目を覚ました時、背中に毛布が掛けられていた。台所で眠り込んだらしい。
「一人で飲んだの?」
 妻が冷酒のボトルとぐい?みを洗っていた。
「まあね」
 あのお方との出来事は伏せておいた方がいいと思った。
「顔を洗ってきたら?」
「そうだね」
 洗面所に行って、冷水で顔を洗うと気分がすっきりしてきた。タオルで拭いて鏡に映すと、覚悟のある顔がそこにいた。すると、あのお方から授けられた言葉が蘇ってきた。自らの使命をこれほど的確に表す言葉はないと思った。よし! と小さく声を発して妻の元へ戻った。
「決めたよ」
「決めたって、何を?」
 妻は不思議そうな顔をしていた。
「伝想家」
「えっ? で・ん・そ・う・か?」
「そう、想いを伝える人」
 テーブルを挟んで向き合った妻を真っすぐに見つめた。
「君も知っている通り、わたしは代々続く宮大工、才高家の跡継ぎとして生まれた。当然のように第23代当主になることを期待されていた。いや、決まっていた。しかし、右脳優位で手先の不器用なわたしは、オヤジのような立派な宮大工、そして、棟梁にはなれないと、違う道へ進む選択をした。その選択になんの迷いもなかった。それでも心のどこかで何かが引っ掛かっていた。抜けない棘のようなものがチクチクと鈍い痛みを与え続けた。わたしはオヤジの期待を、いや、500年続く才高家そのものを裏切ってしまったんだ」
 当時のことを思い出すと心が痛くなってきたが、耐えて言葉を絞り出した。
「妹が跡を継ぐと言って宮大工の修行を始めてからもその痛みは消えなかった。いや、それどころか痛みは増すばかりだった。自分だけ大学へ行って、自分だけ好きなことをして、小説家気取りで浮かれているわたしを見てオヤジはどう思っていたのか」
 当時のバカさ加減が脳裏に浮かび、思わず唇を噛んだ。すると妻の左手がわたしの右手を優しく覆った。その温かさが口を開かせた。
「君と出会ってわたしは救われた。こんなわたしを心から愛してくれる女性に出会えるなんて信じられなかった。その上、とても可愛い子供が生まれた。子供の顔を見た瞬間、わたしの中に、なんと言うか、才高家に脈々と流れる血筋というすべてを超越した何かを強く感じた。だから自然と匠という名前が浮かんできた」
 妻の左手に左手を重ねた。
「妹がわたしに協力を依頼してきた時、あいつは『お兄ちゃんにしかできない』と言ってくれた。嬉しかった。わたしが才高家のためにできる役割があったことが、とても嬉しかった」
 両手で妻の左手を包み込んだ。
「日本には素晴らしい技を持った職人がいっぱいいる。日本の宝、日本の誇りと呼べる人がいっぱいいる。しかし、宮大工のように後継者が減り続けるとその伝統の技が維持できなくなってしまう。そんなことをこのまま放置しておくわけにはいかない。このまま廃れさせてはいけない。日本の宝である伝統の技を守らなければならない。そのためには誰かが宮大工の技と想いを後世に伝えなければならない。そして、守り抜かなければならない。誰かが」
 妻の左手を両手で強く握った。
「わたしがその役を担いたい。伝統の技と職人の想いを伝える役を担いたい。わたしは『想いを伝える人=伝想家』になりたい」
 妻が何も言わず強い視線でわたしを見つめる中、わたしは妻の左手から両手を離して深く息を吸い、吐いた。心を落ち着かせるためだ。他に伝えなければならないことがあるのだ。熱い想いだけで物事を前に進めることは出来ない。現実的な問題をクリアしなければならないのだ。
「生活費のことなんだけど」
 妻は瞬きもせずにわたしを見つめていた。
「本気でやろうとすると、サラリーマンと二足の草鞋(わらじ)を履くわけにはいかないと思う。つまり」
「独立するっていうことね」
 疑問符ではなく、確認するような言い方だった。
「そう、平日は会社員、週末は伝想家では中途半端なことしかできないと思うんだ。でもそうなると最初は無収入ということになるし、その後も不安定な状態が続くかもしれない」
 妻は頷くことも首を横に振ることもなかった。
「当面はなんとかなるかもしれないけど、匠が大きくなって学費がかかるようになった時が問題だと思うんだ」
 今は給料以外に安定した額が毎月振り込まれていた。作詞の印税だ。CDの売上枚数に対してだけでなくカラオケなどで歌われた回数に応じても支払われるので、まあまあの額になっていた。
「作詞の依頼がこれからもあればありがたいが、そうそううまくいくとは思えないし、カラオケで歌われる回数も少しずつ減っていくことを考えておかなければならない」
 妻は僅かに頷いた。
「独身の時ならすぐに仕事を辞めて伝想家への道を決断したと思う。しかし、家庭を持った今は自分の思いだけで物事を進めるわけにはいかない。君の正直な気持ちを聞かせて欲しい」
 妻はしばらくうつむいていたが、何かを決めたかのように一度頷いて顔を上げた。
「いいんじゃない」
 そして、笑った。
「贅沢さえしなければなんとかなるわよ。あなたの収入がゼロになったとしても、わたしのお給料が毎月入って来るでしょ。匠についても義務教育が終わるまではそんなにお金もかからないから、何かよっぽどのことがない限り大丈夫だと思うわ。それにね」
 笑みが消えて真剣な表情に変わった。
「匠のためにもなると思うの。身近で父親の仕事を見ることができるのは貴重な経験だと思うの。あなたの背中を見ながら成長していくのって素敵だと思わない?」
 すると宮大工の仕事を取材しているわたしの背中を見つめている匠の姿が思い浮かんだ。そして、宮大工から色々な道具の使い方を教えてもらっている姿も思い浮かんだ。その顔は嬉々としていた。
「あなたの血が、いえ、代々続く才高家の血が流れている匠のためにもやるべきだと思うわ」
 その時、匠の泣く声が聞こえたので、あらあら、と言いながら妻は匠のいる部屋に行き、抱っこをして連れてきた。しかしまだぐずっていたので眠りが足りないのかもしれなかった。その様子を見てふと中華料理店からの帰り道のことを思い出した。
「おんぶしてみようか」
 妻に背中を向けた。するとすぐに匠の小さな手を肩に感じて、背中全体が温かくなった。すぐさま両手を背中に回してしっかりおんぶするとぐずり(・・・)は止み、程なくスースーという寝息が聞こえてきた。眠ったようだった。
「あなたの背中には敵わないわね」
 妻がちょっと悔しそうな笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 心が決まったわたしは同じ言葉をもう一度胸の奥で呟いた。