「あれから急いで夕食の準備を始めてね、お義姉さんが長ネギと玉ねぎと椎茸としめじを切っている間に私が絹さやのヘタと筋を取り除いて、それから糸こんにゃくを出して……」
 さっきまでの慌ただしかったことを妹が説明した。「大変だったわね」と返してダイニングテーブルの上を見ると、カセットコンロがセッティングされてその上に底が平らな鉄鍋が置かれており、その横に具材を盛りつけた大皿があった。4つの椅子の前には卵を入れた小鉢が置かれていた。
「で、ね、やっと終わったと思った時にインターフォンが鳴ったの。ナイスタイミングだったわ」
 その顔に笑みが浮かんだが、すぐに引き締まって今夜の作戦を口にした。
「わかったわ。よろしくお願いします」
 秋村が頭を下げると、「あの人を呼んでくるわね」と奥さんが立ち上がった。

 ドアが開くと奥さんに続いて夏島が入ってきた。
「えっ?」
 足が止まり、目は見開いていた。妹の横に秋村が座っていたからだろう。夏島は〈どういうことだ〉というように奥さんに厳しい目を向け、すぐに引き返そうとした。
「ちょっと待って。秋村さんが松坂牛の差し入れを持ってこられたのよ」
 その声で夏島の足が止まった。松坂牛には目がないということを聞いていたが、その通りのようだった。
「今夜はスキヤキよ」
 妹が弾んだような声を出すと、夏島の頬が一瞬緩んだように見えた。しかしすぐに引き締めて仏頂面(ぶっちょうづら)になった。それでも、命と引き換えにしてもいいほどの大好物だと顔に書いてあった。
「スキヤキ奉行さん、お願いね」
 奥さんに促されて夏島は渋々という感じで席に着いたが、それが本音のはずはなかった。自分抜きのスキヤキはあり得ないと思っているだろうし、スキヤキは誰にも任せられない自分の領域なのだと思っているはずだ。しかし心の内を悟られたくないので、できるだけ難しい顔をしているのだろう。
 仏頂面のまま、熱した鍋に牛脂を入れて溶かした。次に長ねぎと玉ねぎを入れて軽く焼き色を付け、割り下を注ぎ込んだ。その割り下が沸いてきた時、松坂牛の薄切りを一枚ずつ入れて早めに裏返してさっと火を通した。
「玉子を割って溶いて」
 夏島が3人に指示を出し、溶き終わった順から小鉢に松坂牛を入れた。
「早く食え」
 仏頂声だったが、最後に松坂牛を頬張ると、今まで見せたことがないような恍惚(こうこつ)の表情を浮かべた。その時、彼に悟られないように女性3人が『作戦成功!』の目配せをした。
 松坂牛のスキヤキをたらふく食べた夏島は普段の陽気な姿に戻っていた。自らブランデーとバカラのグラスを4個棚から取り出してそれぞれに注ぎ、「これはアルマニャック地方で造られるブランデーで、コニャックより歴史がある」と蘊蓄(うんちく)を傾けた。
「面白いデザインですね」
 秋村が陶器のボトルを話題にすると、「これはグースという名前なんだ。つまり、ガチョウだね。そのデザインを施した珍しいボトルが特徴なんだ」と嬉しそうな声がダイニングに響いた。その後もグラスを重ねる毎に陽気になり、蘊蓄が止まらなくなった。ブランデーからウイスキー、そして、ワインからシャンパンに至るまで、洋酒の歴史や地方ごとの味の違いをとうとうと捲し立てた。
「ところで」
 奥さんが割って入って秋村に視線を向けた。
「今夜はおいしい松坂牛をありがとうございました。久々にほっぺたが落ちそうになりました。ね、あなた」
 夏島は真っ赤になった顔で笑いながら、両手の人差し指を頬に当ててボーノの仕草をした。それを見て奥さんが秋村に目配せをした。秋村は頷き、姿勢を正した。
「夏島さんにご相談したいことがありまして」
 夏島が頷くと同時に奥さんが立ち上がり、「コーヒーを()れてくるわね」と台所に向かった。
「ご相談というのは転職のことなのです」
「転職?」
 大きな声を出したのは、妹の方だった。まだそのことを彼女に話していなかった。
「転職って、どこへ?」
 今にも目の玉が飛び出しそうな顔をしていた。
「中学校なの」
「中学校?」
 今度は面食らったようにポカンとした。
「新しくできる中学校で、まだ校舎もできていないんだけど」
「は~?」
 まさしくハトが豆鉄砲を食らったような顔になった。それは当然かもしれなかった。有名大学の教授職からまだ校舎もできていないような新設中学に転職するなんて、あり得ない話なのだ。
 そんな中、奥さんが戻ってきて、それぞれの前にカップを置いた。「いただきます」と口に運んでモカの香りを楽しんでいると、「どんな中学なの?」と奥さんの穏やかな声が耳に届いた。
「スポーツ専門の中学校なんです」
「えっ?」
 今度は夏島が大きな声を出した。椅子からずり落ちそうになるほど驚いているようだった。
「今、なんて言った?」
「スポーツ専門の中学校と言いました」
「それって、もしかして、夢開市の……」
「えっ?」
 今度は秋村が驚いた。目が点になったのではないかと思うほど驚いた。
「なんで、そのことを……」
 秋村の問いにしばらく答えられなかった夏島だったが、観念したかのように当時の経緯を語り始めた。
 秋村は、その時初めて夏島が校長への打診を断ったことを知った。しかし、自分にも校長就任の依頼があったことは口にしなかった。
「あなたと秋村さんに声をかけるなんて、その人たちは凄いことを考えているわね」
 まだ見ぬ3人の発想と行動に奥さんは感心したような表情を浮かべたが、「ところで、何故あなたは断ったの?」と不思議そうに尋ねた。
 夏島はすぐに答えず、コーヒーを一口飲んでから(おもむろ)に口を開いた。
「ワールドカップで教え子の活躍を見届けた上で、翌年の大学選手権で優勝して、それを花道に辞めようと思っていた。そのあとは、お前とのんびり旅をするつもりだった。今回のことですべてはパーになったけどな」
 そして何故かコーヒーカップを持つ指に目をやった。見ると、爪がかなり伸びていた。長い間切っていないようだった。
「伸びた爪はラグビーへの未練?」
 奥さんの問いに(きゅう)したのか、夏島は残ったコーヒーをすべて飲み干した。
「夏島さんの責任ではありません」
 秋村はたまらず声を出した。
「完璧なマネジメントはこの世に存在しません」
「そうよ、お兄ちゃんのせいじゃないわ」
 すかさず妹が後押ししてくれた。しかし、夏島は首を横に振った。
「俺の責任だ。力不足だったんだ」
 力無く何度も首を横に振ってコーヒーカップを口に運んだが、さっき飲み干したことに気づいたようで、苦笑いのようなものを浮かべた。それを見た奥さんがさりげなく自分のカップを彼の前に動かしたので、彼は軽く顎を引いて、カップを手に取った。
「事件を起こした部員は自分が主将に指名されなかったことに腹を立てて逆恨みするだけでなく、自らの力を誇示しようとしたのです。暴力という非道な手段を使って」
 特別調査委員会の報告書を熟読していた秋村は断固とした口調で続けた。
「それに、彼は中学時代から酒、タバコをやっていたようです。高校の時も、そして、大学に入ってからも。見つからないように陰でやっていたようです。だから夏島さんの指導に落ち度があったわけではないのです。親や中学、そして高校時代の指導者が見逃して常習化させていたことが問題なのです」
 そのことは事件のあと報道によって夏島の耳にも届いているはずだった。
「それは関係ない。俺の指導が甘かったんだ」
「いえ、そんなことはありません。中学生の時にしっかりとした指導ができていれば、こんなことにはならなかったのです。悪い芽を早いうちに摘んでおけば、今回のような不祥事は回避できたのです。でも、臭い物に蓋をするような、目を瞑って現実から目を背けるような教師が少なくないから」
 やるせなく首を振ったが、話を止めるつもりはなかった。
「大学生になってからでは遅すぎるんです。習慣や性根を変えることは難しいのです。できるだけ早いうちに教育や指導をする必要があるのです。だから、中学教育を根本的に変えなければならないのです」
 すると体の内から何か熱いものがこみ上げてきて、それがマグマのようになって口から噴き出した。
「一緒にやりましょう。スポーツ専門中学校という未知の領域へ挑戦しましょう。夏島さん、校長を引き受けてください。わたしが教頭で支えますから」
 秋村は、思いがけなく口をついて出た自らの言葉に、もはや後戻りできない定めのようなものを感じた。