突然、別れを告げてきたアヤメに、亜矢は訳も分からずに動揺する。

「ちょっと待って、どういう事なの!?魔王と別居!?」
「え?ふふ、やだ、違います。魔界で出産をしようと思って」

いわゆる『里帰り出産』である。
前世で、魔界での生活が長かったアヤメにとっては、魔界が故郷のようなもの。
慣れ親しんだ魔界に戻って、落ち着いた環境の中で出産を迎えるというのだ。
産まれてくるのは悪魔の子だし、その方が安全だろう。
それを聞いた亜矢は、すぐに納得した。

「そっか、大事な体だもんね。元気な赤ちゃんを産んでね」
「はい。またしばらくコランの事、よろしくお願いしますね」
「うん、それは大丈夫。任せて」

亜矢はそうは言ったが、どこか寂しさを感じていた。
無事に出産を終えるまでの期間、おそらく数ヶ月はアヤメは帰ってこない。
せっかく母と再会できたコランも、また少しの辛抱だ。
……まぁ、いざとなれば、亜矢の部屋のクローゼットから魔界には行けるのだが。

(アヤメさんが戻ってきた時には、コランくんは『お兄ちゃん』になるのね…)

どこか感慨深く思う亜矢であった。
さすが、前世でのコランの母親。家族同然なのだ。


挨拶を終えたアヤメが、亜矢の部屋の玄関から外に出る。
すると偶然にも、右隣に住むグリアが玄関から外に出てきた所だった。
グリアは黒のコートを着ている。死神の正装だ。

「あ、どこかに出かけるの?」

アヤメは笑顔でグリアに問いかけた。
しかしグリアは、ここでもアヤメを亜矢と見間違えた。
単純に考えれば仕方ない。亜矢の部屋のドアから出てきたのだから。
亜矢とアヤメは、瞬時に見分けるのは不可能なのだ。

「……まぁな。……身体は大丈夫なのか?」

グリアはもちろん、亜矢の身体を気遣ったつもりだ。
アヤメはグリアが優しく身体を気遣ってくれたと思って、嬉しくなって微笑み返す。

「うん。たまに『つわり』が大変だけど、キスで治るし大丈夫よ」
「……は?キスで治る?」
「うん。すごくキスがしたくなる『つわり』なの」

グリアはハッとして、先日の亜矢の様子を思い出す。
亜矢らしくもなく、『口移し』を求めてきた、あの時の亜矢は……
そういう事か……。
勝手に納得したグリアは、それ以上は何も言わずにマンションの階段を下っていった。