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 ここはどこだ……、
 目の前には漆黒(しっこく)の闇しかなかった。
 恐る恐る手を伸ばした。しかし、空気以外に触れるものはなかった。
 耳を澄ませた。しかし、何も聞こえなかった。視覚、触覚、聴覚はなんの役にも立たなかった。すぐに鼻に神経を集中させたが、嗅覚が捕まえるものは何もなかった。味覚は……役に立つはずがなかった。
 五感の機能は奪われたも同然になっていた。それでも両手を前に伸ばして一歩踏み出した。しかし、ぐらついて倒れそうになった。なんとか踏み止まったが、怖くなって立ち止まった。
 どうなっているんだ……、
 訳がわからなかったが、なんとか心を落ち着かせてもう一度全神経を研ぎ澄ませた。しかし今度も期待に応えてくれるものは何もなかった。五感はまったく役に立たないのだ。それでも諦めなかった。動物として備わっている感覚点が残っているからだ。それに意識を集中させたが、触点も痛点も温点も冷点も無反応なまま時が過ぎていった。
 ダメだ……、
 諦めかけた時、突然、音が聞こえた。
 なんだ?
 身構えたが、唾を飲み込んだ音だと気づいて力が抜けた。
 あ~、
 思わず声が出たが、それで我に返った。そうか、声を出せばいいんだ。
「お~~い?」
 喉がつぶれるほどの声で叫んだ。しかしそれは反射することもなく瞬く間にどこかへ吸い込まれていった。その途端、凍りつくような感覚に襲われた。別世界なのか異次元なのかはわからないが、普通ではないことは確かだった。
 だとすれば、ここは無常(むじょう)の世界なのだろうか? とすれば、(くう)の世界にいるのだろうか? 現世から消えてしまったのだろうか? とすれば、奈落(ならく)の闇にいるのだろうか? わからない、何もわからない、何も。思考さえも停止してしまった。
 …………………………………
 それが永遠に続くかと思われた時、突然、何かが光った。
 ん?
 一気に五感が騒めいた。
 なんだ?
 咄嗟(とっさ)に身構えて、その動きを追った。すると、光が近づいてきた。どんどん近づいてきて、いきなり目の中に入り込んだ。
「やめてくれ!」
 叫んだ瞬間、目の前の景色が変わった。白い服を着た人が小さく光るものを持っていた。それだけでなく腕に違和感を覚えて目をやると、チューブがつながれていた。
 病院?
 なんで?
 心臓がザワザワし始めた。すると感覚が戻ってきて、視覚が見知らぬ誰かを捉えた。
 この男は誰だ?
 ペンライトを持った白衣姿の男がわたしを見下ろしていた。でも、わたしを見ていたのは彼だけではなかった。ほっとしたような表情の若い女性がいたし、心配そうな表情のガールフレンドもいた。
「明日、検査をします」
 医師と思われる男が正気を取り戻したわたしに告げた。
「検査?」
「そうです。胃の検査です」
 そう言い残して医師と看護師が病室を出ていった。
「ねえ」
 声に顔を向けると、ガールフレンドが見つめていた。
「家族への連絡はどうする?」
 首を横に振った。すると、「わかった」とだけ言って疲れ切ったような顔を出口に向けた。
 部屋から彼女の姿が消えると、静寂が襲ってきた。それに耐えきれなくなって体を起こそうとしたが、起き上がることはできなかった。体が重いだけでなく、心がそれ以上に重かった。
 これからどうなるのだろう?
 不安が滝のように押し寄せてきた。
 破産? まだ20代なのに? それとも破滅? もう人生が終わってしまうのか? なす術もなくこのまま消えていってしまうのか?
 そんなことを考えていると、津波のような恐怖が押し寄せてきた。その途端、胃がキュッと締まって脂汗が出てきた。シーツを口で噛んで痛みに耐えると少し和らいだが、すぐにまたキュッと締まった。今度は耐えられなかった。意識が薄れていく中、漆黒の闇へと続く扉が開いた。
 誘われるように中に入ると、無光(むこう)に包み込まれた。しかし、突然何かが光り、それが近づいてきた。そしてその後ろから更に光が近づき、その後ろにも、またその後ろにも、ずっと、ずっと、光が続いていた。
 怯えながらそれを見ていると、先頭の光が急に止まった。息を呑んだ。すると、いきなり声が発せられた。
「金返せ!」
 その途端、後ろに続く光が次々に声を発した。
「金返せ! 金返せ! 金返せ! 金返せ!」
 わたしは耳をふさいだ。そして逃げた。暗闇の中を全力で逃げた。しかし、どれだけ逃げても無数の光は追いかけてきた。
「金返せ! 金返せ! 金返せ! 金返せ! 金返せ! 金返せ! 金返せ! 金返せ!」
 いきなり壁らしきものにぶつかった。行き止まりのようで、もう逃げる場所はなかった。観念して振り返ると、無数の光に取り囲まれていた。そして、にじり寄ってきたと思ったら一斉に飛びかかってきた。
「ワ~!」
 大声で叫び続けるわたしの肩を2つの手が掴んだ。
「ワ~~!」
 恐怖が全身を貫いた。しかし、その手は更に強く肩を掴んで体を前後に揺さぶり始めた。
 もうダメだ、
 観念するしかなかった。されるがまま身を任せると、「どうしました?」という声が聞こえた。その瞬間、目の前が明るくなり、ぼんやりと人の顔が見えた。あの看護師だった。病室を巡回中に叫び声を聞いて駆けつけたのだという。それで状況が理解できて恐怖は消えたが、荒い呼吸のわたしは声を発することができなかった。
「大丈夫ですか? すぐに先生を呼びますね」
 彼女は慌てた様子で病室を飛び出した。

 鎮静剤を投与されて深い眠りについていたわたしが目覚めたのは翌朝だった。嬉しいことに胃の痛みは消えていた。
 午後、胃の検査を受けた。検査結果は異状なしだった。
「明日には退院できると思います」
 医師の言葉に頷きながらも、心はどこかに飛んでいた。
          
 医師と看護師がいなくなった病室で寝たままボーっとしていた。夜になってもそれは続いた。
 これからどうすればいいんだろう……、
 考えても何も思い浮かばなかった。
 もう終わってしまったのかもしれない、
 人生の終焉(しゅうえん)を迎えているような気がした。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう、
 原因はわかっていたが、問わずにはいられなかった。
 素直に家を継いでいれば……、
 後悔が逆流する胃液のようになって心を痛めつけた。
 もう一度やり直したい、
 短い人生を振り返ってため息をついた。