遊園地はこの世の終わりのように晴れ渡っていた。あれから実際はたった5ヶ月しか過ぎていない。
久しぶりに訪れた遊園地に人影はなく、いつもなら長蛇のアトラクションにも列は全くない。そもそも動いているアトラクション自体がない。無傷なものはあるのかもしれないが、そもそも動いていないのだ。
「慎弘」
「梢?」
名前を呼ばれた気がして慌てて振り返ったけれど、ひゅるりと小さな風が吹くだけで誰の姿もなかった。
最後に梢と話、というより罵りあいをしたのはこの遊園地だ。
夏の終わりのあの日は猛暑だった。水分補給にも事欠きながら、苛つきをなんとか折り畳んでジェットコースターの長蛇の列に並んだ。唸るように蝉の鳴き声がして、強い日差しに照りつけられて目眩がした。
僕と梢は同じ大学の学生で、テニサーの新歓で出会って付き合い始めた。明るいショートボブと同じく明るくよく笑う子。
最初の夏休みにこの遊園地に来た。
きっかけは同じサークルの誰かが行ったと自慢したんだ。それで梢が行きたいと言い出した。けれども僕は難色を示した。
僕と梢は夏休みの終わりに沖縄旅行を計画していた。そのための資金稼ぎにバイトを掛け持ちしていた。僕は生活費を自前で賄ってるからハイシーズンの旅行は清水の舞台を飛び降りる感じ。後期にはまた高い教科書を買わないといけない。
遊園地に行くと沖縄旅行の資金が足りない。それなりにいいリゾートホテルに航空券付きのパック旅行を幸運にも取れたのに。
「振込期限は来週だよ⁉︎ 金が足りない。遊園地はせめて9月の連休にしよう」
「やだ。絶対やだ。花火を見たいの! 約束したじゃない!」
確かに付き合い初めの春、夏に花火を見ようって約束はしたさ。でも今じゃなくても、ここじゃなくてもいいじゃないか。
「遊園地の花火なんて来月もやってる」
「夏の花火は特別なんだって。沖縄なんて来月行けばいいじゃん。その方が安いし両方いけるし!」
「沖縄こそ夏にいくべきだろ! 泳ぎたいって言ったのは梢じゃん!」
「だって! 今見ないと二度と隣で見れない気がするの!」
僕はわざとらしく大きなため息をついた。梢が不機嫌になって、ますます意固地になるのはわかっていたのに。普段はさっぱりしているけどたまにどうしようもなく譲らない。そんな時は絶対に折れない。けれども何も今じゃなくても!
結局、遊園地に行く金すら足りないのも情けない話で、いい負けて旅行はやけっぱちにキャンセルし、2割のキャンセル料を払う羽目になった。だから僕はその遊園地が最初から不満だった。それなのに行ったのはキャンセルまでして意地になっていたからだ。まさに負のスパイラル。
そうして来た遊園地は馬鹿みたいに混んでいて最初からうんざりしていた。梢がはしゃいでいた分、余計に。当然ながらこのアトラクションが来月消えてなくなるとは思えなかったし、花火だってそれほど特別とも思えなかった。第一、9月になれば格段に空くだろうしこんなに暑くもない。
何故僕はここにいる。沖縄旅行のほうがよほどいい。そんな不満が汗と共に漏れ出て、真昼を過ぎて日が傾くにつれてだんだん言葉数も少なくなって、夕方になる頃には雰囲気は最悪だった。
「その……ごめんなさい」
梢から出た、よく考えたら初めての謝罪は、どうしようもなく僕を苛立たせた。
「謝るなら最初から来るべきじゃなかった」
「でも一緒に花火を見たかったんだ」
「花火なんていくらでも見れるだろ? 港で花火大会だってやる」
「でも今、ここの花火を見ないと駄目な気がしたんだ」
「そう。でももう喋らないで」
コップの淵から溢れそうなイライラは最高潮に達していた。
謝るならもっと前に、せめて沖縄旅行をキャンセルする時に謝ってほしかった。御免なさい、どうしても行きたいんだって。それならもう少しマシな気分で諦められたかもしれないのに。
そして僕らは結局花火まで保たず、一緒にいられるかと梢を置いて一足先に遊園地を出て車に乗り込む。沖縄旅行に行く代わりに園内のホテルを取っていた。梢は一人で泊まるだろう。
そう思って振り向くと空に大輪が咲いていた。腹立たしくも美しい。多分もう、僕らは駄目だろう。
そんな予感を残す艶やかな光。
そしてその予感は当たった。僕の想像とは全く違う形で。
やけ酒を飲んで目覚めた翌午前中。ぽっかり空いた一日をどう過ごそうとテレビのリモコンを押しても繋がらず、頭を捻っていたら唐突に不穏なサイレンが響いた。防災放送という奴だろう。急いで最寄りの小学校の校庭に集まれと言う。
災害でも起こったのか、と向かうと大勢の住人がぎゅうぎゅうと犇めいていた。しばらくすると3人のスーツの人間が異様な緊張とともに朝礼台に上がる。
告げられた内容はちっとも頭に入らなかった。
昨夜未明、戦争が始まった。港湾地区から敵軍が揚陸し、港をを中心にこの市を南北に貫く大きな街道沿までを占拠した。前線であるこの町には敵方から強固なジャミングが施され、テレビもラジオも、スマホも正常に作動しない、そうまら。
「今後、この街の一部は敵国に対する防衛拠点となります。そのため、住民全員は遅くとも明日午前9までに避難して頂きます」
その声に怒号が巻き起こる。
「無茶な。意味がわからん」
「そうだ。うちには足腰がたたん婆さんがいるんだぞ」
「避難先での当面の生活保証は致します。今後各戸順番にお伺い致しますが、移動が困難なご事情がある方はこちらで移動のお手伝いを致しますのでお申し出下さい」
「そんな勝手な言い分が通るか!」
「現在は戦時下です。いつ敵軍が攻め寄せるかもしれません。残られても自衛隊は個別にお守りできません。速やかに避難下さい。安全じゃないんです、戦争ですから」
戦争。そのよく耳にするけど身に覚えのない言葉に沈黙が降り積もる。
唐突に降ってきたその言葉は、雷鳴のように遠くに聞こえ、轟きのように怪訝なざわめきが響く。
戦争なんてものはテレビの向こうで起こるものと思っていた。今それがこの町のすぐ近くで起こっている? けれども重火器の音も爆撃の音もついぞ聞いていない。
朝礼台の人間の必死さに、ますます演劇でも見ているような気分に陥る。東西を結ぶ交通機関が断裂している旨、移動が困難な者はこれから3日の間、この小学校のグラウンドから自衛隊が移送する旨、この町で国が接収部分には追って補償が出る旨の連絡があり、解散となった。
配られた地図ではこの市の中心を南北に貫く大きな街道沿いに一本の太い線がひかれたもの。ここに敵軍によってバリケードが張られ、東の海側には通行できない。
そして遊園地と梢の家はその線の向こうにあった。
梢に電話しようと慌ててスマホを出したが、電波が繋がらないことを思い出す。異常。いつもと同じと思っていたのに、それは確かに存在した。スマホもネットが繋がらない。普段と違い酷い非日常。俺の足取りはふらふらとその異常をもたらした者のいる街道に向かった。それも歩いて20分ほどの距離なのだ。
確かに六車線の道路沿いにバリケードが張られている。それでもなんだか、映画のワンシーンに見えた。先程まで公民館にいたであろう人間が大勢、俺と同じように遠巻きにしていた。
そのうち高校生程の若者がバリケードに近づこうとして、タンという乾いた音が響いた。
やはり非現実的な音。高校生は一瞬驚き、当たりを見回したが、さらに1歩近づいてまたタンという音が響き、その次の音で高校生は倒れて動かなくなった。
そこから3秒程沈黙が走り、悲鳴がそこかしこから上がり、蜘蛛の子を散らすように人影はなくなった。
フェンスに沿って等間隔に3階建てくらいの高さの哨戒塔が立っていて、その上に人が動いている。あそこから撃ったのかもしれない。そんな風に考えることこそ、やはり非現実的な気がした。
あの向こうにおそらく梢がいる。
けれどもスマホも何も通じない。だからわからない。
だから一旦家に戻り、ジャミングの効果範囲外を探しにバリケードと反対の西側に車を走らせた。けれどもその道は山越えで、山の遥か手前から恐ろしく渋滞していた。車を停めたコンビニでこの先検閲があり、一度外に出れば再度入れないと聞いた。だから出るのは諦めた。
そしてこの渋滞という変化とスマホの異常が頭の中で繋がり、本当に戦争が起こっているのかもしれないと思った。
そして初めて酷く後悔した。苛立ちにまかせて昨日帰ってしまったことを。ただ苛立っていただけで、梢が嫌いだったわけじゃない。たまたま昨日は苛立ちが上回っただけで、それでも昨日じゃなければ置いて帰ったりしなかった。
泡のように浮かぶ言い訳を嘲笑うように手のひらの上で風が走る。それで最後に握った手を離した時を思い出した。もう二度と手を繋ぐこともできないのだろうか。
そして戦争という全く想定外の事象によって、全てが変わってしまった事に気がついたのはしばらく後。全員避難ということは、明日から大学はやってないだろう。授業もテニサーもない。バイト先もやってないだろう。避難指示の出る地域のカラオケ店なんて営業するはずもない。
頭の中に分厚く堆積する不安や混乱は、情報源など何もないから解消されることは全く無く、気がついたら夜だった。それでも腹が減る。だから簡単に親子丼を作って、その後、重い足は自然と、街道に向かっていた。
そこに広がるのは奇妙な光景だった。
街道沿いにはところどころ店舗や住宅がある。けれども避難したのか、人の息づく明かりというものは存在しなかった。等間隔で街道沿いに置かれた街路灯だけが点々と変わらず灯っている。そして昼間見た哨戒塔の上に灯りはなかったが、人がいる気配がした。そして背後からふいに声がかかった。
「近づかないほうがいいよ。あんたも様子見に来たの?」
「……それは撃たれるから、でしょうか」
「なんだ、あんたも見たのかい?」
尾黒と名乗るその男は僕より少しだけ年上に見えた。街道に一定の距離を近づけば、1,2回警告の狙撃があり、3回目には撃ち殺されるらしい。
「試した人がいるんですか」
「ああ。何人かな。夜になったら視界が効かないからさ。それで一応、そんな奴がいそうなら声をかけてるわけ」
尾黒はサバゲーが好きで暗視装置を持っているそうだ。それで敵軍とやらも暗視装置くらいは持っているのだろう、正確に3発目で即死させている、そうだ。
サバゲー、死ぬ。借りた暗視装置を覗けば哨戒塔上に銃と思しきものを構えた人間がいた。
「あんた、あっち側に行きたいの?」
「行けるんですか?」
「どうだかな。今のところ昼夜問わず、街道に近づけば撃たれてる。車で街道沿いに調べてみたが、北はこの街道が神津の線路と交わるところまで続いていて、越えた所からバリケードが東に向かい、再青川に当たる所で川沿いに南下している。南は街道沿いに進んで中華街の南側のトンネル手前から海までがフェンスに覆われてた」
そうすると、占領されたといってもそこまで広い範囲じゃない。この神津市の東半分程度の広さだ。その規模に胸をなでおろす。戦争と言ってもきっとすぐに終わるんじゃないか。
尾黒も昨夜、東側から大きな雷のような音を何度も聞いたそうだが、それ以降はずっと静からしい。
「敵というのは強いのでしょうか」
「わかんないな。何せこの神津の中にいる限り、情報が全然ない。どこの国が攻めてきたのかも」
そういえばそうだ。説明会ではただ「戦争が起きた」としか聞いていない。そして自分も、敵についてさほど興味を持ってなかったことに気がついた。全てが非現実的だ。
尾黒も街道の東側に行きたいそうだ。自宅が向こう側にあり、妻と子がいる。何としても会いたいが、街道に近づけない以上、成すすべがない。
僕は尾黒と行動を共にすることにした。ある意味似たもの同士だった。スマホが通じないから一度別れたらもう会えない。
尾黒との生活は奇妙だった。一日を過ぎる毎に人口は加速度的に減少する。だから早めに食材を抑えるのだといってスーパーやコンビニから缶詰や保存食、飲み物を確保した。最初は申し訳なく、多少の現金を置いてきたが、いつの間にかこのあたりの電気が切れてATMが動かなくなっていた。抗議するものは誰もいない。だから無断で持ち去る。それにもいつしか慣れてしまった。映画やゲームの中の出来事のようなだ。
同じような人間はいるのだろう。場所によっては既に荒らされた後だった。そのことに何故だか安心した。
数日が経過し、街道沿いに時折死体が増えている他は銃声や砲声が鳴り響くこともなく、戦争の傷跡は見いだせなかった。相変わらず街道に近づけば銃声が鳴るが、一発鳴った時点で撤退すればそれ異常はなにもない。それはあたかもゲームのようだ。
いつしか人がいないことも、夜に星あかりしかないことも慣れていた。電気もガスもなく、水はペットボトルで缶詰を食べる生活。
夜は空を見上げながら梢の事を思い出した。あの日喧嘩別れしなければ、一緒に見上げたはずの空を。尾黒は夜になる度、家族の話をした。僕は心が咎めて、梢については禄に話すことができなかった。
花火を見に行く約束があったからだ。
梢はある意味、正しかった。僕は梢と神津港の打上げ花火を見に行こうと思っていた。けれども東側の神津港は閉鎖され、花火なんて上がらなかった。だから結局、あの遊園地の花火を見る以外、僕と梢にこの夏花火を見る機会なんてなかった。
だからあの遊園地の事を調べた。独自の電源設備を供えているとか、あの花火はどこから上がるのだろうとか、遊園地の規模や設備を図書館で。時間は余るほどあった。
「戦争は本当に起きてるんでしょうか」
「そりゃそうだろ。街道に行けば発砲されるんだから」
「けど、他に何もない。自衛隊も最初の日以外見かけないし、ミサイルみたいなのも飛んでない」
僕たちが認識した戦争の痕跡なんて、毎日の街道の発砲音しかなかった。一日一度、街道に近寄る。一度鳴れば撤退する。それなら田んぼにあるカラス避け以上の意味なんてない。僕らはこの境界の周りを彷徨くカラスだ。
その他には人がいないこと。そして夏に街道沿いで死んだ遺体が骨になっていること。骨になるのには一週間ほどしかからなかったように思う。骨が野ざらしになっているのはおかしな光景だけれど、近づけない以上どうしようもない。そして骨はいつしか街道沿いの奇妙なオブジェになっていた。ゆるやかにこの状態に鳴れていた。
そうしていつしか、戦争を感じないまま5ヶ月がたった。
そうしていつしか、敵軍はいなくなった。何故ならその日、街道に近づいても発砲されなかったから。
街道を越えるには今しかない、と尾黒と目配せをして、一目散に街道まで走る。憂慮していた発砲はなかった。
敷設されていたフェンスを乗り越え、呆然とした。5ヶ月ぶりに見た東側は、僕らがいた西側と全く様相が異なっていた。
そこには戦争の爪痕が深く残されていた。
「おいおいおい、ちょっと待てよ。何だこれは。一体何がどうなっているんだ」
「尾黒さん、僕は彼女の家に行ってみます」
「ああ、俺も家に急ぐ。ここまでだな。長いようで短いような間だったが、お前がいて助かった」
「ええ、僕も尾黒さんがいなければ神津に残るなんてできなかったでしょう」
抜けるような冬晴れの空の下、西側の街の半数の建物は不格好に破壊されていた。爆撃か砲撃でも受けたようだ。
建物解体のような綺麗なものではなく、まさに中途半端に崩れた瓦礫が所々に広がっている。長期間放置されたのか、泥のようなものがこびりついて劣化していた。破壊は随分前かもしれない。僕は砲声や爆撃音なんて聞いていない。心当たりがあるのは戦争が始まる夜、尾黒が聞いたという雷鳴だけだ。つまり、敵軍が上陸した日、破壊をした。
ゴクリと喉がなった。
僕は瓦礫に触れるまで、すぐ隣の、せいぜい1キロ先の場所で起こっている戦争というものにピンときていなかった。昔見たテレビの映像と違い、その瓦礫は触れることができた。足を踏み入れ、強い風が更けば埃が巻きあがる。それが鼻孔に入って思わずえづく。そして、現実感が浸透する。戦争?
通いなれたはずなのに瓦礫で埋まって全く様相の異なる歩道。スニーカーの下から感じる硬いコンクリート片とそこから無精髭のように無様に飛び出した鉄筋、たくさんの木片。
目の前にした唐突な日常の破壊に頭が朦朧とする。
梢の家のある区画の建物損壊は比較的ましだった。
けれどもその分、より悲惨だった。壁には銃弾が穿たれたような小さな穴が無数に空き、服を来た骨が転がっていた。今は季節は冬だ。けれども骨は半袖を来ていた。ということは、やはり5ヶ月前に戦争が始まったのだ。
梢の無事を祈り、五ヶ月も経っていることに愕然とした。既に梢と出会って夏までと同じ期間。僕はその間、何をしていた。ただ、街道の西側をうろついていただけだ。五ヶ月の間ただ様子を見守り、缶詰を食べていた。変わらない生活に時間の経過をほとんど感じなかった。けれども僕らのすぐ隣のここは、五ヶ月の間、ずっと戦争だった。
梢が家族と住む一軒家の玄関扉は破壊され、恐る恐る足を踏み入れると酷く獣臭く、動物の糞がそこかしこに転がっていた。本や服、雑貨は床に飛散し朽ちている。部屋は荒れ、長期間動物が住んでいた気配が漂う。
そして、ここにはおそらく梢はいない。この家の中には骨はなかったから。
全ては既に過ぎ去った。全てが過去になっている。この廃屋には梢が住んでいた痕跡、つまり人の営みという暖かさの欠片がない。途方に暮れた。
梢。梢はどこにいったんだ。思わず頭を抱えた。
梢がいない。戦争で会えなくなるなんて、もっといえば戦争が起こっているなんて本当は思ってなかった。戦争は悪いもので、僕の周りにあるはずがないものだったから。
尾黒は家族に会えただろうか。
僕は梢の家まで人の姿どころか生活感というものを全く見なかった。壊れていない家も埃が積もり、長い時間住んでいない。つまり、戦争が始まった直後に恐らく虐殺がり、強制移動させられたのだろう。虐殺? そんな事があっていいはずがない。
移動とすればどこに。この東側で人が集まれる場所は、再青川近くのショッピングモールか遊園地しかない。
足は自然と遊園地に向いた。深まる破壊の痕跡、瓦礫の山を歩き、漸く辿り着いた夢の国は煙を上げていた。向かって東側の外壁は崩れ落ちていたが、何故か正面ゲートだけが妙に綺麗に残っていた。煙。初めて動きのあるものを見た。慌てて無人のゲートを抜けても人間は誰もいなかった。
けれどもタタタという妙に乾いた音が聞こえた。戦闘音だと思い至る。心臓がびくりと揺れた。
誰かいる。僅かな手がかりを求めて建物の影に身を寄せながら近寄れば、武装した兵士と思しき者が居並ぶ人々に向かって銃を撃ち、正面からドミノのようにバタバタと人が崩れ落ちていく。映画のように。
駄目だ。虐殺なんてあっちゃ駄目だ。
けれどもあの中に梢がいる、かもしれない。飛び出そうとしても恐怖で足が動かなかった。そこで漸く、未だ戦争中だと認識した。自分が安全じゃないことも。認めたくなかった。
梢は言った。
今見ないと二度と見れない気がする。
花火を見そびれたからこうなった? けれども少なくともあの時、俺たちは楽しく花火を見ることはできたはずだ。どうしてこうなったんだろう。そうだ、花火を打ち上げよう。打ち上げて、梢が花火を見上げれば、あの時の言葉を帳消しにできるかもしれない。たとえこの花火が打ち上がって、それで全てが終わってしまうとしても。
頭の中で、図書館で調べた遊園地の地図を開き、制御室へ向かう。敵軍の荷物や設備といった非現実的なものは目に入らなかった。
制御室の電源は生きていた。マニュアルも置いてあった。最初に全館放送をかけると脳天気な音楽が響き渡る。花火の打ち上げシステムを起動した。目の前のたくさんのモニタに、映画のように殺される人々と、遊園地の上空に打ち上げられた昼間の花火の起こした白い煙が見えて、背後から、たくさんの人の足音が聞こえた。
久しぶりに訪れた遊園地に人影はなく、いつもなら長蛇のアトラクションにも列は全くない。そもそも動いているアトラクション自体がない。無傷なものはあるのかもしれないが、そもそも動いていないのだ。
「慎弘」
「梢?」
名前を呼ばれた気がして慌てて振り返ったけれど、ひゅるりと小さな風が吹くだけで誰の姿もなかった。
最後に梢と話、というより罵りあいをしたのはこの遊園地だ。
夏の終わりのあの日は猛暑だった。水分補給にも事欠きながら、苛つきをなんとか折り畳んでジェットコースターの長蛇の列に並んだ。唸るように蝉の鳴き声がして、強い日差しに照りつけられて目眩がした。
僕と梢は同じ大学の学生で、テニサーの新歓で出会って付き合い始めた。明るいショートボブと同じく明るくよく笑う子。
最初の夏休みにこの遊園地に来た。
きっかけは同じサークルの誰かが行ったと自慢したんだ。それで梢が行きたいと言い出した。けれども僕は難色を示した。
僕と梢は夏休みの終わりに沖縄旅行を計画していた。そのための資金稼ぎにバイトを掛け持ちしていた。僕は生活費を自前で賄ってるからハイシーズンの旅行は清水の舞台を飛び降りる感じ。後期にはまた高い教科書を買わないといけない。
遊園地に行くと沖縄旅行の資金が足りない。それなりにいいリゾートホテルに航空券付きのパック旅行を幸運にも取れたのに。
「振込期限は来週だよ⁉︎ 金が足りない。遊園地はせめて9月の連休にしよう」
「やだ。絶対やだ。花火を見たいの! 約束したじゃない!」
確かに付き合い初めの春、夏に花火を見ようって約束はしたさ。でも今じゃなくても、ここじゃなくてもいいじゃないか。
「遊園地の花火なんて来月もやってる」
「夏の花火は特別なんだって。沖縄なんて来月行けばいいじゃん。その方が安いし両方いけるし!」
「沖縄こそ夏にいくべきだろ! 泳ぎたいって言ったのは梢じゃん!」
「だって! 今見ないと二度と隣で見れない気がするの!」
僕はわざとらしく大きなため息をついた。梢が不機嫌になって、ますます意固地になるのはわかっていたのに。普段はさっぱりしているけどたまにどうしようもなく譲らない。そんな時は絶対に折れない。けれども何も今じゃなくても!
結局、遊園地に行く金すら足りないのも情けない話で、いい負けて旅行はやけっぱちにキャンセルし、2割のキャンセル料を払う羽目になった。だから僕はその遊園地が最初から不満だった。それなのに行ったのはキャンセルまでして意地になっていたからだ。まさに負のスパイラル。
そうして来た遊園地は馬鹿みたいに混んでいて最初からうんざりしていた。梢がはしゃいでいた分、余計に。当然ながらこのアトラクションが来月消えてなくなるとは思えなかったし、花火だってそれほど特別とも思えなかった。第一、9月になれば格段に空くだろうしこんなに暑くもない。
何故僕はここにいる。沖縄旅行のほうがよほどいい。そんな不満が汗と共に漏れ出て、真昼を過ぎて日が傾くにつれてだんだん言葉数も少なくなって、夕方になる頃には雰囲気は最悪だった。
「その……ごめんなさい」
梢から出た、よく考えたら初めての謝罪は、どうしようもなく僕を苛立たせた。
「謝るなら最初から来るべきじゃなかった」
「でも一緒に花火を見たかったんだ」
「花火なんていくらでも見れるだろ? 港で花火大会だってやる」
「でも今、ここの花火を見ないと駄目な気がしたんだ」
「そう。でももう喋らないで」
コップの淵から溢れそうなイライラは最高潮に達していた。
謝るならもっと前に、せめて沖縄旅行をキャンセルする時に謝ってほしかった。御免なさい、どうしても行きたいんだって。それならもう少しマシな気分で諦められたかもしれないのに。
そして僕らは結局花火まで保たず、一緒にいられるかと梢を置いて一足先に遊園地を出て車に乗り込む。沖縄旅行に行く代わりに園内のホテルを取っていた。梢は一人で泊まるだろう。
そう思って振り向くと空に大輪が咲いていた。腹立たしくも美しい。多分もう、僕らは駄目だろう。
そんな予感を残す艶やかな光。
そしてその予感は当たった。僕の想像とは全く違う形で。
やけ酒を飲んで目覚めた翌午前中。ぽっかり空いた一日をどう過ごそうとテレビのリモコンを押しても繋がらず、頭を捻っていたら唐突に不穏なサイレンが響いた。防災放送という奴だろう。急いで最寄りの小学校の校庭に集まれと言う。
災害でも起こったのか、と向かうと大勢の住人がぎゅうぎゅうと犇めいていた。しばらくすると3人のスーツの人間が異様な緊張とともに朝礼台に上がる。
告げられた内容はちっとも頭に入らなかった。
昨夜未明、戦争が始まった。港湾地区から敵軍が揚陸し、港をを中心にこの市を南北に貫く大きな街道沿までを占拠した。前線であるこの町には敵方から強固なジャミングが施され、テレビもラジオも、スマホも正常に作動しない、そうまら。
「今後、この街の一部は敵国に対する防衛拠点となります。そのため、住民全員は遅くとも明日午前9までに避難して頂きます」
その声に怒号が巻き起こる。
「無茶な。意味がわからん」
「そうだ。うちには足腰がたたん婆さんがいるんだぞ」
「避難先での当面の生活保証は致します。今後各戸順番にお伺い致しますが、移動が困難なご事情がある方はこちらで移動のお手伝いを致しますのでお申し出下さい」
「そんな勝手な言い分が通るか!」
「現在は戦時下です。いつ敵軍が攻め寄せるかもしれません。残られても自衛隊は個別にお守りできません。速やかに避難下さい。安全じゃないんです、戦争ですから」
戦争。そのよく耳にするけど身に覚えのない言葉に沈黙が降り積もる。
唐突に降ってきたその言葉は、雷鳴のように遠くに聞こえ、轟きのように怪訝なざわめきが響く。
戦争なんてものはテレビの向こうで起こるものと思っていた。今それがこの町のすぐ近くで起こっている? けれども重火器の音も爆撃の音もついぞ聞いていない。
朝礼台の人間の必死さに、ますます演劇でも見ているような気分に陥る。東西を結ぶ交通機関が断裂している旨、移動が困難な者はこれから3日の間、この小学校のグラウンドから自衛隊が移送する旨、この町で国が接収部分には追って補償が出る旨の連絡があり、解散となった。
配られた地図ではこの市の中心を南北に貫く大きな街道沿いに一本の太い線がひかれたもの。ここに敵軍によってバリケードが張られ、東の海側には通行できない。
そして遊園地と梢の家はその線の向こうにあった。
梢に電話しようと慌ててスマホを出したが、電波が繋がらないことを思い出す。異常。いつもと同じと思っていたのに、それは確かに存在した。スマホもネットが繋がらない。普段と違い酷い非日常。俺の足取りはふらふらとその異常をもたらした者のいる街道に向かった。それも歩いて20分ほどの距離なのだ。
確かに六車線の道路沿いにバリケードが張られている。それでもなんだか、映画のワンシーンに見えた。先程まで公民館にいたであろう人間が大勢、俺と同じように遠巻きにしていた。
そのうち高校生程の若者がバリケードに近づこうとして、タンという乾いた音が響いた。
やはり非現実的な音。高校生は一瞬驚き、当たりを見回したが、さらに1歩近づいてまたタンという音が響き、その次の音で高校生は倒れて動かなくなった。
そこから3秒程沈黙が走り、悲鳴がそこかしこから上がり、蜘蛛の子を散らすように人影はなくなった。
フェンスに沿って等間隔に3階建てくらいの高さの哨戒塔が立っていて、その上に人が動いている。あそこから撃ったのかもしれない。そんな風に考えることこそ、やはり非現実的な気がした。
あの向こうにおそらく梢がいる。
けれどもスマホも何も通じない。だからわからない。
だから一旦家に戻り、ジャミングの効果範囲外を探しにバリケードと反対の西側に車を走らせた。けれどもその道は山越えで、山の遥か手前から恐ろしく渋滞していた。車を停めたコンビニでこの先検閲があり、一度外に出れば再度入れないと聞いた。だから出るのは諦めた。
そしてこの渋滞という変化とスマホの異常が頭の中で繋がり、本当に戦争が起こっているのかもしれないと思った。
そして初めて酷く後悔した。苛立ちにまかせて昨日帰ってしまったことを。ただ苛立っていただけで、梢が嫌いだったわけじゃない。たまたま昨日は苛立ちが上回っただけで、それでも昨日じゃなければ置いて帰ったりしなかった。
泡のように浮かぶ言い訳を嘲笑うように手のひらの上で風が走る。それで最後に握った手を離した時を思い出した。もう二度と手を繋ぐこともできないのだろうか。
そして戦争という全く想定外の事象によって、全てが変わってしまった事に気がついたのはしばらく後。全員避難ということは、明日から大学はやってないだろう。授業もテニサーもない。バイト先もやってないだろう。避難指示の出る地域のカラオケ店なんて営業するはずもない。
頭の中に分厚く堆積する不安や混乱は、情報源など何もないから解消されることは全く無く、気がついたら夜だった。それでも腹が減る。だから簡単に親子丼を作って、その後、重い足は自然と、街道に向かっていた。
そこに広がるのは奇妙な光景だった。
街道沿いにはところどころ店舗や住宅がある。けれども避難したのか、人の息づく明かりというものは存在しなかった。等間隔で街道沿いに置かれた街路灯だけが点々と変わらず灯っている。そして昼間見た哨戒塔の上に灯りはなかったが、人がいる気配がした。そして背後からふいに声がかかった。
「近づかないほうがいいよ。あんたも様子見に来たの?」
「……それは撃たれるから、でしょうか」
「なんだ、あんたも見たのかい?」
尾黒と名乗るその男は僕より少しだけ年上に見えた。街道に一定の距離を近づけば、1,2回警告の狙撃があり、3回目には撃ち殺されるらしい。
「試した人がいるんですか」
「ああ。何人かな。夜になったら視界が効かないからさ。それで一応、そんな奴がいそうなら声をかけてるわけ」
尾黒はサバゲーが好きで暗視装置を持っているそうだ。それで敵軍とやらも暗視装置くらいは持っているのだろう、正確に3発目で即死させている、そうだ。
サバゲー、死ぬ。借りた暗視装置を覗けば哨戒塔上に銃と思しきものを構えた人間がいた。
「あんた、あっち側に行きたいの?」
「行けるんですか?」
「どうだかな。今のところ昼夜問わず、街道に近づけば撃たれてる。車で街道沿いに調べてみたが、北はこの街道が神津の線路と交わるところまで続いていて、越えた所からバリケードが東に向かい、再青川に当たる所で川沿いに南下している。南は街道沿いに進んで中華街の南側のトンネル手前から海までがフェンスに覆われてた」
そうすると、占領されたといってもそこまで広い範囲じゃない。この神津市の東半分程度の広さだ。その規模に胸をなでおろす。戦争と言ってもきっとすぐに終わるんじゃないか。
尾黒も昨夜、東側から大きな雷のような音を何度も聞いたそうだが、それ以降はずっと静からしい。
「敵というのは強いのでしょうか」
「わかんないな。何せこの神津の中にいる限り、情報が全然ない。どこの国が攻めてきたのかも」
そういえばそうだ。説明会ではただ「戦争が起きた」としか聞いていない。そして自分も、敵についてさほど興味を持ってなかったことに気がついた。全てが非現実的だ。
尾黒も街道の東側に行きたいそうだ。自宅が向こう側にあり、妻と子がいる。何としても会いたいが、街道に近づけない以上、成すすべがない。
僕は尾黒と行動を共にすることにした。ある意味似たもの同士だった。スマホが通じないから一度別れたらもう会えない。
尾黒との生活は奇妙だった。一日を過ぎる毎に人口は加速度的に減少する。だから早めに食材を抑えるのだといってスーパーやコンビニから缶詰や保存食、飲み物を確保した。最初は申し訳なく、多少の現金を置いてきたが、いつの間にかこのあたりの電気が切れてATMが動かなくなっていた。抗議するものは誰もいない。だから無断で持ち去る。それにもいつしか慣れてしまった。映画やゲームの中の出来事のようなだ。
同じような人間はいるのだろう。場所によっては既に荒らされた後だった。そのことに何故だか安心した。
数日が経過し、街道沿いに時折死体が増えている他は銃声や砲声が鳴り響くこともなく、戦争の傷跡は見いだせなかった。相変わらず街道に近づけば銃声が鳴るが、一発鳴った時点で撤退すればそれ異常はなにもない。それはあたかもゲームのようだ。
いつしか人がいないことも、夜に星あかりしかないことも慣れていた。電気もガスもなく、水はペットボトルで缶詰を食べる生活。
夜は空を見上げながら梢の事を思い出した。あの日喧嘩別れしなければ、一緒に見上げたはずの空を。尾黒は夜になる度、家族の話をした。僕は心が咎めて、梢については禄に話すことができなかった。
花火を見に行く約束があったからだ。
梢はある意味、正しかった。僕は梢と神津港の打上げ花火を見に行こうと思っていた。けれども東側の神津港は閉鎖され、花火なんて上がらなかった。だから結局、あの遊園地の花火を見る以外、僕と梢にこの夏花火を見る機会なんてなかった。
だからあの遊園地の事を調べた。独自の電源設備を供えているとか、あの花火はどこから上がるのだろうとか、遊園地の規模や設備を図書館で。時間は余るほどあった。
「戦争は本当に起きてるんでしょうか」
「そりゃそうだろ。街道に行けば発砲されるんだから」
「けど、他に何もない。自衛隊も最初の日以外見かけないし、ミサイルみたいなのも飛んでない」
僕たちが認識した戦争の痕跡なんて、毎日の街道の発砲音しかなかった。一日一度、街道に近寄る。一度鳴れば撤退する。それなら田んぼにあるカラス避け以上の意味なんてない。僕らはこの境界の周りを彷徨くカラスだ。
その他には人がいないこと。そして夏に街道沿いで死んだ遺体が骨になっていること。骨になるのには一週間ほどしかからなかったように思う。骨が野ざらしになっているのはおかしな光景だけれど、近づけない以上どうしようもない。そして骨はいつしか街道沿いの奇妙なオブジェになっていた。ゆるやかにこの状態に鳴れていた。
そうしていつしか、戦争を感じないまま5ヶ月がたった。
そうしていつしか、敵軍はいなくなった。何故ならその日、街道に近づいても発砲されなかったから。
街道を越えるには今しかない、と尾黒と目配せをして、一目散に街道まで走る。憂慮していた発砲はなかった。
敷設されていたフェンスを乗り越え、呆然とした。5ヶ月ぶりに見た東側は、僕らがいた西側と全く様相が異なっていた。
そこには戦争の爪痕が深く残されていた。
「おいおいおい、ちょっと待てよ。何だこれは。一体何がどうなっているんだ」
「尾黒さん、僕は彼女の家に行ってみます」
「ああ、俺も家に急ぐ。ここまでだな。長いようで短いような間だったが、お前がいて助かった」
「ええ、僕も尾黒さんがいなければ神津に残るなんてできなかったでしょう」
抜けるような冬晴れの空の下、西側の街の半数の建物は不格好に破壊されていた。爆撃か砲撃でも受けたようだ。
建物解体のような綺麗なものではなく、まさに中途半端に崩れた瓦礫が所々に広がっている。長期間放置されたのか、泥のようなものがこびりついて劣化していた。破壊は随分前かもしれない。僕は砲声や爆撃音なんて聞いていない。心当たりがあるのは戦争が始まる夜、尾黒が聞いたという雷鳴だけだ。つまり、敵軍が上陸した日、破壊をした。
ゴクリと喉がなった。
僕は瓦礫に触れるまで、すぐ隣の、せいぜい1キロ先の場所で起こっている戦争というものにピンときていなかった。昔見たテレビの映像と違い、その瓦礫は触れることができた。足を踏み入れ、強い風が更けば埃が巻きあがる。それが鼻孔に入って思わずえづく。そして、現実感が浸透する。戦争?
通いなれたはずなのに瓦礫で埋まって全く様相の異なる歩道。スニーカーの下から感じる硬いコンクリート片とそこから無精髭のように無様に飛び出した鉄筋、たくさんの木片。
目の前にした唐突な日常の破壊に頭が朦朧とする。
梢の家のある区画の建物損壊は比較的ましだった。
けれどもその分、より悲惨だった。壁には銃弾が穿たれたような小さな穴が無数に空き、服を来た骨が転がっていた。今は季節は冬だ。けれども骨は半袖を来ていた。ということは、やはり5ヶ月前に戦争が始まったのだ。
梢の無事を祈り、五ヶ月も経っていることに愕然とした。既に梢と出会って夏までと同じ期間。僕はその間、何をしていた。ただ、街道の西側をうろついていただけだ。五ヶ月の間ただ様子を見守り、缶詰を食べていた。変わらない生活に時間の経過をほとんど感じなかった。けれども僕らのすぐ隣のここは、五ヶ月の間、ずっと戦争だった。
梢が家族と住む一軒家の玄関扉は破壊され、恐る恐る足を踏み入れると酷く獣臭く、動物の糞がそこかしこに転がっていた。本や服、雑貨は床に飛散し朽ちている。部屋は荒れ、長期間動物が住んでいた気配が漂う。
そして、ここにはおそらく梢はいない。この家の中には骨はなかったから。
全ては既に過ぎ去った。全てが過去になっている。この廃屋には梢が住んでいた痕跡、つまり人の営みという暖かさの欠片がない。途方に暮れた。
梢。梢はどこにいったんだ。思わず頭を抱えた。
梢がいない。戦争で会えなくなるなんて、もっといえば戦争が起こっているなんて本当は思ってなかった。戦争は悪いもので、僕の周りにあるはずがないものだったから。
尾黒は家族に会えただろうか。
僕は梢の家まで人の姿どころか生活感というものを全く見なかった。壊れていない家も埃が積もり、長い時間住んでいない。つまり、戦争が始まった直後に恐らく虐殺がり、強制移動させられたのだろう。虐殺? そんな事があっていいはずがない。
移動とすればどこに。この東側で人が集まれる場所は、再青川近くのショッピングモールか遊園地しかない。
足は自然と遊園地に向いた。深まる破壊の痕跡、瓦礫の山を歩き、漸く辿り着いた夢の国は煙を上げていた。向かって東側の外壁は崩れ落ちていたが、何故か正面ゲートだけが妙に綺麗に残っていた。煙。初めて動きのあるものを見た。慌てて無人のゲートを抜けても人間は誰もいなかった。
けれどもタタタという妙に乾いた音が聞こえた。戦闘音だと思い至る。心臓がびくりと揺れた。
誰かいる。僅かな手がかりを求めて建物の影に身を寄せながら近寄れば、武装した兵士と思しき者が居並ぶ人々に向かって銃を撃ち、正面からドミノのようにバタバタと人が崩れ落ちていく。映画のように。
駄目だ。虐殺なんてあっちゃ駄目だ。
けれどもあの中に梢がいる、かもしれない。飛び出そうとしても恐怖で足が動かなかった。そこで漸く、未だ戦争中だと認識した。自分が安全じゃないことも。認めたくなかった。
梢は言った。
今見ないと二度と見れない気がする。
花火を見そびれたからこうなった? けれども少なくともあの時、俺たちは楽しく花火を見ることはできたはずだ。どうしてこうなったんだろう。そうだ、花火を打ち上げよう。打ち上げて、梢が花火を見上げれば、あの時の言葉を帳消しにできるかもしれない。たとえこの花火が打ち上がって、それで全てが終わってしまうとしても。
頭の中で、図書館で調べた遊園地の地図を開き、制御室へ向かう。敵軍の荷物や設備といった非現実的なものは目に入らなかった。
制御室の電源は生きていた。マニュアルも置いてあった。最初に全館放送をかけると脳天気な音楽が響き渡る。花火の打ち上げシステムを起動した。目の前のたくさんのモニタに、映画のように殺される人々と、遊園地の上空に打ち上げられた昼間の花火の起こした白い煙が見えて、背後から、たくさんの人の足音が聞こえた。