前日インタビューが終わって会社を辞する時、突然社長から招待を受けた結城とわたしは、芦屋にある社長の自宅へ向かった。
「意外と小さなお宅ですね」
「うん。年商200億円の会社の社長宅としては質素だね」
 小声でそんな話をしながらインターホンを押すと、ほとんど間を置かずに社長が出迎えてくれた。私服に着替えてリラックスした表情の社長の横には奥様がいて、「ようこそお越しくださいました。主人が突然お誘いしたようで、ご迷惑ではありませんでしたか?」と上品な口調で気遣いの言葉をかけてくれた。
「いえ、こちらこそお言葉に甘えて押しかけてしまいまして。お誘いいただいたとはいえ、ご辞退したほうが良かったのではないかと」
「まあまあ、狭い家ですが、どうぞ、どうぞ」
 余計な気遣いはいらないというように社長に遮られて、居間に通された。
「この家はもともと借家だったのです。商売が軌道に乗り始めた頃、『一軒家に住みたいね』という2人の願いを叶えるためにこの家を借りました。そして、その後買い取ったのです。住み始めてからもう25年近くになります」
 社長は横に座る奥様に微笑みかけた。
「お客様が増えて商品のラインナップも拡充したので、間借りした店では十分に在庫を置くことができなくなりました。そこで思い切って通信販売へと販売方法を変えたところ売上が急速に伸び、社員も増えて会社がどんどん大きくなっていきました。すると色々な人から『もっと社長らしい立派な家に住んだらどうですか』と言われるようになりました。でも、私たちの苦労も喜びも全部知っているこの家に対する愛着が強くて他の家に住もうという気が起きませんでした。ねっ」
 また奥様に向かって微笑みかけた。羨ましいほど仲の良い夫婦だと思った。
 その後は奥様の手料理を頂きながら社長の話に耳を傾けたが、お酒が入って上機嫌になった社長にインタビューをする必要はなかった。
「『美顔』という会社名をどう思いますか?」
 反対に質問されてしまった。
「インパクトのある社名だと思います。特に女性には強く訴えるものがあると思います」
 答えたのは結城だった。
「ありがとう」
 わたしたちにお酒を注ぎながら幸せそうな表情で社長が笑うと、「最初、私は反対したのですけど」と奥様が口をはさんできた。
「『美』という文字が何かしっくりこなかったのです。敏感肌用の化粧品なのに『美』という言葉を社名に使うのはどうなんだろう、と思ったのです。でも、社名に込めた想いとこれからの事業展開の構想を聞いて納得しました。主人は『美しい顔は健やかな顔』と言ったのです」
 そこで奥様の話を社長が引き継いだ。
「メイクアップ化粧品を塗りたくって作った顔が美しい顔ではない、と思っています。それは外側だけですから。もちろん女性にとって化粧は大事です。そのことを否定するつもりはありません。問題なのは顔を作る化粧にばかり気を取られて内面を磨くことを忘れがちになることなのです」
 なるほど、
「心と体が健やかでないと美しい顔にはなりません。だから『美しい顔は健やかな顔』なのです」
 喉を潤すようにお酒を一口飲んで、社長は話を続けた。
「化粧品だけのビジネスをする気は最初からありませんでした。外側だけ綺麗になっても仕方がないからです。内面から滲み出る美しさでないと本物の美しさとは言えないと思うのです」
 確かに。
「生き生きとした毎日を過ごすこと。そのためには、心豊かに過ごすこと。そのためには、本に親しみ、素敵な映画を見て、心弾む音楽を聴き、素晴らしい絵画を愛でること。バランスのとれた食事を心がけ、食べ過ぎないこと、飲みすぎないこと。睡眠をたっぷりとってストレスをためないこと。運動をしてシャープな体を保つこと。感謝の気持ちを持ち、家族や友人、知人を大切にすること。困っている人に手を差し伸べること。つまり、心と体を健やかに保つこと。これが重要なのです」
 社長の話に引き込まれて、わたしも結城も箸が止まったままになった。
「ですので、『美顔』という社名に込めた想いを会社の志にまとめました」
「志、ですか」
「そうです。志です。我が社がなんのために存在するのか、誰のために存在するのか、どういう想いで経営していくのか、売上や利益よりもはるかに重要なこと、それが志です」
 そして、一言一言(ひとことひとこと)ゆっくりと噛みしめるように声を発した。
「美しい顔は健やかな顔。健やかな顔は健やかな心と体。株式会社『美顔』は皆様の健やかに貢献し、美しい人生を応援します」
 それを聞いた瞬間、なんと素晴らしい志なのだろう、と感銘を受けたが、話はまだ続いていた。
「創業の原点は肌が敏感な人に合うスキンケア製品の開発でした。つまり、健やかな顔を実現することでした。次に挑戦しているのが、健やかな心と体の実現です。一つずつ順番にお話しします」
 わたしは目と耳とペンを握る手に神経を集中させた。
「スキンケアで大切なのは保湿とUV対策です。我が社ではその製品開発を重点的に行っています。もちろん、すべて低刺激性の製品に絞っています。ただ、一口に敏感肌、乾燥肌といっても一様ではありません。十人十色、百人百色なのです。ですから、数多くの製品群を用意しています。そして肌トラブルでお困りの方々が相談しやすいように、お客様窓口機能を強化しています。全社員の五分の一、40名がお客様窓口の担当なのです。そしてその全員が正社員です。誇りを持って仕事をしてもらいたいからです」
 美顔の社員はお客様窓口担当だけでなく全員が正社員で、契約社員も派遣社員もアルバイト社員もパート社員もいない。
「スキンケア製品の売上が50億円を超えた時、次の目標に向かって投資を始めました。健やかな体を実現するための投資です。何から始めたと思いますか?」
 社長が悪戯っぽい顔でわたしたちを見て話を続けた。
「お客様と一緒に歩くことです」
 意外な言葉が社長の口から飛び出した。
「我が社にはスキンケア製品を購入していただいているお客様とのコミュニケーション強化を目的とした『美顔・健やか倶楽部』という会員組織があります。その会員様と一緒に歩くことから始めました」
 現代人は昔に比べて歩くことが少なくなっている。交通機関の発達や自家用車、自転車の使用で歩く機会が減っているのだ。社長はそこに着目したという。
「歩くことで筋力や骨密度を維持し、心肺機能の向上や血流増大などの良い影響が期待できます。しかし、現代人の1日平均歩数は年々減少し、特に女性は男性に比べて少ないと言われています。ということは弊社の会員様にもその傾向があるということですので、一緒に歩くことを考えたのです」
『健康のために歩きましょう』と会員誌に書くことはどの会社でもやっているが社長自らがお客様と一緒に歩く会社というのは一度も聞いたことがない。思わず感心してしまったが、社長の話は更に続いた。
「『美顔・健やかウォーキング』と名づけて会員誌で告知しました。全国を10ブロックに分けて、日程を決め、一緒に歩いていただける会員様を募集したのです。すると、凄まじい反応が返ってきました。驚くほどの応募があったのです」
 当時のことを思い出したのか、社長は嬉しそうに笑って、「ウォーキング当日は参加者の数だけ歩数計を用意しました。無料で差し上げたのです。皆さんとても喜んでいただいたのを覚えています。そこで参加者の皆様にこう申し上げました。『美しい顔は健やかな顔。健やかな顔は健やかな体から。皆さん、今日から毎日8千歩を目標に歩きましょう』と。大きな拍手が巻き起こりました。嬉しかったですね」と目を細めて更に話を続けた。
「緑広がる小道を会員の皆様と共に歩きました、色々な事を話しながら。ご自身のこと、ご家族のこと、仕事のこと、趣味のこと、本当に色々なことを色々な方と話しながら楽しく歩いたのです。するとあっという間に2時間が過ぎました。歩数計を見たら目標の8千歩を超えていたので、『8千歩超えました!』と大きな声で言うと一斉に拍手が沸き起こって、ハイタッチが始まりました。私も多くの方とハイタッチしました。興奮しました。そして感動しました。今でもその当時のことが目に浮かびます」
 わたしは身を乗り出して聞き入っていた。その次を早く聞きたかった。しかし、それを制するように結城がわたしの袖を引っ張って腕時計を見るように促した。22時を5分過ぎていた。思わず「あっ」という声を上げてしまったが、直ぐに長居したことを詫びて小走りに玄関へ行き、結城と2人で深々と頭を下げてお礼を言った。すると、「またお越しください」と奥様が優しい笑みを投げかけてくれた。横で頷いた社長は「続きは明日会社でお話ししますね」と優しい言葉をかけてくれた。