同棲を始めてから丸1年の記念日に結城を夕食に誘った。向かったのは神戸市六甲にある高級ホテルだった。その中でも特に有名なフレンチ・レストランを予約していたのだが、いざ中に入ってみると落ち着いた雰囲気にちょっと気後れしてしまった。少しビビッているのが自分でもわかった。それでもなんとか平静を装って席に着いた。
 ドリンクメニューの中からシャンパンを選んだ。シャンパーニュ地方産の本物のシャンパンだ。ソムリエが(うやうや)しく開栓してグラスに注ぐと、黄金色に輝く繊細な泡が弾けた。口に含むと、ほどよい酸味とあとから来る上品な甘みに魅了された。
 少ししてシェフのお任せコースが次々に運ばれてきた。その度にホールスタッフが説明してくれたが、緊張している上に説明が専門的過ぎてよくわからなかった。フォワグラとかトリュフとかオマールエビとか仔鴨のローストといった言葉に頷くのが精一杯だった。しかし、そんなことはどうでもよかった。席に着いた時は場違いな高級レストランに戸惑って驚きを隠さなかった彼女がこの特別なディナーに魅せられているのがたまらなく嬉しかった。
 食事が終わり、最上階のラウンジに彼女を誘った。今夜のクライマックスを演出するための最高の席を確保するためだ。しかし、海側の席はすべて埋まっていた。わたしはがっかりするだけでなく落ち込んだ。せっかくの夜が台無しになりそうで不安が一気に広がった。それでも諦めずにほんの少しでも百万ドルの夜景が見える席がないかとフロアを見渡したが、そんな席が空いているはずがなかった。恋人を連れた男が考えることは同じなのだ。ロマンティックな席がいいに決まっている。わたしは出遅れた自分を悔いたし、(なじ)ったが、どうしようもなかった。仕方がないので反対側を見たが、ほとんど人はいなかった。当然だ。夜空しか見えない席に座る酔狂(すいきょう)なカップルはいない。わたしは途方に暮れて立ち尽くした。しかし、そんな心の内を知る由もない彼女は「こっちの方が星がよく見えるわ」とソファにさっさと座ってしまった。そして、ここにしましょ、というような目で見つめられた。わたしは仕方なく彼女の横に座ったが、落ち込んだ気分は上向かなかった。というより、暗雲に支配されていた。でも彼女は違っていた。にっこり笑って、窓に向かって指を差したのだ。促されるまま目を向けると、そこには煌めくような満天の星が広がっていた。百万ドルの夜景に邪魔されないことによって、星の瞬きが鮮やかに浮かび上がっていた。失敗したと落ち込んでいたが、そんなことはなかった。この席で大正解だった。しかも、周りには誰もいなかった。これ以上の舞台設定はなかった。わたしにとって一生に一度の大事な瞬間が迫っているのだ。わたしはホッと胸を撫で下ろした。
 間を置かずウエイターがカクテル・メニューを持ってきた。わたしはメニューを開きながら、そっと横の様子を窺った。彼女は星を見るのに夢中になっているようだったので、小さな声で2種類のカクテルを注文し、持ってくる順番を告げた。彼はその意図を理解して笑みを浮かべ、目礼してメニューを下げた。彼女はまだ星空を一心に見つめていた。
 心地良いジャズの調べに身を任せていると、最初のカクテルが運ばれてきた。『アムール・エテルネル』。グラスを彼女に向かって掲げると、何も知らない彼女は掲げ返して口元に運んだ。すると、甘い香りに誘惑されたのか、うっとりとしたような表情になった。それを見てわたしは心の中で囁いた。フランス語で『永遠の愛』という意味なんだよと。
 2杯目のカクテル『エプーズ・モア』が運ばれてきた。口づけるように彼女のグラスにわたしのグラスを合わせた。『結婚してください』という名前のカクテルが彼女を口説くように酔わせていった。
 BGMが変わり、囁くようなサックスの音色に続いて低音の切なく甘い歌声がラウンジを満たしていった。『MY ONE AND ONLY LOVE』。ガーシュインの名曲だった。そして、ジョン・コルトレーンのサックスとジョニー・ハートマンのヴォーカルだった。それは、わたしの心を代弁するかのようなロマンティックな演奏と歌だった。
 その余韻が残る中、トランペットの音色がさり気なく耳に忍び込んできた。それはわたしたちをそっと包み込むような優しい音色で、大好きなクリス・ボッティの演奏に違いなかった。『EMBRACEABLE YOU』。彼女はうっとりとしたような表情でその音色に抱き締められていた。
 曲が終わると、彼女が目を開けてわたしに微笑んだ。その瞳は僅かに潤んでいるように見えたが、少し照れたように視線を外して窓の方へ向けた。
「綺麗ね……」
 空には無数の星が(またた)いていた。
 その時だった、左上から右下へ星が流れた。尾を引くようにゆっくりと。
 奇跡のような瞬間にわたしは息を呑んだ。彼女は魔法をかけられたように流れ星の残像を追っているようだった。わたしは上着の内ポケットから小箱を取り出し、彼女の目の前でそっと開けた。すると、彼女の瞳に光り輝くダイヤモンドが煌めき、時が止まったかのようにまばたきを忘れた彼女の目から眩い真珠の粒が溢れた。星降る夜、神秘な瞬きが、永遠を刻み始めた。