桃花が定時で上がった後、総悟は一人取り残されたマンションで、ソファに座りながら考えていた。

「桃花ちゃん、俺のことが嫌いになっていなくなったわけじゃなかったんだ」

 桃花が握ってくれた掌をじっと眺める。なんだかまだ彼女の熱が残っているようで……総悟の胸が苦しくなった。

(もしかしたら、二年前、俺と竹芝の会話を聞かれていたんじゃないかって思っていたけど……)

 あの時、「子どもは欲しくない」といった類の話を自分はしていたはずだ。
 女性の多くは子どもに優しい男性を結婚相手に選ぶという。
 もしかすると「子どもを必要としていない男性はずっと一緒に過ごす対象として不適切だ」と、桃花に思われたのではないかと、ずっと心の奥底で不安に思っていたのだ。

(俺は子どもが嫌いなわけじゃない)

 だけど……

「俺が桃花ちゃんに子どもを授けてあげることは……」

 総悟は目の前にかざしていた掌をぎゅっと握る。
 自分が与えてあげられないものを嘆いてもどうしようもない。
 そんなことは分かっているけれど……
 彼は心の中で頭を振った。

「桃花ちゃん、俺のことを嫌いになったんじゃないなら、どんな理由で退職したんだろう?」

 お金がないことが関係しているのだろうか?
 だとしたら、面接当日、かなりひどい言葉をぶつけてしまったなと反省した。
 だけど、ちゃんと謝ったら桃花は許してくれたのだ。

「やっぱり桃花ちゃんは優しい」

 けれども、そこでとある可能性に気付いてしまう。

「仕事を辞めた理由が俺じゃないんだったら、好きな男が出来て、そいつのところに向かったんだとか?」

 総悟の胸の中にモヤモヤとした感情が渦巻きはじめる。

(あの当時の桃花ちゃんに他の男との接点はなかったはずだ。だから、退職した直接の理由ではない……と思う)

「竹芝には、家族の世話をしないといけないって話してたみたいだけど……桃花ちゃんを迎えに行った竹芝の話だと、祖父母は健在だったっていうし……」

 それにしたって……
 二年前以上に、今の桃花は定時で帰りたがっているように感じた。

「この間の電話もそうだけど、誰と電話してたんだろう?」

 田舎で過ごしている間に新しい恋人でもできたのだろうか?
 想像したら、ますます胸がモヤモヤしてきた。

「桃花ちゃん、チャラチャラしたのは好きじゃなさそうだし、真面目そうな眼鏡の男とかなのかな……俺ももうちょっとだけちゃんとスーツは着るようにしよう、首が詰まって嫌だけど」

 ひとまず桃花に減点されないように気をつけよう。
 そうして、ガラステーブルの上に置かれた書類をそっと手にする。

「面接書類にしか桃花ちゃんの写真が残ってなかったからって、持って帰ってるのは、社長としてダメだよね」

 だけど、これしかなかったのだ。
 桃花がいなくなって以来、慰めに持っていたものの一つだ。

「大丈夫、まだ名字も変わってないし、これから挽回するんだ。毎日一緒に過ごしていたら、付け入る隙は必ずあるはず」

 総悟は部屋に戻ると、そっとベッドに横になる。
 先ほどまで桃花がいた場所はもうひんやりしてしまっているが、まだ温もりが残っているような錯覚を覚えた。

「二年前、あんなに自分なりに色々頑張って好きになってもらえなかったのに……今度こそ好きになってもらうにはどうしたら良いんだろう? 桃花ちゃんにまた俺の部屋に来てもらいたい。桃花ちゃんがずっとそばにいてくれるんなら、俺は……」

 胸の中のわだかまりのようなものは、まだ完全には晴れてはいないけれど……

 その夜、総悟は、二年ぶりに未来へ明るい想像を馳せることができた。

 この二年間曇ったままだった総悟の瞳が、再び光を取り戻しはじめたのだった。