寒気がして目が覚めた。寝袋に入らずに畳に直に寝ていたから当然だ。窓の外は明るくなっていた。
 突然、お腹が鳴った。間髪容れずもう一度鳴った。起きなければ、と思ったが、起き上がることはできなかった。自分の体が畳の一部になったような感じで動かせないのだ。背中の皮膚と畳が同化し始めているのかもしれないなどとどうでもいいことが頭に浮かんだが、どこからか漂ってきたいい匂いで現実に引き戻された。
 味噌汁かな? と思う間もなく胃が反応した。さっきより大きな音を立ててお腹が鳴った。その瞬間、生きている自分を感じた。すると少し力が入るようになったので仰向けだった体を少しずつ横向きにして足を胸の方に近づけて体を丸くした。畳に手をつき、膝を立ててゆっくりと体を起こすと、赤ちゃんがハイハイをするポーズになった。すると、それが気になった。
 このポーズをなんと言うんだっけ? 
 しかし何も浮かんでこなかった。大脳皮質に期待するのは無理なようだったので、諦めて台所に向かって少しずつハイハイをした。
 ガスコンロの下に辿り着くと、扉の取っ手を掴んでゆっくりと体を起こした。その時、不意に記憶が蘇ってきた。四つん這い(・・・・・)だ。そうだ間違いない、四つん這いだ。そんなことも思い出せなかったなんて……、思わず笑ってしまった。その瞬間、またお腹が鳴った。
 
 近所のコンビニでミネストローネを買った。298円だった。レンジで温めてもらって店内の小さなテーブルで食べると、スープが胃にしみた。野菜が柔らかく、口の中で溶けた。おいしかった。本当においしかった。でも情けなかった。自分のことが本当に情けなかった。
 何やってるんだろ……、
 また落ち込んだ。具が無くなったスープを飲み干すと、涙の味がした。
 コンビニを出てハローワークに行って初めてだと告げると、求職申込み手続きが必要と言われた。パソコンに向かって入力を始めたが、希望する仕事や収入を入力する欄で手が止まった。希望する仕事も自分ができる仕事も思い浮かばないのだ。キーボードに手を置いたまま時間だけが過ぎていった。
「どうしました? 何かお手伝いしましょうか?」
 白髪交じりの男性が声をかけてきた。自分の父親ほどの年齢だろうか? 目じりに皺を寄せて優しく笑っていた。自分ができる仕事が思い浮かばないことを話すと、彼は相談窓口へ連れて行ってくれた。
「お困りの方がいらっしゃいますので相談に乗ってあげてください」
 女性相談員は頷いたあと、わたしが入力した情報を検索した。
「仕事をされたことはないのですね?」
 頷きを返した。小説家だったことは職歴欄に入力しなかった。
「それから、運転免許とかなんらかの資格も持っていらっしゃらないということで間違いないですか?」
 その通りなので頷くと、「そうですか……」と相談員の眉間に皺が寄ったように見えた。しかしすぐに表情が柔らかくなって、視線をこちらに向けた。
「得意なこと、自信のあることを教えてください」
 それはとても簡単な質問のようだったが、その答えは咄嗟(とっさ)に思いつかなかった。小さな声で「特に自信のあることは……ありません」と返すしかなかった。すると相談員は困惑したような表情になったが、すぐにまた柔らかな表情に戻って「誰にでも何か得意なことがあると思いますよ。得意なことではなくても、好きな事でもいいんです。体を動かすことが好きとか、考えることが好きとか、絵を描くことが好きとか、字を書くことが好きとか、何かありませんか?」と小学生にも理解できるように言ってくれたので、「字を書くことなら……、文章を書くことは好きです」と答えると、「良かった」と言って彼女はパソコンに向き合った。
 しばらく検索したあと、わたしに向き直って、「ライターの仕事はどうですか?」と訊いてきた。思わず「ライター、ですか?」とオウム返しをすると、「そうです。ある出版社がライターの募集をしています。詳細をプリントアウトしますからあちらで読んでみてください」と無人のテーブルを指差した。
 プリントアウトを受け取って椅子に座った。大阪にある小さな出版社がライターを1名募集していると記されていた。仕事の内容は会社案内のパンフレットを作成するための取材と執筆、構成・編集だった。契約社員としての採用で、契約期間は1年間、次年度延長あり、と書かれていた。月給は19万8千円。週給2日制で、夏休みと年末年始休暇が各3日あった。
 もう一度読み返して、できそうかどうか判断して窓口へ戻り、「興味があります。できるかも知れません」と告げると、相談員が嬉しそうに頷いた。そして、「固定給でライター募集があるのはとても珍しいのですよ。ほとんどは原稿1本書いて何千円、半日拘束の取材で何千円、という募集です」と言って相談員は真っすぐわたしを見つめながら、「話を進めますね」と微笑んだ。