(総悟さん、子どもは欲しいと思っていないなんて……)

 桃花は正面玄関の外へと飛び出る。
 帰宅ラッシュの車の騒音がけたたましく鳴り響く。薄暗い通りが煌々と光るランプで明滅していた。
 走るのを止めて、ふらふらとした足取りで歩く。
 会社の駐車場の角を曲がろうとした際に、何者かにドンとぶつかってしまった。
 桃花の身体がよろめくが、その何者かがさっと腕を掴んで助けてくれた。

「おっと、失敬」

「あ……ごめんなさい」

 桃花は、泣き腫らした目で相手を見上げながら礼を告げた。

(この人、確か……)

 ぶつかった相手は、二階堂商事の取引先である嵯峨野機器の会社社長・嵯峨野武雄だった。
 総悟が嫌な態度をとっていたので、相手の顔を鮮明に覚えていたのだ。
 人が良さそうな表情を浮かべる嵯峨野が、やんわりとこちらの内情を伺ってくる。

「ああ、君は確か梅小路桃花さんだったね。もしかして二階堂副社長と何かあったのかな?」

「え?」

 なんとなく踏み入ったことを聞いてきているというのに、嵯峨野は相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべたままだ。
 一度会っただけなのに、どうやら桃花は名前も顔も覚えられていたらしい。

(なんだろう、なんだか怖い……)

 嫌な予感がして、桃花はそっと嵯峨野から距離を置こうと後ろに下がる。その時、強烈な眩暈と嘔気が襲ってきてしまい、その場にしゃがみ込んだ。

「う……うう……」

 すると、嵯峨野もしゃがみ込んできて、桃花の背を擦り始めた。

(何だろう、この男の人、距離が近い……)

 なんとなく総悟以外の男性に触れられているせいか、ますます気分が悪くなる。
 挙句の果てに、桃花が何も聞いていないにも関わらず、嵯峨野は語り続ける。

「そういえば僕は、総悟くんとは昔からの知り合いなのですがね……」

 総悟の昔の話題が出てきたため、桃花の心臓がドクンと跳ねる。
 せっかく吐き気が落ち着いてきたのに、なんとなくみぞおちの向こうがズキズキと痛んだ。

(嵯峨野社長は、やっぱり総悟さんと以前からの知り合いなのね……)

 嵯峨野は、桃花の背を擦っていた手を離したかと思うと、まるで何かの呪文でも唱えるかのように口を動かした。

「二階堂総悟、あの男には人の感情がない。どれだけ君が彼を愛したって、彼から愛が返ってくることは絶対にない」

 ……おかしな妄言だ。
 そんな風に言い返したかったが、桃花は顔面蒼白になったまま、言い返すことができなかった。
 嵯峨野は彼女の様子など気にせずに話し掛け続ける。