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「ねえ、たまには外で食べない?」
 近くに美味しい中華料理店が開店したのだという。
「この前お義母さんがランチに行ったらしくて、とてもおいしいから行きなさいって勧められたの」
 特に異論はなかったので、妻の案内でその店に向かった。
 10分ほど歩くと、『祝御開店』の大きな赤い文字が主張する華やかな花輪が見えてきた。近くに行くと店の前に並んでいる人はいなかったが、土曜日の夕方ということもあって、店内は混雑しているようだった。
「空いてるかな?」
 妻と目を合わせてから店の中に入ると、「いらっしゃい」という威勢のいい男性の声が耳に届き、中年の女性が近づいてきた。
「お2人様ですか?」
 頷くと、女性が店内を見渡した。
「こちらにどうぞ」
 奥のテーブルが1つだけ空いていた。
「補助椅子をお持ちしますね」
 匠の席を用意してくれたあとメニューを広げて、「お決まりになりましたらお声掛けください」と言って店の奥に戻っていった。厨房では男性が2人忙しそうにしていた。父親と息子だろうか? 一方は50代くらいで、もう一方は20代のように見えた。店内を切り盛りしている女性は母親のようだった。
 妻はチャーハンと餃子を、わたしは春巻きと八宝菜と酢豚と生ビールを頼んだ。
 生ビールはすぐに運ばれてきた。1口目は妻が飲んだ。「やっぱりおいしいわね」と顔を綻ばせたものの、それ以上は飲まなかった。匠に手がかかっている間は控えるつもりなのだろう。わたしは妻から受け取ったジョッキに口を付けてゴクゴクと半分ほど飲んだが、余りのうまさに思わず「あ~」という声を漏らしてしまった。それでもビールだけをひたすら飲むわけにもいかないので厨房の様子をちらちらと見ていると、切れ目なく入る注文にてんてこ舞いしているかと思いきや、一定のリズムでてきぱきとこなしていた。父親が息子に的確な指示を出しているのだろう、次々に料理が出来上がっては運ばれていった。
 しばらくして注文した5皿が間を置かずに運ばれてきた。どういう段取りで作っていたのだろうか? 別々の料理を僅かな時間差で作り上げる技に感心した。
 匠に食べさせながら自分も食べ終わった妻は杏仁豆腐(あんにんどうふ)を注文して「お酒は我慢してもデザートはね」と意味深な視線を投げてきたので、〈別に言い訳をしなくても〉と言いそうになったがぐっと堪えて頷いた。
 杏仁豆腐が運ばれてきてそれをテーブルに置くと女性がコップに水を注いだので、「お子さんですか?」と訊きながら厨房で忙しく働く若い方の男性に視線を投げた。すると女性は頷いてから、「いつも怒られてばかりいますけど」と付け加えて息子の方に視線をやった。
「厳しいんですね」
「ええ。料理に関しては一切妥協しませんから」
 親子といえども厳しい師弟関係があることを匂わせた。
「でも、跡継ぎがいていいですね」
「ありがとうございます。早く一人前になってくれればいいんですけどね」
 目を細めた女性の顔は母性愛に満ちているように見えた。
 杏仁豆腐を食べ終わった妻が大満足の顔をこちらに向けたので、支払いを済ませて店を出た。ふと見上げると、月が出ていた。ほぼ満月のようで、餅をつくウサギのような姿が見えた。
「あれも親子かしら」
 匠を抱っこしている妻が月を見上げていたが、確かに大きなウサギと小さなウサギのようにも見えた。
「そうだね。もしかしたら修行中かもしれないね」
 さっき厨房で見た親子の姿が目に浮かんだ。するとそれがオヤジと自分の姿に変わり、厳しく指導された日々が蘇ってきた。
 我慢していればさっきの親子のようになっていたかもしれなかったのに……、
 胃液が逆流してきたような思いに囚われたが、そんなことを今更考えても仕方がなかった。もう終わったことなのだ。過去には戻れない。もう一度やり直すことはできないのだ。そう言い聞かせて月から目を離すと、妻と目が合った。
「代わってくれる?」
 匠を抱く手が痛くなってきたとほんの少し顔をしかめた。
「おんぶするよ」
 わたしが背中を向けると、匠が覆いかぶさってきた。すると、ほっぺたをぺたんと背中に付けたように感じた。
「すぐに寝ると思うわよ」
 妻が匠の背中をさすっているようだった。
「ほら、寝た」
 ねっ、というような視線をわたしに向けた。
「なんか急に重くなったような気がするよ」
 背中に回した両手にずっしりと匠の体重がかかっているように感じた。
「安心しているから力が抜けているのよ」
「安心か……」
「うん。世界で一番安心できる背中だからね」
 なるほど、と思っていると、妻がわたしの前に廻って後ろ歩きを始めた。
「親だからこそ味わえる幸せかもしれないわね」
 ニッコリ笑ったあと振り向いて、わたしの横に移動した。
「そうだね。確かにね」
 匠をちょっと上に持ち上げると、寝言のような声が聞こえた。
「かわいいね」
「うん、世界一かわいい」
「あのね」
「ん?」
「なんか無理して立派な親になろうとしてたけど、ありのままでいいのかもしれないなって、そんな気がしてきた」
「うん、そうだと思う。傍にいてあげるだけで十分なのだと思うわ。この子にとって世界一のパパなんだから」
 それを聞いてぐっときた。じわ~っと目頭が熱くなってきたのでみっともないものが目から零れ落ちないように空を見上げると、星の瞬きがぼやけて見えた。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
 辛うじて涙声にはならなかったし、涙も零れなかった。
「変な人」
 妻が肩をわたしの腕に当てた。
「ありがとう」
 前を向いたまま言った。
「何が?」
 妻の視線を感じた。
「とにかく、ありがとう」
 また前を向いたまま言った。