桃花は内心の動揺が激しく、掌にはじっとりと汗をかいていた。
 総悟からすれば、今の自分は『金目当てで自分の元に戻ってきた卑しくて意地汚い女』に違いない。

 もういっそ全てを白状してしまえば楽かもしれない。
 だけど……

(獅童のことを知られるわけにはいかない……)

 総悟とよく似た顔立ちの愛息・獅童の顔が浮かんできて、開きかけた口を噤んだ。

(絶対に伝えたらダメ。そう、子どもの父親であるこの人にだけは……何のために姿を消したのか分からなくなってしまう)

 内心の動揺を悟られまいと、桃花は総悟の眼差しから視線を逸らす。
 ふと、室内の端に、社長室には似つかわしくない飾り物が目に入った。

(あれは……)

 桃花が両親にもらった白いウサギのマスコット。
 二年前に退社する際にデスクに置いてきた。
 もう捨てられてしまっていると思っていたけれど……

『桃花ちゃん』

 優しかった総悟との甘い記憶が戻ってくる。

(たまたま取っておいただけよ、きっと……)

 総悟が吐き捨てるように告げる。

「好き放題暮らして、貯金が無くなったから戻ってくるなんて、ありえない」

 彼から蔑むような眼差しを向けられると、桃花は身が竦むような思いがした。
 だけど、背に腹は代えられない。

(獅童をちゃんと育てるためにも、お金は必要だもの)

 それこそ腹を括って挑むしかないのだ。
 ごくりと息を呑む。
 そうして、真っすぐに総悟の視線を捉えた。

「虫の良い話だと思われるかもしれませんが、もう一度だけチャンスをください」

 桃花は再び思いきりよく頭を下げる。
 しばらく相手からの反応がない。
 鋭い視線だけをひしひしと感じて、手足が小刻みに震えて落ち着いてくれない。

「まあ、別に良いか。帰ってきたのなら、これ以上は何も言わないでおこう。俺もそんなに心が狭いわけじゃない」

 総悟からの返答があり、桃花はほっと胸を撫で下ろす。

(良かった……)

 感謝を告げようと面を上げたが、すぐに喜んだ自分の浅はかさに気付く。

「面白いオモチャが帰ってきたぐらいに思っておくさ」

 醒めた表情で言い放った総悟の姿を見て、桃花の背筋にゾクリとした感覚が駆けあがる。
 だけど、今の彼の元に戻ると決意したのは自分なのだ。

(獅童のためにも、シャンとするのよ、桃花)

 総悟の仄暗い眼差しを受けつつも、桃花の真っすぐな視線は揺るがない。
 そう……赤ん坊を一人で産んで育てようと決意した、あの日のように。

「じゃあ、またよろしく頼むよ、俺の専属秘書さん」

 総悟が立ち上がると、不敵に微笑む。
 そうして、そばにツカツカと近づいてくると立ち止まる。
 桃花の顎を指で掴むと、挑発的に告げてきた。

「どうかこれ以上俺を失望させないでくれよ」

 彼から向けられる冷淡な眼差しに、彼女は歯を食いしばって耐える。
 その時、総悟がふっと視線を床に向けると、ポツリと呟いた。

「……君が俺のそばからいなくなっても……」

「え?」

 だけど、総悟の声があまりにも小さくて何を言ったのかは分からなかった。
 沈痛な面持ちを浮かべていた彼だったが、そこでハッとなり、元の厳しい雰囲気へと戻った。

「いいや、今のは気の迷いだ、聞かなかったことにしてほしい。明日からさっそく専属秘書に戻ってもらう。今日はこれで終わりだ。帰ってくれ」

 総悟の指が離れると同時に、桃花は彼をキッと睨んで力強く告げた。

「これからも、どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそ、離れていた二年分、俺を満足させられるかどうか期待しているよ」

 こうして、桃花は新たな人生の幕開けに立ち向かうことになったのだった。