桃花は高層ビルを見上げながら深呼吸をした。
 彼女の背後では、車の走行音やクラクションの音、雑多な人々の会話が聞こえてくる。

(まさか、こんな形で帰ってくるなんて……)

 二年ぶりの二階堂商事の正面玄関の前、桃花はゴクリと唾を呑み込んだ。

(竹芝部長……いいえ、今は竹芝副社長からの契約を最初は断っていたのだけれど……)

 数日前、田舎の祖父母の家に竹芝が尋ねてきた。
 そうして、持ち掛けられた契約というのが、「多額の報酬をもらう代わりに、二階堂総悟の専属秘書に戻る」というものだったのだ。
 さすがにお金のためとはいえ、再び総悟の元に帰るなんて、と桃花には抵抗があった。

(だけど、住む場所まで提供すると言われたものだから、こんな好条件を逃すわけにはいかないと思って、引き受けることにしてしまった)

 単身マンションだと獅童と一緒に暮らせないので断る理由にしようと思ったのに、まさかの3LDKのファミリーマンションだったのだ。
 現金かもしれないが、背に腹は代えられない。
 桃花は竹芝からの契約に頷いたのだった。
 さっそく引っ越しして、獅童の保育園なり子ども園なりを探そうとしたのだが、どうしてだろうか、激戦区の子ども園に運よくすぐに入れることになった。
 ちなみに数日前から慣らし保育に通わせていた。初日は桃花と離れるのが嫌でグズっていた獅童だったが、翌日以降は保育士さん達にすっかり懐いてしまっていた。

(女性たちに馴染むのが早いのは、きっと総悟さんの血ね。……ちょっと寂しいけれど、おかげで、さっそく今日から出社できる)

「もうすぐ時間ね」

 桃花は腕時計をチラリと見る。総悟に貰ったものだということを思い出して、なんだか急に緊張してきた。
 近くにある会社の看板がちょうど反射して、鏡の役割を果たしており、そこに映る自身の姿を見る。まるで追い詰められた子兎のような表情だ。
 透けるとアッシュグレーに見える黒髪をきっちりまとめ上げ、年齢よりも幼い印象の顔立ちを化粧でどうにか大人びて見せていた。
 二年前と同様にスレンダーな体形を維持しているのだが、黒い清潔感のあるスーツとパンプスは、社会人としてやり直すためにと、残っていた貯金で奮発して購入したものである。

(竹芝副社長に社長になった総悟さんがどうしたのかを聞いたけれど、イマイチちゃんとした答えが返ってこなかったのよね)

 桃花に専属秘書として戻ってきてもらいたいという位だから、総悟はまた仕事をしなくなったように人前で振舞うようになったのだろうか?

(それとも、全く仕事をしないとか? 社長になってるぐらいだから、そんなわけないと思いたいけれど……)

 桃花は緊張した面持ちのまま、まるで死地に向かう兵士になったかのような気持ちで、ビルへと足を踏み入れたのだった。