笑顔の社長に見送られて駅へ向かって歩いている時だった。「才高さん、お祝いしましょう」と突然、結城が言った。
「お祝い? なんの?」
「才高さんの初仕事のお祝い」
「えっ? わたしのお祝い?」
 思い切り戸惑った。無事に終えることができたとはいえ、今回の仕事はわたしの力だけでできたわけではない。彼女の力添えが無ければ、彼女が撮った素晴らしい写真が無ければ、こんなに完成度の高いものはできなかった。だから2人のお祝いにしようと提案すると、彼女はにっこり笑って頷いてくれた。
 
 結城がたまに行くという洋風居酒屋で乾杯した。ビールが、久しぶりの生ビールが旨かった。精一杯仕事をして、やり遂げて、結果を出して仲間と祝うビールの旨さを初めて知った。
 クゥ~、幸せ!
 天国へ昇るような気持ちになった。体中の細胞が活性化して一気に2杯目を飲み干すと絶好調になった。ビールが進めば進むほど美顔の社長やパンフレットの話で盛り上がり、結城と何度もジョッキを合わせた。楽しかった。本当に楽しかった。
 彼女の笑顔を見ながら今が渡すチャンスだと思ったので、紙袋をそっと彼女に差し出した。すると彼女は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべてわたしに礼を言った。しかし、受け取ろうとはしなかった。
 それは予想していたことだった。だから笑いを取るような口調で「わたしが貰っても豚に真珠だからね」と告げてもう一度彼女に差し出した。「それに、君に使ってもらいたいから」。少し照れたが、歩きながら考えていた言葉を口に出すことができた。
 一瞬彼女は躊躇いを見せたが、それでも小さな声で「ありがとう」と言って、今度は受け取ってくれた。わたしはさっきより照れ臭くなってジョッキに残ったビールを一気に飲み干したが、何を話したらいいのかわからなくなったのでトイレに立った。
 鏡に顔を映すと目の周りに赤みがさしていた。蛇口をひねって水道水で顔を洗って酔いと火照りを鎮めた。
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 トイレから戻ると、彼女はスマホで何かをチェックしていた。少しして顔を上げると、スマホの画面とわたしを交互に見つめ、「こんなこと聞いていいかどうか……」と躊躇いがちに口を開いた。
「何?」
 なんでもどうぞ、と掌を上に向けると、「あの~、才高さんって有名な小説家だったんですよね」と遠慮がちな口調ながら予想外の質問を投げかけてきた。
「有名かどうかはわからないけど……」
 ちょっと面食らったのでぼそぼそっと返すと、「もう、小説は書かないのですか」とわたしの目を覗き込むようにした。
「ん……」
 わたしは彼女から目を逸らし、空になったジョッキを見つめた。
「もう……書かない」
 ジョッキに映る自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうですか……」
 ため息のような彼女の声が聞こえた。しかし残念というようなニュアンスは感じられなかったので彼女へと視線を移すと、何故かにこやかに笑っていた。
「おめでとうございます」
 突然、彼女がジョッキを掲げた。
「えっ?」
 何がめでたいのかわからなかったが、「小説家卒業、おめでとうございます」と自分のビールをわたしのジョッキに注ぎ、「乾杯」と言ってジョッキを合わせてきた。
 カチーンという強い音がした。その瞬間、わたしの中で何かが砕けたように感じた。それは潜在意識の中に残っている小説家への未練のように思えた。
 卒業か~、
 呟きと共に小説家という言葉をごくりと飲み込むと、2つの言葉が胃の中で分解されてどこかに吸収されていった。すると生まれ変われそうな気がしてきた。彼女がいてさえくれれば新しい自分になれるような気がしてきた。結城の笑顔が、結城の優しさが、結城の存在が、わたしに新しい何かをもたらそうとしていた。