『……彼女が俺と付き合ってから色々決めたいって言うんだったら、しばらく試しに付き合う期間を設けても良い。だけど、俺は……子どもは必要ないと思ってる。大事なものを失うぐらいなら……最初から子どもなんて必要ない……欲しくないんだよ』


 突然頭の中に、二年前の彼の言葉が浮かんだ。

「あ……」

 桃花の胸がぎゅっと苦しくなる。同時にぐっと唇を強く噛み締めた。

(獅童のことがある。今の私は、女性としての幸せだけを最優先に考えるわけにはいかない)

 総悟の動きが止まると、彼女の顔を覗き込んでくる。

「大丈夫なの、桃花ちゃん? 顔色良くないよ。医務室に連絡を!」

 慌てた彼がそばを離れそうになったため、彼女は彼のスーツの袖をぎゅっと握る。

「社長、大丈夫です」

 想像以上にきつく歯を食いしばってしまっていたのだろうか、総悟から見た桃花の顔色はあまりよく見えなかったようだ。
 彼の声音には焦燥が滲む。
 
「だけど……」

「社長、申し訳ございません、驚かせてしまって」

「いいや、良かった。大丈夫、本当になんともないの?」

「ええ、本当に大丈夫です」

 とはいえ、桃花は冷や汗をかいていたようで、スーツのポケットに忍ばせていたハンカチを取り出すと、そっと額に当てた。
 総悟の方が必死な様子で、桃花のことを抱き抱えようとしてくる。

「何かの病気だったら困るから、今すぐ病院に連れて行く」

「社長、大丈夫ですから!」

 思いがけず大きな声が出てしまったことに気付き、桃花ははっと口を噤んだ。

(いけない……!)

 ちょうど二年前に総悟に病院に行けと言われて、それからの出来事とシンクロしてしまって、少々動揺して大きな声が出てしまった。

「また同じようなことがあったら行きますから。だから、大丈夫で……」

 桃花は振り仰いだ瞬間、驚きで目を瞠ってしまった。

(何……? この人、どうしてこんなに泣きそうな顔をしているの?)

 総悟は眉を顰めて唇をきゅっと噛み締め、何かに耐えるような表情を浮かべていた。
 桃花に向かって伸ばしていた手が空を切ったかと思うと、ぎゅっと拳を握りしめる。
 そうして、絞り出すような声音で告げられる。

「せめて……うちの産業医にかかってよ」

「検討しておきます」

 しばらく二人の間に沈黙が落ちる。

(ここまで心配されてしまうなんて……なんだろう、何か声をかけた方が良い?)

 桃花が迷っていると、総悟が口を開いた。

「二年前にさ、ちょうど同じようなことがあったでしょう?」

 桃花の身体がビクンと跳ねる。
 ちょうど総悟も同じことを思い出していたようだ。

「あの時、桃花ちゃんは病院に通っていたでしょう? 俺には病気じゃないって言ってたけど、本当は何かの病気だったのかなって、ずっと心配してたんだ。だから」

「あ……」

 その可能性は全く考えていなかった。

「気持ち悪いって思われるかもしれないけど、桃花ちゃんがいなくなってから、だいぶ探したんだ。興信所とか探偵とか使ってみたけど、全然足取りが掴めなくて」

「え……?」

 思いがけない話の連続だ。

(総悟さんは、私が病気か何かで失踪したと思っていたの?)

 桃花は、胸がギュッと苦しくなった。

「……本当に、生きててくれて良かったよ」

 総悟が微笑んだ。
 心の奥底から出てきたもののように思う。

「ご心配をおかけしました。ご迷惑をおかけして……」

 竹芝にも謝罪したが、本当は真っ先に総悟に対しても、二年間不在にしてしまったことを謝罪しなければならなかったのだ。
 桃花は頭を深々と下げる。
 そうして、顔を上げると、総悟の表情は元の飄々としたものに戻っていた。

「ねえ、桃花ちゃんはさ、本当に俺に迷惑かけたって思っている?」

「ええ、もちろんです」

 すると、総悟が唇の端をゆるりと吊り上げる。

「だったら……」

 なんだろうか?
 桃花がドキドキして待っていると、総悟がまるで太陽のような笑顔を浮かべた。

「俺と一緒にデートしてよ、もう一度チャンスが欲しいんだ」

「え?」

 思いがけず……総悟と桃花はデートに出掛けることになったのだ。