◇ スポーツ専門中学校 ◇

「夢開市って、君が育ったところだったよね」
「はい。今もそこに住んでいます」
「ご両親と?」
「そうです。3人で住んでいます」
 育多会長とそんな話をしながら、市長選で初めて桜田の公約を聞いた時のことを思い出していた。桜田が第一声を発した夢開中央商店街広場に、わたしはいたのだ。4人しかいなかった聴衆の1人がわたしだった。
「当選させていただければ真っ先に教育特区を申請し、何処にもない素晴らしい学校を創ります。明日の夢開市を、ひいては、明日の日本を担う優れた人材を輩出する夢開学園都市計画を必ず実行します」と締めくくった桜田の演説に心が震えたことを鮮明に覚えていた。地元にスポーツ専門中学校を創ることができるかも知れないと思うと、興奮を抑えることができなかった。

 育多会長から面会するようにと指示を受けたわたしは早速アポイントを取り、夢開市役所へ向かった。
 市長室で応対してくれた桜田は選挙戦の時よりも老成して見えた。市長という立場がそうさせているのかもしれないが、枯田事件の影響が強く出ているようにも思えた。そのため最初は緊張した。挨拶もたどたどしいものになった。しかし、大学院の後輩であることを告げると親しみの表情が浮かび、それによってわたしの緊張も解けていった。すかさず長年温めてきたアイディアを切り出した。
「スポーツ専門中学校、ですか……」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった彼に、わたしは大きく頷いた。
「将来プロを目指す、一流のアスリートを目指す生徒が心置きなく競技に打ち込むことができる中学校です」
「う~ん、それは……」
 桜田からそれ以上の言葉は出てこなかった。余りにも突飛すぎる提案をどう受け止めればいいのかわからないようだった。でも、思い直したかのようにこちらに顔を向け、現役教師であった自分は公立中学校の限界を感じていたので変える必要性は理解していると言った。しかし、まったく違う形にすることは考えたことがなかったという。現在の中学校の枠組みの中でどう良くしていくかというレベルにとどまっているようだった。それに対してスポーツ専門中学校という案は概念そのものを覆すパラダイムの転換に等しかったのだろう。腕組みをした桜田から前向きな言葉が返ってくることはなかった。
          
 意気消沈して帰ったわたしに桜田から電話がかかってきたのは、市役所を訪問してから2週間後のことだった。もう一度話を聞かせてほしいという。
 取る物も取り敢えず市役所へ急ぐと、笑顔の桜田が待っていてくれた。そして、あのあと提案を熟慮した結果、突飛すぎるからこそ夢開市再生の切り札になるかも知れないと思い始め、検討案の一つに加えることにしたと言った。すぐさまわたしは具体的な計画の必要性を説いた。すると桜田が頷いて、「どういう学校を、どういう規模で、どういう予算で、いつまでに造るのか、ということですね」と自らに言い聞かせるように言った。
「そうです。申請内容が斬新か、ということに加えて、計画や予算に無理がないか、つまり、実現可能性があることを明記する必要があります」
 桜田が続きを促すように頷いたので、具体的なところへ踏み込んだ。
「先ず、スポーツ専門中学校というコンセプトを決定していただく必要があります。その上で規模や候補地等について明記していただくことになりますが、具体的なお考えはありますか?」
「いえ、まだ検討を始める段階ですので、具体的なものは何もありません。しかし、少なくとも全学年で千人規模は想定しておく必要があるでしょうね。もちろん、開校時すぐにその規模にするのは無理なので、小規模、例えば一学年百人程度からスタートして、徐々に増やしていくやり方がいいかもしれないと思っています」
「そうですか。でも最終的に全校で千人規模となるとかなりの敷地が必要となりますが、それを確保することができますか? また、校舎と競技場、トレーニング施設なども必要となりますが、それについても大丈夫ですか?」
「ええ。幸いなことにと言うべきか残念なことにと言うべきかわかりませんが、隣接した中学校と小学校が両方廃校になった場所があるので、そこを使えると思います。しかし、改築や施設の増設をするとなると」
「かなりの予算が必要ですね」
「はい。問題はそこです。人口が減って税収が少なくなった夢開市の財政はとても厳しい状況に置かれています。どうやって予算を捻り出すか、そこが問題です」
          
 桜田との面談で彼のやる気を感じたわたしは希望の明かりが灯ったような気がしてスイッチが思い切り入り、こちらでできる準備を精力的に進めた。ただ、予算面がクリアできない限り前進させることはできないので、一日千秋の思いで桜田からの連絡を待った。しかし、待てど暮らせど電話は鳴らなかった。

 そんな状態が続いたまま年末がやってきた。休みに入る前に進捗を聞こうかと思ったが、急かしたところでどうなるものでもないのでぐっと我慢した。そして、気持ちを切り替えた。
 スケジュール帳を開くと、書き込んだ文字が浮き上がってきたように思えた。待ちに待った日が近づいているのだ。心が弾むのを抑えることなどできるはずはなかった。
 あと2日……、
 零れた呟きが手帳に吸い込まれて秒針を動かした。