結城は島根県の出身で、父親は小さな写真館を経営していた。創業した祖父を継いで2代目として頑張っていたが、その経営状態は芳しいものではなかった。それは多分に島根県の置かれた状況に起因していた。1955年から人口減少が始まり、一時持ち直したが、1992年に死亡数が出生数を上回るようになると、減少スピードは加速していった。ピーク時に90万人を超えていた人口は70万人台に落ち込み、2050年には50万人を割り込むという予測さえ出されるようになった。それは少子化と高齢化により県が消滅するかもしれないという危機的な事態を暗示していた。
 写真館を利用するシーンの上位は『七五三』『お宮参り』『結婚』『成人式』『証明写真』『入学入園』『卒業卒園』であり、これはすべて若い人たちが利用するシーンに限定されている。しかし、赤ちゃんを含めた若年層が急速に減少していく中、需要そのものが縮小していくことは間違いなかった。更に、スマホのカメラ機能の大幅な向上により、わざわざ写真館を利用する必要がなくなっていた。それは写真館の料金の高さという潜在的な不満と相まって利用頻度の減少に繋がり、年を追うごとに写真館の売上は減っていった。しかしこれは一写真館の努力でなんとかなるものではなかった。父親は還暦(かんれき)古希(こき)喜寿(きじゅ)米寿(べいじゅ)卒寿(そつじゅ)白寿(はくじゅ)などの長寿祝いを新たなターゲットとして開拓していったが、若年層需要の落ち込みをカバーすることはできなかった。
 そんな状況もあって、結城が家業を継ぎたいと言った時、父親は猛反対した。先の見えない状況の中で一人娘が苦労するのが見えていたからだ。母親は表立って反対はしなかったが、といって応援してくれるというふうでもなかった。
 それでも短大を卒業する年の正月、再度両親に向き合った。父親のもとで腕を磨きたいこと、一人前になったらこの写真館を継ぎたいことを必死になって訴えた。しかし、父親が首を縦に振ることはなかった。自分の代で終わらせるという決断を変えるつもりはないと断言された。それでも諦めなかった。母親を味方に付けて父親を説得しようとしたのだ。でも状況は好転しなかった。母親は首を横に振るばかりで、娘と一緒に夫を説得しようとはしなかった。
 手立てがなくなった結城は断念するしかなかった。それでも、いつか写真館を継ぐという夢は諦めなかった。祖父が始めた写真館を無くしたくなかったし、祖父や父のように地域の人たちの笑顔を撮り続けていきたかった。人口減少県だからといって悲観したくなかった。なんとしてでも家業を続けていきたかった。何よりここは故郷なのだ。自分が生まれ育った場所なのだ。祖父母や両親が愛した土地なのだ。
 しかし、父親が反対する以上、実家で修業することはできない。といって県内に修行する場所は皆無に等しかった。悩んだ末に出した結論は大都市での修行だった。頭の中には修学旅行で訪れた大阪の街並みが浮かんでいた。日本を代表する大都市・大阪。そこならカメラマンのアシスタントとしての仕事があるに違いないと思ってネットで検索して仕事を探した。すると、すぐに見つかった。大阪市内にある結婚式場でアシスタントの募集を見つけたのだ。大きな結婚式場のようで、修業する場としては最適なように思われた。正社員ではなく契約社員としての募集だったが、そんなことはどうでもよかった。とにかく経験を積まなければならないのだ。一も二もなく応募した。すると、家業が写真館ということが幸いしたのか、すぐに採用が決まった。結城は夢を膨らませて大阪へ向かった。
 現実は厳しかった。仕事は単調かつ重労働でしかなく、機材管理や持ち運び、撮影準備や細々(こまごま)としたサポートの繰り返しで肉体的にも精神的にもハードなものだった。その上、カメラマンが直情型の男で、ほんの些細なミスに対しても怒声が飛んできた。ミスをしていない時でも腹の虫の居所が悪いと怒鳴られた。それは理不尽としか思えない仕打ちだったが、それでも家業を継ぐという明確な目標を持っていたので結城は耐えた。耐え続けた。そして、カメラマンの技を盗めるだけ盗もうと五感を研ぎ澄ませた。
 3年間耐え続けたあと、これ以上居ても意味がないと思った結城は転職を決意した。今度はアシスタントではなくカメラマンとして。しかし、アシスタントとしての経験しかない彼女を採用するところは皆無だった。5回連続して書類選考に落ちて途方に暮れた。それでも探し続けていると、ハローワークで現在の勤務先『会社案内企画』を紹介された。幸運にも応募が彼女一人だったこともあって契約社員としての採用が決まった。給料は19万8千円だった。
 喜びも束の間、信じられないような連絡を父親から受けた。写真館を廃業したというのだ。1年間赤字が続いて今後も黒字が見込めないため、借金がない今のうちに閉めたのだという。それだけではなかった。家と土地を売るという。その後は母親の実家に移って農業をするのだという。それを聞いて彼女はがっくりと膝をついた。せっかくカメラマンとしてのスタートを切れたのに目の前から夢が消えてしまったのだ。帰る場所さえ無くなってしまうのだ。
 そんな落ち込んでいる時にわたしが入社した。そして、作家として挫折した経緯を知った。どん底から立ち上がってライターを目指すことを知った。実家に戻る場所がないことも知った。それは自分が置かれている状況と似ているように感じた。だから「卒業おめでとうございます」という声が自然に出てきた。それは自分に対しての言葉であったし、実家を卒業するという宣言でもあった。
 その後2人で過ごす時間が増えるにつれ、お互いが置かれた立場について話し合うことが多くなった。
「継ぐべき家業が無くなった私と家業があっても継がなかったあなたがこうして一緒にいるのは不思議ね」
「本当だね。切望しても叶わなかった君と切望されたにもかかわらず断ったわたしが出会ったことも何かの縁なのだろうね」
「それも大阪でね。京都出身のあなたと島根出身の私が大阪の小さな会社で一緒に仕事をするようになるなんて、本当に不思議」
「もしかしたら運命かもしれないね。出会うようにできていたのかもしれない。生まれる前から運命の糸が繋がっていたのかもしれないね」
「そうかもしれないわね。でも、その糸はどこに結ばれているのかしら」
 彼女が両手の10本の指をじっと見つめたので、「そこじゃないよ、ここだよ」とわたしは彼女の心臓の上に手を置いた。丸くて柔らかくて温かった。
「離さないでね」
 彼女もわたしの心臓の上に手を置いた。
「繋がったね」
 お互いの生命の拍動が同期しているように感じると、溶け合って一つになったように思えた。
 大切な人……、
 わたしは愛おしく彼女を抱きしめた。そして、彼女との行く末に思いを馳せた。