自宅マンションにて。
 桃花は風呂場の浴槽で湯面をブクブクさせながら、今日の帰り際の出来事を思い出していた。

(二階堂副社長に車で送ってもらったけれど……)

 なんとなく上の空状態になってしまった。
 思い切って気になっている写真の女性のことを尋ねることができれば良かったのだが、それ以上は踏み込めない雰囲気を感じてしまって、結局尋ねることができなかった。
 かと思いきや、去り際にキスされてしまって……
 勢いよく逃げた後は、自宅マンションに帰ってきてお風呂に入って精進していたのだけれど……

(ダメだわ、思い出すのは副社長のことばかり)

 無邪気に笑う総悟の笑顔が、桃花の頭の中に浮かんでは消えていく。

(二階堂副社長の専属秘書になって、二か月ぐらいが経つけど、専属秘書というか、最近はなんだか……)

 ……恋人のような距離だ。

 というよりもキスまでしてしまったので、もはやただの上司と部下という間柄とは言い難いだろう。

『桃花ちゃん、毎朝コーヒーをついでくれて、なんだか一緒に暮らしてるみたいだね』

 数日前の朝、懐く子犬のように副社長から告げられ、胸がキュンと疼いたことを思いだす。
 だけど、写真の女性のことを嵯峨野社長と話していた二階堂副社長のことを思いだして、胸がズキンと痛んだ。

(どうしよう、最近の私……)

 ……二階堂副社長のことばかりが頭を占めている。
 彼に、もしかして愛されているのかもしれないと想像して、勝手に夢が膨らんでいく。
 けれども、水面に浮かべている泡のように、その夢はどこかえに消えていってしまう。

「ダメよ!」

 桃花は浴槽の中で立ち上がった。
 ザパリと水が弾けて、風呂床に舞い散っていく。

「ダメったらダメ! これじゃあ、他の女性達と一緒じゃない!」

 桃花は他の女性達とは違うという理由で選ばれたはずなのに……
 今日の自分の態度を振り返ると、もはや専属秘書の役割を果たせていないといっても過言ではなかった。

(そもそも二階堂副社長には想い人がいるんだし、このまま好きになってしまったら、私までおかしな嫉妬に悩まされておかしな行動をしでかしてしまうんじゃ)

 そうして、二階堂副社長の手によって解雇されてしまうかもしれない。
 恋をしたらダメな相手のに、どんどん相手のことが気になってしまっていく一方だ。
 しかも、仕事中に真面目に働く彼を見ていたら、どんどん尊敬できるところが増えていって、どんどん相手に惹かれていってしまっている。

「ダメよ、これ以上は……なんとしてでも距離を置かなきゃっ!」

 桃花は自分に言い聞かせるように叫んだ。
 なんとなく、自分が自分ではなくなってしまうような、そんな恐れを抱いてしまった。

「……くしゅんっ!」

 寒くなってしまったので湯船に浸かり直す。
 縁に凭れ掛かりながら、ぽつりと呟いた。

「私は、こんな……誰か人に甘えるような人間じゃなかったのに……」

 なんだか自分が弱くなってしまったようで怖くなった。
 ぎゅっと自分自身の冷えた肩を抱きしめる。
 濡れた髪から雫がぽたぽたと落ちていく。

「強くなきゃ……生きていけないのに……」

 桃花の切なる思いは浴室の中でよく響いたのだった。