「もちろん、君に子どもができたのだとしても、愛情を注ぐはずがないんだよ」

「あ……」

 桃花の瞳が不安に揺れ動く。
 今度こそ嵯峨野の言葉を否定したかった。
 だけど、先ほどの総悟と竹芝の会話を思い出してしまって、完全に否定することができないでいる。
 桃花は掌に汗をじっとりとかいているのに気づき、ぎゅっと拳を握って耐えた。

「いいや、失敬、総悟くんには唯一愛する女性がいるんだったな。……ああ、梅小路さん、もしかしてと思ったけれど、やっぱりそうか……」

 桃花はのろのろと嵯峨野の顔を見上げた。
 だけど、ちょうど逆光になっていて、相手がどんな表情をしているのかが分からない。

「君は彼女に似て素直な女性だ。だから、きっと総悟もそばに置いたのだろう」

 ……彼女。
 きっとそれは、名も知らぬ、総悟と嵯峨野の共通の知人女性。
 総悟が後生大事に所持している写真の女性が、桃花の脳裏を掠めた。

「そう、あの男が大事に想っているのは……愛しているのは、彼女――私の最愛の彼女だけだ」

 嵯峨野にとっての最愛の女性。
 嵯峨野だけじゃない、総悟にとっても……
 写真でしか見たことがないけれど、すごく綺麗な黒髪の女性だった。

(……これ以上、聞きたくない)

 きっとこの男は……嵯峨野は嘘を吐いている。
 頭の中ではそう理解していた桃花だったけれど、あまりにもタイミングが悪すぎて、相手の嘘を跳ねのけるだけの気力がなかった。
 そうして、嵯峨野はまるで愛を囁くかのように桃花に向かって語り続ける。

「そういえば、君の両親の事故現場に総悟くんはいたんだ。君を専属秘書として今そばに置いているのは……」

 嵯峨野は桃花に憐憫の視線を向けた後、膝に手をついて立ち上がった。
 ドクン。
 桃花の心臓が煩い。

(総悟さんが、お父さんとお母さんの事故現場に……?)

 悪い想像がどんどん膨らんでしまう。
 総悟が桃花の両親の交通事故での罪悪感を抱いていることが原因で、愛する女性と幸せにならないようにしているのだとしたら……?

(だとしたら……)

 総悟の幸せの足かせになっているのは……

 心臓が潰れて肺で呼吸が出来ないぐらいに苦しくなった。

「すまない、どうやら喋りすぎてしまったようだ。それでは……」

 それだけ言い残すと、嵯峨野は桃花の傍を去って行った。都会の光の下にいるはずなのに、まるで夜闇の中へと消えるように、気付いた時には彼の姿は跡形もなく消えてしまっていた。

「私は……」

 一人駐車場近くの通路に残された桃花は、ゆっくりと立ち上がると、まるで幽鬼のようにフラフラと夜道を歩きはじめる。