を失った。