だがしかし、扉の向こうに逃げようとした桃花は二階堂副社長から抱きしめられてしまった。
 男性とこんな距離が近いのは生まれて初めてで、ドキドキしすぎて頭が沸騰してしまいそうだ。

「副社長、社内でこんな振る舞いは……!」

「桃花ちゃん、俺と君との仲じゃないか……!」

 すると、女性社員が反応した。先ほどまではめそめそと縋る女性として振舞っていたはずなのに、今は般若のような表情を浮かべておりギリギリと歯噛みした。

(ひっ……豹変した……!)

 桃花は内心ビクついた。
 女性社員が叫ぶ。

「次はその女っていうわけ!?」

「次も何も、桃花ちゃんが俺にとって最後の女性だよ。ね、桃花ちゃん」

 二階堂副社長がさも何かありげに伝えた後、これみよがしに桃花の頬にちゅっと口づけた。
 桃花は心の中で悲鳴を上げた。

(何が起きたの!? それよりも何もないのに何かあるように言うのはやめて……!)

 顔を真っ赤にして怒りを露わにしている女性社員が、さっと机から何かを奪い取ると、二階堂副社長と桃花の脇をすり抜ける。

「ふん、あんたもぼろ雑巾みたいに、二階堂副社長からポイ捨てされたら良いわよ!」

 そうして、彼女は捨て台詞を残して去って行ったのだった。

(ぼろ雑巾……)

 今時あまり聞かない言葉だが、やけに耳に残る単語だと思った。
 何も悪いことをしたつもりがないのに、またしても敵を増やしてしまった。

(そういう男性の専属秘書に指名されたのですもの、仕方ないわね……それにしたって……)

 なかなか二階堂副社長が離してくれない……!
 正直、上司と部下の距離を物理的に軽々と越してしまっている。
 男性と身体を密着させるのに慣れていなくて、桃花は平然とした態度を取り繕うのに必死だった。

「あの……二階堂副社長、そろそろ離してくださいませんか?」

「え? ああ、ごめんね。桃花ちゃんが協力してくれたおかげで、楽にあの女性社員を撃退できたよ。俺は気がないって何度も言ってるのに、もうずっと迫ってこられて仕事にならなくてさ」

「副社長が迫ったのではなく……?」

「うん、そうだよ、興味のある子がいるのに他の女性に手を出したりしないって……!」

 どうやら二階堂副社長には今現在「興味のある子」がいるらしい。

「それにしたって、なんだか抱き心地が良くって離したくないな」

 二階堂副社長はそう言うと、桃花を抱きしめる力を強くしてくる。

「こ、困ります……! 社内でこんなことされては……!」

「社内じゃなかったら良いの?」

「社外でもダメです!」

「ええ、堅いな? さっきの女性社員ももういなくなったし、このフロアには守衛もいないしさ、そんなこと言わずに、このまま抱きしめられててよ」

「そちら、防犯カメラに映ってますから!」

 桃花は顔を真っ赤にさせて抗議した。
 ちょうど二階堂副社長の腕の力が緩んだため、その隙を逃さずに腕の中からかいくぐる。
 そんな彼女の姿を見て、彼がクスリと微笑んだ。

「やっぱり面白い子だね、桃花ちゃん」

「……私は初日から全然面白くありません」

 すると、二階堂副社長が苦笑した。

「これは手ごわい専属秘書さんだ。それじゃあ、さっそく仕事をしてもらおうかな? ほら、副社長室の中に入ってごらん」

 二階堂副社長がさりげなく肩を抱いてくるものだから、桃花は黙って腰を捩って逃げ出した。
 こうして……桃花の波乱の専属秘書生活が開幕したのだった。