桃花が総悟の元を去った当日、「家族の世話があるから退職したい」と職場には伝えた。本来ならば直属の上司である総悟が把握していないのはおかしい。だけど、幸か不幸か、総悟の歴代の専属秘書たちが続々と退職していた経歴があったため、人事課の人たちは何の違和感もなく書類を受け取ってくれた。

 そうして、総悟のそばから去る直前、桃花は元上司である竹芝部長の元へと向かうと、総悟の翌日以降のスケジュールの相談をした。桃花がいなくなったとしても、総悟や次の専属秘書が困らないようにと、裏で密かに準備をしていたのだ。
 竹芝は、桃花が数日実家に帰るぐらいに思っていたようで、スケジュールについてあっさりと了承してくれた。だから、桃花が急にいなくなってしまっても、総悟の仕事に影響はなかったはずだ。

 そうして、桃花が総悟の元から離れて、早二年近い月日が経とうとしていた。

 彼の元を去って以来、彼女は田舎にある祖母の家でのんびりと暮らしていた。
 山と田んぼに囲まれて、家一軒一軒との間が広く、広い道を歩いていても時々しか車とすれ違うことはない、そんな場所だ。
 ちょうど梅雨時のため、農家の人々が田植えをしているのが遠目でも見て取れた。
 田んぼと田んぼの間、ぬかるんだ畦道を、桃花はのんびりと散歩していた。ちょうど暑くなってきたので、シックな紺のさらりとした手触りのワンピースに白いショールを羽織って過ごしている。

 そうして……膝よりも少しだけ背丈のある子どもを連れて歩いていた。

 ちょうど一年ぐらい前、桃花がお腹を痛めて産んだ我が子だ。
 桃花は大きくなった子どもを見て柔和な笑みを浮かべる。

「わあ、獅童歩くのが上手になったわね」

「うん!」

 子どもの名前は、小さい頃に好きだった戦隊ヒーロー・獅童から名付けた。
 祖父母がひ孫の名前を耳にして口々に感想を述べた。

『じいちゃんには偉くハイカラな名前に見えるけど、時代の流れかい?』

『意外と古風な名前だね、髪色も獅子のたてがみみたいだし、可愛いじゃない』

 祖母の言う通り、獅童は陽に透けるとまるで金色のように見える髪、日本人にしては少しだけ色素の薄い瞳の持ち主だった。
 子どもの父親である総悟が、外国の血を受け継いでいるので、獅童も同じような色素になったのだ。

(きっと総悟さんに似ているのね、私の子どもとは思えないぐらい、獅童は可愛らしいわ)

 我が子と手を繋いで歩いていると、活力を貰えるようですごく幸せだ。
 小さな掌がぎゅっと桃花の掌を握り返してくる。
 獅童のニコニコした笑顔を見ていると、ふと総悟の顔が桃花の脳裏を過った。

『桃花ちゃん』

 胸が波立ってしまい、ぎゅっと苦しくなると同時に、獅童と繋いだ手に力が入ってしまう。

「まま?」