取引先に会いに行こうとした矢先、相手とちょうど出くわすことになった。
 二階堂副社長と対峙する男の名札には「嵯峨野武雄」と記名されていた。
 嵯峨野機器という会社の最高経営責任者だ。嵯峨野機器は、質の良い機器や部品類を安価に取り扱っており、昔からある有名な会社の一つだ。令和の時代まで不祥事を起こすこともなく安定した企業だといえよう。
 現在、二階堂グループが製品開発している車の部品の下請けを担ってくれている。

(二階堂副社長と取引先の嵯峨野社長は知り合いなの?)

 桃花のことには気づかない様子で、嵯峨野は二階堂副社長に声をかけた。

「総悟くん、久しいね」

「ああ、そうでしたっけ?」

 分かりやすく二階堂副社長の態度はとげとげしかった。

(取引先相手に無礼すぎない……!? 知り合いだったらありなの……!?)

 桃花の方が見ていて冷や冷やしてしまう。
 気に留めた様子もなく、嵯峨野は二階堂副社長に向かって爽やかに今回の案件について語りはじめた。
 対する二階堂副社長は不遜な表情のまま、黙って相手の話を聞いていた。
 桃花はといえば、上司の態度が気になって、案件の内容が全く頭に入ってこない。

(普段は愛想が良いのに、本当にどうしたというの……!?)

 話が終盤を迎えた頃、嵯峨野が思いがけないことを二階堂副社長に問いかけた。

「ああ、そういえば、総悟くんはまだ結婚はしていないのかな?」

 ドキン。
 桃花の心臓がなぜだか跳ねてしまう。

(私は……二階堂副社長の結婚話に何を動揺しているの……?)

 ドキドキしながら、二階堂副社長の返答を待つ。

「今のご時世、結婚していない男の方が多いですよ。それにだ、嵯峨野さん、貴方も結婚していないじゃないですか? 竹芝と同い年のはずじゃなかったですかね?」

 総悟の不遜な態度に対しても、嵯峨野はわりと淡々と対応していた。

「勿論。私は……誰とも結婚する気はない……」

 少しだけ嵯峨野の表情が陰った後、桃花のことなど見えていないかのように語り続ける。

「彼女がいなくなった心の傷は他の女性では埋めることはできない。ああ、総悟くん、もしかして君も彼女のことがあるから結婚しないのかな」

「そんなの、あんたに関係ないだろう……」

 二階堂副社長の表情に憤怒が見え隠れする。

(彼女……)

 桃花の胸がズキンとする。
 二人はどうやら《《一人の女性》》の話をしているらしい。

(もしかして、二人が話しているのは、二階堂副社長が持っている写真の女性のこと……?)

 桃花の勝手な想像かもしれないが、なんとなくそんな気がしていた。
 最近の二階堂副社長は仕事に対して真摯に向き合っていたのだ。だから、ここまで態度を悪くする理由が、写真の女性に関することなのではないか?
 そんな風に思ったのだ。

 ズキンズキン。
 
 桃花の心臓がどんどん痛くなってくる。

(二階堂副社長に好きな女性がいたからって、私には関係ないじゃない……)

 だけど、なんだか息が出来ないぐらい、その場に立っているのが辛くて苦しかった。

「それでは、総悟くん、この取引は継続ということで」

「はいはい、そうですね、それじゃあ継続ということで」

 そこで桃花はハッとした。

(私、仕事中なのに何をぼんやりして……)

 今までの自分だったら絶対にありえないことだ。
 桃花の眼の前では、嵯峨野が二階堂副社長に向かって別れを告げている。

「それではまた」

「…………」

 相手が立ち去った後、しばらくフロアに沈黙が訪れた。
 気を取り直した桃花は、佇む二階堂副社長に向かって声をかけた。

「あの……」

「ああ、桃花ちゃん、ごめんね、おかしなところを見せちゃってさ」

 少しだけバツが悪そうな表情を彼は浮かべている。
 最近の桃花だったら、「副社長、取引先相手にあんな態度はダメです!」と答えてしまいそうな場面だったのだが、どうしてだか元気が出ず、歯切れの悪い返答をしてしまう。

「いいえ」

「……桃花ちゃん?」

 二階堂副社長が桃花の顔を覗いてくる。
 だけど、なんとなく相手の顔を見るのが怖かった。

(二階堂副社長にとってすごく大事な女性)

 ……その後の就業時間にも、二階堂副社長が後生大事に持っている写真のことが浮かんでは消えていって、だいぶ仕事にならなかったのだ。