それからしばらくは落ち込んで何も手につかない状態に陥った。気を取り直そうとしても、それは長く続かなかった。妙案は浮かばないし、スポーツ関係の人脈はないのだ。といって、大本命に断られた丸岡にこれ以上頼るのは気が引けた。わたし以上にがっかりしているのは目に見えているからだ。袋小路に入ったまま時間だけが過ぎていった。
 その間、桜田から一度電話があったが、本命に断られたことを告げると、それっきり電話をかけてこなくなった。彼もがっかりしているのだろう。その顔を思い浮かべると更に憂鬱(ゆううつ)になった。世界中の不幸を一人で背負っているような暗い気持ちになった。
 そんな鬱々とした日を重ねていた時、思いがけぬ電話がかかってきた。鹿久田からだった。久しぶりに会いたいという。それも明日。急な誘いで一瞬戸惑ったが、それでも応じることにした。気分転換が必要だったのだ。翌日、定時に職場を出て目的地に向かった。
 指定されたのは柔道場近くの喫茶店だった。ドアを開けると、奥の席に彼はいた。しかし、彼だけではなかった。丸岡もいたのだ。
「えっ、どういうこと?」
「まあ、座れよ」
 鹿久田に促されて席に着いたわたしに丸岡が事の成り行きを説明した。
 あの日、駅で別れてから丸岡は次の候補を探し始めたが、これはという人が思い浮かばず行き詰ってしまい、そのせいか練習にも身が入らず、仕事中にボーっとすることもしばしばだったという。そんな時、鹿久田から電話があって飲みに誘われ、その席でスポーツ専門中学のことを話すと、彼が乗ってきたのだという。そして、3人で話し合おうということになり、わたしに電話したのだという。
「まだ候補が見つかったわけではないから電話しにくくてさ。だから鹿久田に頼んだんだ」
 (だま)したようで悪い、と右手を顔の前に立てた。
「ん~ん、わたしも鬱々としてたから気分転換したかったの」
 すると、丸岡はホッとしたような表情になってコップに手を伸ばした。
 その後はこの店の名物を食べようということになってカツカレーを3人で食べた。彼らは大盛りでわたしは普通盛りを頼んだが、普通といっても結構な量だったので少し彼らに取ってもらった。それでも食べ終わった時のお腹の張り具合は尋常ではなかった。しかし彼らはまだ足りないようで、「もう一人前食うか?」と顔を見合わせていた。スポーツ選手の食欲は半端ないと改めて感心した。
 食後のコーヒーを飲んでいる時、鹿久田が膝を擦り始めた。気になったので「どうしたの」と聞くと、左足の靭帯(じんたい)を痛めたのだと顔をしかめた。
「古傷なんだ。何回もやっちゃってる。職業病みたいなもんだな」
 仕方ないというふうに口を歪めながら、「体が悲鳴上げてるし、そろそろかなって」と寂しそうに笑った。
 鹿久田は現役引退という苦渋の選択を迫られているようだった。しかし日本を代表する選手だけに簡単ではないのだろう。自分の一存では決められないだろうし、といっていつまでもずるずると引き延ばすわけにもいかない。タイミングが難しいだろうことは容易に想像できた。
 それでも、しっかり先を見つめているようで、引退後の人生設計を聞いて流石(さすが)と思った。大学を卒業するとすぐに専門学校に通い始め、柔道整復師の国家資格取得を目指しているというのだ。
「来年資格が取れる。臨床研修が必要だけど、この資格があれば接骨院が開業できるんだ。骨や関節、筋や腱、靱帯なんかの損傷の治療ができるようになる」
 資格取得後は自分のようにケガで苦しんでいる多くのスポーツ選手を助けたいと目を輝かせた。
「スポーツ選手は年齢に関係なく体の手入れが大事なんだ。でも、どうやって手入れをしたらいいかなんて親も学校も教えてくれない。だから手入れができていない。そんな状態できつい練習をすると間違いなく体を痛める。怪我をする確率が高くなる」
 彼は、幼い頃から整体の知識を得て、きちんとした体の手入れをすることの重要性を説いた。
「特に、体が急に大きくなる中学3年間は大事なんだ。成長を阻害するような重い負担がかかる練習は避けなければならない。俺の経験と知識と技術を、スポーツ専門中学校に入学してくる中学生に役立てたい」
「じゃあ、」
「うん、俺も参加させてもらうよ。丸岡と一緒に挑戦したい。だって、未知の領域への挑戦という言葉に逆らえるわけはないからね」
 そして、丸岡の額をチョンと突いた。うまいこと口説きやがって、というような目をしていた。すると、丸岡が鹿久田の額を突き返した。
「柔道の経験だけじゃなくて整体の技術を生かせるんだから文句ないだろ」 
「まあな」
 〇△□隊の時に戻ったような無邪気な笑みが浮かんだ。 
          
 その1週間後、丸岡と鹿久田とわたしは再度校長候補について話し合った。3人で候補者を出し合い、自分たちが求める人物像かどうかを議論した。しかし、合意できる人物は見つからなかった。どの人も、帯に短し(たすき)に長し、だった。ピッタリ来ないのだ。
「トップの人選は大事だからね」
 妥協するつもりがない丸岡は自分の案を引っ込めた。
「確かに、人選を間違えたら取り返しがつかないことになるからね」
 鹿久田は推薦者を書いた紙をポケットに仕舞った。
 わたしも2人と同意見だったので、再度候補者選びに戻ることにした。しかし、目を皿のようにして探してもこれはという候補者は見つからなかった。そして遂にこれ以上探しても無駄だと思うようになった。
「やっぱり夏島さんしかいないよな~」
 丸岡が未練たらしく呟いた。
「そうだけど……」
 わたしは断られた時の夏島の顔を思い浮かべた。