翌朝、総悟はまばゆい日差しで目を覚ました。

「まずい、あのまま寝ちゃったのか……」

 慌てて身体を捻って頭上にある時計を見る。
 始業時間十五分前だ。
 けれども、目当ての桃花の姿はそこにはなかった。
 普段なら必ず出社している時刻だというのに……

「たまには遅くなることだって、あるよね、きっと……」

 総悟はひとまず顔を洗おうと椅子から立ち上がる。
 新鮮な朝の水を浴びると清々しい気持ちになった。

(十分前)

 普段なら、桃花が総悟に淹れたてのコーヒーを準備してくれている頃だ。

「せっかくだから、今日は俺が準備しておこうかな」

 総悟は慣れない手つきでコーヒーメーカーに豆を入れる。
 うっかり少しだけ零してしまった。
 慌てて拾うとゴミ箱に捨てて、手を洗った。
 そうこうしていたら、徐々に始業時間が迫ってくる。

「桃花ちゃん、どうしたんだろう」

 総悟は桃花のために準備したスペースの近くへとそっと移動した。
 彼女らしく整然と片づけられている机。だけど、妙に片付いている気がした、
 ふと、彼は机の上に置き去りにされたものを見つける。

「桃花ちゃん、ドジだな、また白いうさぎのマスコット置き忘れて……」

 ドクン。
 総悟の心臓が跳ねる。
 ふと、マスコットの近くに別の何かが添えられていることに気付いた。
 達筆な字が躍る茶封筒。
 総悟はひゅっと息を呑んだ。

「なん……で……?」
 
 紛れもなく桃花の筆跡だ。
 急いで茶封筒をビリビリと裂いて、震える指先で白い便せんを取り出すと、焦燥に駆られたまま中を開いた。
 そこに書かれているのは――

「嘘だ……」

 嘘に決まっている。
 書かれている内容を認めたくなかった。
 信じたくなかった。
 心臓が搾り上げられるような感覚が襲ってくる。
 手足に蟻走感が駆け抜けて、小刻みに震えはじめた。

「どこに……行った……?」

 慌ててスマホを取ると、彼女の連絡先に電話をかける。
 だが、帰ってきたのは無情な答えだった。

『おかけになった電話番号は現在使われていないか、電源が入っていないため掛かりません、こちらは……』

 総悟の中で先ほどまで膨らんでいた桃花への感情が――行き場を失って、獣のように、胸の中で暴れまわりはじめた。

「なん……で……?」

 違う。
 違う。
 嘘だ。
 嘘に決まっている。
 けれども、現実は「真実」である事実を直面させてくる。

「なんで、辞めて……俺が……」

 総悟は焦燥でざわつく胸を震える指でかきむしる。
 少しだけ硬い肌に爪痕が残って、血が滲みはじめた。
 目頭が熱くなったが、衝撃が強すぎて涙は流れてはくれなかった。



『二階堂総悟様 これまでありがとうございました 一身上の都合で退職させていただきます。どうか元気にお過ごしください 梅小路桃花』



「なんで……」


 総悟は桃花が残したブランケットの元へのろのろと近づいた。そうして手に取ると、そっと胸にかき抱く。


 人は簡単に自分の前からいなくなってしまうことを知っていたはずなのに……


「俺は……また間違えて……」


 後悔の滲む震える声は、誰からも拾われることなく室内に響いて消えていってしまった。



 こうして――


 桃花は総悟の前から忽然と姿を消してしまったのだった。